ムラ(Mura)

2025年7月18日(金)の最後、三番目に訪れたのはMura、Sant Martí de Muraです。

ここは、西扉口が良いです。

教会は閉まっていました。私は教会に入りませんでした。現地にあった掲示によると、毎週日曜12:30に聖ミサがあるようでした。

目次

1. Mura .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 内観 .
5. 外観(北壁) .
6. 外観(主後陣) .
7. 外観(西扉口) .

1. Mura

ムラ(Mura)は、カタルーニャ州バルセロナ県にあり、州都であり県都であるバルセロナの約35km北に位置します。

絵のように美しい村で、オバック山脈の北、青々とした山並みに囲まれています。

石畳の細い道が続く村の中は、許可のある車だけが通行できます。私は村の外に車を停めて歩きました。

村の入口

教会は、村の中心、ネスプレス(Nespres)川を見下ろす突端にあります。

北東側外観

2. 概要

教会の外にQRコードがありました。QRコードのリンク先について、私が一部を抜粋して太字で和訳します。

教会が初めて言及された文書記録は972年である。1066年以前に教区教会となり、その後、一度もその機能を失っていない。

複雑な構造を持つロマネスク様式の建物で、様々な時代の異なる建築段階が明確に確認でき、幾度もの改築と拡張が施されている。元々は小さな単身廊の教会であったが、三身廊を持つ大規模な教会へと発展を遂げた。

最も古い身廊は北側のもので、11世紀のプレ・ロマネスク期に遡る。中央の身廊は12世紀のもので、南側の第三の身廊は近代的な拡張部分である。

この建物は、盲アーチで装飾された東側後陣、三つの身廊、ロマネスク様式の扉口、切妻屋根、ランタン塔、鐘楼を備えている。

11世紀に建てられた古い教会は、後のロマネスク様式の増築部分に組み込まれており、主に聖壇部分でいくつかの要素が保存されている。この東側部分には、古い教会の内陣が今も残っている。現在は北側廊に相当し、傾斜屋根を支える切妻で終わっている。そこには3つの開口部がある。二つの半円形の窓と、中央にある円形の窓である。北壁は盲アーチで装飾されており、全て粗削りの石で造られている。

12世紀、旧身廊と並行する新たな身廊が南側に拡張され、樽型ヴォールトで覆われた。東側には半円形後陣を有し、外部はコーニスと半円柱(アカンサス文様柱頭)に支えられた六つのアーチで装飾され、三つの窓が設けられている。内部にはドームで覆われた三つのニッチがある。後陣は半円形の勝利アーチによって身廊から分離されている。この身廊と古い身廊の接続部は、当初は梁で支えられていたが、ゴシック期にアーチに置き換えられた。

17世紀、より近代的な南側廊が建てられ、ゴシック期のものと同様の特徴を持つアーチで接続された。また、外部では、石積み模様の漆喰で構造物が統一され、鐘楼が追加された。

1984年の改修工事中、壁で塞がれていた古い扉口から石棺と文書の断片が発見された。後者は現在、研究のためビク教区に保管されている。

この後は、Románico Digital を引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

Románico Digital による平面図です。東が右です。

Románico Digital より

4. 内観

私は教会に入っていません。Románico Digital による画像です。

後陣の内部空間は、非常に美しい。四分円形のヴォールトで覆われており、2本の放射状のリブが交差している。

Románico Digital より

祭壇の上部には、Guilelm Sendre / Geribert sub diacono cum omnibus parentibus meis vivis et defunctis / Gouan pun…(Guilelm Sendre、副助祭Geribert、生者と死者のすべての親族、Gouan pun…)という碑文が残っている。

この碑文に記されている名前は、この種の碑文では通常ラテン語で書かれるところ、奇妙なことにカタルーニャ語で書かれているが、ムラ(Mura)に関する文書に引用されている人物とは一致しない。当時、特に11世紀にはこうした名前がかなり頻繁に使用されていたため、人物を特定することは事実上不可能である。参照した文書集には、11世紀後半から12世紀初頭にかけて、Guillem Sendred という名前が集中して登場しているものの、この情報に基づいて具体的な年代を特定することは危険である。

5. 外観(北壁)

北壁をみます。最も古い部分です。

北東側外観

北壁には盲アーチが残っています。

特徴的なM字形の盲アーチ。これは、11世紀頃の特徴のように思います。

北壁

6. 外観(主後陣)

主後陣には、様式化された植物や幾何学模様の柱頭があります。

主後陣

7. 外観(西扉口)

