スビアコ(Subiaco)<2>

前回に Monastero di San Benedetto を見学したので、今回はもうひとつの修道院に行きます。Monastero di Santa Scolastica です。

ここは、鐘楼とコズマ一族(Cosmati) (1)の回廊が素晴らしいです。

目次

Monastero di Santa Scolastica へ .
修道院の窓口へ .
概要 .
フロアプラン .
コズマ一族の回廊(Chiostro dei Cosmati) .
鐘楼 .
脚注(1)コズマ一族(Cosmati)  .

Monastero di Santa Scolastica へ

私は、Monastero di San Benedetto から北西に約2km、5分ほど運転して、タレオ(Taleo)山の裾野の修道院につきました。11時頃のことです。

駐車場に車を停めると、ベルの音が聞こえて、緑のオリーブの木々の間に、白いものがちらちら。見ると、もこもこの可愛い羊たちが歩いています。修道院の方を向くと、ロマネスク様式の鐘楼が見えました。

https://youtu.be/DoD5UVQtILA

なんだか、心が落ち着きます。

修道院の窓口へ

門をくぐり、中に入って窓口の人に見学をしたい旨を告げると「5分でガイドが来ます」とのこと。

Monastero di Santa Scolastica(西側外観)

本当に5分でガイドが来ました。見学の開始です。鐘楼と古い回廊をみたい旨を申し出ると「わかりました!」とのこと。

概要

教会の外にも中にもたくさん案内板がありました。引用しながら太字でまとめます。

なお、括弧内のアルファベットは、イタリア語です。

聖ベネディクトはアニエネ(Aniene)の谷に12の修道院を設立したが、地震やサラセン人によって破壊され、現存しているのは聖スコラスティカ修道院(Monastero di Santa Scolastica)だけである。

もともとは、聖ベネディクトがシルウェリウス(San Silvestro)に捧げた修道院であった。9世紀頃から聖ベネディクトと聖スコラスティカ(Santi Benedetto e Scolastica)と呼ばれるようになった。

12世紀末には、スビアコ(Subiaco)で唯一の修道院となっていたが、岩山の上に新しい修道院が設立された。聖ベネディクト修道院(Monastero di San Benedetto)である。福者パロンボ(Beato Palombo)が「聖なる岩窟(Sacro Speco)」のそばに隠者として住む許可を求め、他の修道士がこれに従ったことに端を発する。

その後、14世紀末に聖スコラスティカのみに捧げられ、聖ベネディクト・サクロ・スペコ修道院(Monastero di San Benedetto – Sacro Speco)と区別されるようになった。

修道院は、「Ora et Labora」と刻まれた20世紀の入り口から、16世紀の「ルネサンス回廊」と呼ばれる第一回廊に入り、そこから14世紀の「ゴシック回廊」、そして最後に13世紀の「コズマ一族(Cosmati) (1)の回廊」と呼ばれる第三回廊に入るという、異なる時代や様式で建てられた複合体となっている。

鐘楼は12世紀に遡る。

教会は、何世紀にもわたって、同じ場所に少なくとも五つの教会が建て直された。第1は聖ベネディクトが建てた6世紀初頭のシルウェリウスの小礼拝堂(Oratorio di San Silvestro)である。その小礼拝堂の上に、おそらく9世紀に2番目の教会が建てられた。980年に奉献された第3の教会はロマネスク様式で建てられ、その後14世紀第4の教会シトー会ゴシック様式で建てられた。現在の教会は18世紀後半に建てられた第5の教会である。

案内板にあったフロアプランです(クリックで拡大します)。東が上です。

教会のフロアプラン

1463年から1464年にかけてドイツ人印刷工によって建設された、イタリアで最も古い印刷所がある。また、貴重なインキュナブラ、羊皮紙の巻物、ビザンチンの細密画、その他の写本や文書を擁する図書館や資料館が今も現役である。

