サン=ティレール(Saint-Hilaire)

2025年8月6日(水)、最初に訪れたのはSaint-Hilaire、Abbaye de Saint-Hilaireです。

ここは、聖サトゥルニヌスの「石棺」(”sarcophage” de saint Sernin)が素晴らしいです。

2025年、修道院は以下の日程で開いていました。有料(€6)でした。
7月と8月は毎日10:00〜19:00
4月、5月、6月、9月と10月は毎日10:00〜18:00
1月、2月、3月、11月と12月は毎日10:00〜17:00

目次

1. Saint-Hilaire .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 内観 .

1. Saint-Hilaire

サン=ティレール(Saint-Hilaire)は、オクシタニー地域圏オード県にあり、県都であるカルカソンヌの約10km南西に位置します。

修道院は、村の中心にあります。

北東側外観

上の写真で左側にある階段(赤い矢印で示したところ)からアクセスします。

階段を上ると受付があります。教会は案内図に②と示されています。

案内図より

2. 概要

修道院の中に案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

年表

6世紀
カルカソンヌの初代司教である聖ヒラリウス(Saint Hilaire)が礼拝堂に埋葬された。同時期のイタリアでは、ヌルシアの聖ベネディクトがモンテ・カッシーノ修道院で会則を策定した。

8世紀末
ベネディクト会修道士の一団がこの地に定住し、聖サトゥルニヌス(Saint Sernin)に捧げられた修道院を建立した。
カール大帝は、サラセン人の侵入に対抗するため、現在のオード県一帯におけるベネディクト会修道院の拡大を後押しした。

10世紀
978年、カルカソンヌ伯ロジェ1世の立会いのもと、聖ヒラリウス(Saint Hilaire)の遺骨が移葬された。
ロジェ1世は1012年、この地に埋葬された。

10~12世紀
カルカソンヌ伯の庇護を受け、信仰の聖地のひとつとなったことで、修道院は繁栄した。

13世紀
アルビジョワ十字軍に関連する深刻な困難に見舞われ、修道士たちは異端を助長していると告発された。
1226年、カルカソンヌ伯領が併合され、フランス王家の支配下に入り伯爵家による支援を失った。プルイユ(Prouilhe)のドミニコ会修道女たちとの対立は裁判にまで発展し、財産を失った。

14世紀
現在の回廊が建設され、その後、治安の悪化と黒死病の流行に伴い城壁が築かれた。

16世紀
1531年、修道士たちは地下貯蔵庫で「ブランケット(Blanquette)」を発見した。これは世界初のスパークリングワインである。
1534年、修道院は正式に「コマンド(commende、空位聖職禄臨時保有)」の制度下に置かれた。

17世紀
1639年から1664年にかけて、この修道院をサン=モール修道会に統合しようと試みられたが、失敗に終わった。継続的な財政難により、修道院は徐々に衰退していった。

18世紀
1748年、修道院に残っていた最後の6人の修道士が去った。サン=ティレール(Saint-Hilaire)における修道生活は完全に終焉を迎えた。
1758年、修道院教会は教区教会となった。
1791年頃、建物は個別の区画に分けて売却された。

19~20世紀
1840年、教会は歴史的建造物に指定された。1846年には回廊が、続いて1914年には天井画が指定を受けた。
2001年、村が通年営業の観光案内所を開設した。修道院はカタリ地方の主要観光地となった。

この後も、案内板を引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

案内板による平面図です。東が上です。

案内板より

赤い丸で示された南小後陣に、聖サトゥルニヌスの「石棺」(”sarcophage” de saint Sernin)があります。

4. 内観

教会に行きます。

身廊にて東を向く

南小後陣に行きます。

聖サトゥルニヌスの「石棺」(”sarcophage” de saint Sernin)があります。

南小後陣

12世紀、ある工房が南部の特定の地域においてロマネスク美術の頂点を極めた。それがカベスタニーの親方(Maître de Cabestany)の工房である。サン=パプル(Saint-Papoul)と同様、ここでも彼は傑作を生み出した。

「石棺(sarcophage)」と呼ばれていますが、これは主祭壇でした。

古代の石棺の形をしているが、これは聖遺物箱である。かつては旧修道院教会の主祭壇として用いられていた。12世紀後半に制作され、聖サトゥルニヌス(Saint Sernin)の殉教を描いている。

”sarcophage” du Maître de Cabestany

聖サトゥルニヌス(Saint Sernin)の殉教
3世紀、教皇ファビアヌスは聖サトゥルニヌス(Saint Sernin)をガリアへの布教に派遣した。彼はトゥールーズに到着し、同地の初代司教となった。
彼はローマの宗教当局から嫌われていた。彼が神殿の前を通り過ぎると、神託は沈黙してしまうのである。西暦250年頃のある日、彼はローマの神々に香を捧げるよう命じられた。彼はこれを拒否した。彼は逮捕され、死刑を宣告された。生贄として用意された雄牛に縛り付けられ、街中を引きずり回された。若い娘たちが彼の遺体を回収し、キリスト教の儀式に従って埋葬した。彼女たちは「聖なる乙女たち(Les Saintes Puelles)」と呼ばれ、自らも鞭打たれ、トゥールーズから追放された。彼女たちはカステルノーダリ(Castelnaudary)近郊の村に避難し、その村はそれ以来「マス=サント=ピュエル(Le Mas-Saintes-Puelles)」と呼ばれるようになった。

場面は、向かって右(南)から左(北)へと進みす。

南面には、弟子たちに囲まれて伝道する聖サトゥルニヌス(Saint Sernin)が彫られています。聖サトゥルニヌス(Saint Sernin)は、司教杖と福音書を手にしています。弟子たちは、この地方の伝道者聖パプルス(Saint-Papoul)と、パンプローナの司教となった聖ホネストゥス(Saint Honest)だと思います。

南面

正面(西面)には、トゥールーズでの逮捕と拷問の場面が次々と描かれます。

人物たちの手は、カベスタニー(Cabestany)のティンパヌムに比べると、かなり小さいです。

西面南側

拷問は、雄牛に引きずられるというものです。

雄牛は、大理石の枠から飛び出すくらい、突進しています。

西面北側

最後、北面に、「聖なる乙女たち(Les Saintes Puelles)」による埋葬、そして殉教した聖サトゥルニヌス(Saint Sernin)の魂が天使によって天に上げられる様子が彫られています。

北面

Abbaye de Saint-Hilaire。聖サトゥルニヌスの「石棺」(”sarcophage” de saint Sernin)が素晴らしいです。

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