西に行きます。目当ての扉口があります。

この扉口は、1915年に撤去されたポーチによって保護されていた。これにより、多色塗装の一部が保存され、その痕跡は今日でも、例えば、香炉を持つ天使たちや寄進者が持つ書物、ティンパヌムを囲むモールディングそして南側の柱頭など、いくつかの部分で観察することができる。

西側外観

ティンパヌムには、「東方三博士の礼拝」(『マタイによる福音書』2章)が彫られています。

この場面は、王冠を戴き、玉座に座り、知恵の座(Sedes Sapientiae)として描かれた聖母マリアが中央に堂々と座り、膝の上の幼子イエスが右腕を上げて祝福の姿勢をとっている。

ティンパヌム

イエスから見て右側には、東方三博士が捧げ物を差し出しています。

ティンパヌム(東方三博士)

イエスから見て左側には、2人の人物がいます。聖ヨセフと寄贈者のようです。

1人目は聖ヨセフで、座った姿で、チュニックとマントを身に着け、ひげを生やし、中央分けの半長髪で、両手でタウ字型の杖を握っている。その右側、作品の隅には、より小柄な人物がチュニックと上祭服を身につけ、本を手にした姿で描かれている。この人物は、羊飼い、ご生誕に関連する助産師あるいは Xavier Barral が示唆したように寄贈者であると見なされてきた。この説は、Rosa Alcoy も支持しており、彼女は、この人物が手に持っている本に重点を置き、カタルーニャの絵画に描かれた聖職者の像との類似点を指摘している。上祭服を着用していることは、助産師や羊飼いの可能性を排除する追加的な根拠となる。この典礼用衣類の存在から、この人物は聖マルティヌス、つまりこの教会の守護聖人であり、その生涯が扉口の柱頭彫刻に彫られている聖人であると解釈することも可能である。しかし、司教の威厳を象徴するミトラと司教杖がないことから、この解釈は否定されるであろう。

ティンパヌム(聖ヨセフともう1人の人物)

私が好きなのは、天使です。左手で香炉を揺らし、右手には本を持っているようです。

恩寵に満ちています。

ティンパヌム(天使)

扉口の柱頭には、聖マルティヌスの生涯の場面が彫られています。

右(南)側の柱頭には、馬上の聖マルティヌスと、司教のミトラを授けられる聖マルティヌス。

西暦330年ごろ、ローマ軍の仕官だったマルティヌスは、ガリアのアミアンに派遣されていました。とても寒い晩、半裸で震えている物乞いを見て、気の毒に思ったマルティヌスは自分のマントを半分に切り裂き、物乞いにかけてやりました。イエスの言葉「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(『マタイによる福音書』25章40節)を実行したのです。やがてキリスト教徒になったマルティヌスはローマ軍から除隊。その後、ガリア地方初の修道院をリグジェ(Ligugé)に設立し、トゥール(Tours)の司教になりました。田舎に福音を伝道し、小教区を設立するなど、ガリア地方の布教者として初期キリスト教時代の信仰に決定的な影響を与えました。

柱頭(馬上の聖マルティヌス)

左(北)側の柱頭には、昇天する聖マルティヌス。

修道士のような髪型を持つ聖マルティヌスがベッドに横たわり、その魂は、両手を合わせて祈る姿勢で2人の天使によって運ばれています。ベッドの頭部に、足に爪を持つ悪魔が死者の魂を奪おうとしていますが、失敗しています。悪魔の背後には、別の修道士が十字架を持ち、悪魔をこらしめています。

Barral は、これらの場面が Puigbó(ビク司教区美術館)の祭壇画に描かれている場面と一致していることを指摘し、その板に刻まれた「d(on)ans inopem terris martinvs vivet e celis(地上で貧しい者に施しを与えることで、マルティヌスは天国で生きる)」という碑文により、ムラ(Mura)教会の柱頭彫刻に描かれた場面を説明できると述べている。

柱頭(司教のミトラを授けられる聖マルティヌス)

Románico Digital は、サンタ・マリア・デ・マンレサ(Santa Maria de Manresa)、サントペドル(Santpedor)やサン・クガ・デル・バリェス(Sant Cugat del Vallès)との関連性について論じています。

こうした作品との関連性、そしてティンパヌムに寄贈者が彫られていることから、この扉口は12世紀末から13世紀初頭にかけての作と推定できる。

Sant Martí de Mura。西扉口が良いです。

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