インキュナブラ(incunabolo)は、印刷術発展の初期にあたる15世紀に印刷された、扉のない初期刊本です。

この修道院は国に帰属し、スビアコのベネディクト会によって宗教儀式が行われ、修道士たちは聖ベネディクトの規則に従って生活を続けている。

フロアプラン

修道院のフロアプラン。

赤い四角がロマネスク様式の鐘楼、その東にあるのがコズマ一族(Cosmati) (1)の回廊です。

コズマ一族の回廊(Chiostro dei Cosmati)

さっそく、見学です。ガイドから聞いた話は紫字で書きます。

Chiostro dei Cosmati

南側にある石灰岩のアーチには、”Magister Jacobus Romanus fecit hoc opus”と書かれています。

“Magister Jacobus Romanus fecit hoc opus”

作者である大理石職人ヤコポが、おそらく1210年以前に制作を開始したことを示しています。彼の息子コズマは、1240年頃に父が亡くなると、息子のルカとヤコポとともに建築を継続し完成させました。

おじいちゃんが引き受けた仕事を、子と孫が完成させた形です。

円柱ばかりではなく、ねじれ柱もあります。

Chiostro dei Cosmati
Chiostro dei Cosmati

また、怪物のような頭部が彫刻されている柱もあります。

怪物のような頭部のある柱
怪物のような頭部
変な頭部

床モザイクだけじゃないんですね、コズマ一族(Cosmati) (1)

鐘楼

コズマ一族(Cosmati)の回廊から西を向くと、12世紀に建てられたロマネスク様式の鐘楼があります。

コズマ一族(Cosmati) (1)の回廊にて西を向く

高さ30メートル。

鐘楼の基部は、教会への入り口でもあり、装飾の断片が残っています。

教会を背にした東側のアーチには神の手が描かれており、三つの円と3本の指の組み合わせによって、神は唯一であり、三位一体であるという考え方が示されています。

東側のアーチ
東側のアーチ

反対側のアーチには神の子羊が描かれ、周りには有翼動物の体を持つ4人がいます。

西側のアーチ
西側のアーチ

周りに修道院の建物があるので、なかなかうまく撮影できないんですが。

鐘楼

美しい鐘楼です。

見学の終わりに

Monastero di San Benedetto、鐘楼とコズマ一族(Cosmati) の回廊が素晴らしいです。

脚注(1)コズマ一族(Cosmati).↩️

手元の小学館の伊和辞典によると、Cosmati: コズマ一族(12-14世紀、主として大理石装飾技術、モザイク記述に長じ、ローマを中心に活躍した)とあります。

つまり、コズマーティってかなり限定的なんです。

調べてみると、コズマ一族(Cosmati) は、主に4世代が活躍していました。

第1世代
テバルドの子、ロレンツォ(Lorenzo di Tebaldo)

第2世代
ロレンツォの子、ヤコポ(Jacopo di Lorenzo)

第3世代
ヤコポの子、コズマ(Cosma di Jacopo di Lorenzo)

第4世代
コズマの子、ルカ(Luca di Cosma)
コズマの子、ヤコポ(Jacopo di Cosma)

(ちなみに、ロレンツォ(Lorenzo di Tebaldo)の父テバルド(Tebaldo)も大理石職人でしたが、活躍したとは見なされていないようです。)

名前の由来はコズマ(Cosma)です。

「ローマの大理石職人たちが、しばしば誤ってCosmatiと総称される」と、Luca Creti 博士が2002年の短い論文『I «COSMATI» A ROMA E NEL LAZIO』で言っています。同論文には、いくつかの一族の家系図が載っています。例えば:
famiglia di Paolo
famiglia di Rainerius
famiglia di Lorenzo(コズマ一族のことです)
famiglia dei Vassalletto
famiglia di Pietro Mellini

コズマ一族(Cosmati)ではない大理石職人がいっぱいいて、その職人たちも似た様式の優れた作品を数多く残しています。実は、彼らの作品は「コズマふうの(cosmatesco)」という形容詞で紹介されることも多くて、まぎらわしいのです。私のブログでは、できるだけ、コズマ一族(Cosmati)とはっきりわかるときだけ、コズマーティ(Cosmati)の言葉を使います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です