2024年9月6日(金)、三番目に訪れたのはFrómista、サン・マルティン・デ・フロミスタ教会(Iglesia de San Martín de Frómista)です。
ここは、レオン・カスティーリャ王国の貴重な遺産です。
2024年夏、教会は毎日9:30〜14:00と16:30〜20:00に開いていました。有料(€1.50)でした。
目次
1. Frómista へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 1900年頃の修復 .
5. 外観 .
6. 内観 .
1. Frómista へ
フロミスタ(Frómista)は、カスティーリャ・イ・レオン州パレンシア県にある村で、県都パレンシアの約30km北東にあります。
教会は村の中心にあります。

私は南翼廊から入り、料金を支払って見学を始めました。
2. 概要
教会の中に11枚の案内パネルがありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
創設
サン・マルティン・デ・フロミスタ修道院(monasterio de San Martín de Frómista)は、1060年代にその歴史を歩み始めた。フロミスタの既存の集落に修道院を設立することは、1066年に、マヨール(またはムニアドナ)・ガルシアが70代で亡くなる少し前に作成した遺言に記されている。マヨールは遺言の中で、サン・マルティン修道院とその付属地区の創設者として登場する。
遺言を作成した時点で、サン・マルティン修道院は建設中であり、その規模については言及されていないが、おそらく小規模だったと思われる。この文書に聖ベネディクトの規則に従う3人の修道士しか記載されていないことは、非常に意味深い。
また、この文書から、マヨールは死後、夫であるパンプローナ王サンチョ3世が眠るサン・サルバドール・デ・オニャ修道院(monasterio de San Salvador de Oña)に埋葬されるまで、この施設で隠遁生活を送っていたことがわかる。
サン・マルティン・デ・フロミスタ修道院は、名高い聖遺物を保存していたわけでも、創設者が修道院内に埋葬されていたわけでもなかった。とはいえ、イベリア半島北西部の主要都市間の交通の要所であり、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路の途中に位置するというその絶好の立地は、その地位を重要なものへと押し上げた。
建物の建築年代については、二つの説(1080年代または1120年代)があります。
1080年代と考えられる根拠については、6. 内観に書きます。
1120年代と考えられる根拠は、以下のとおりです。
1109年にレオン・カスティーリャ王アルフォンソ6世が死去すると、1070年代から始まったヨーロッパ化のプロセスによって蓄積されたさまざまな政治的・社会的緊張が爆発し、大規模な紛争が複数の戦線で発生した。これらの紛争の背景には、王国の相続人ウラカ(1109-1126)とアラゴン王の武人王アルフォンソ(1108-1134)との結婚が失敗に終わったことがあった。
ウラカ女王とアラゴン王アルフォンソの領土境界線がカリオン(Carrión)川に定まり、ウラカ女王は、修道院長エステバンが率いるサン・ソイロ・デ・カリオン小修道院(priorato de San Zoilo de Carrión)のクリュニー会修道士たちからの強力な支援を得た。紛争の最も激しかった時期が過ぎると、女王は、それまで王室の所有であったサン・マルティン・デ・フロミスタ修道院を、彼女の「忠実な友人」とみなしていた修道院長エステバンに贈った(1118年)。
サン・マルティン教会の建築年代については、二つの説がある。1080年代、そして修道院がクリュニーに編入された1118年より後の1120年代である。
クリュニー修道会の美的・典礼上の要求と、1118年にサン・マルティン修道院の支配権を獲得したことを考慮すると、現在のロマネスク様式の建物は、それより前に建てられたスペインの伝統に基づく初期ロマネスク様式の建物に取って代わったものである可能性がある。
クリュニー修道会の美的要求というのは、教会の内部や外部にぜいたくに凝らされた彫刻と、八角形の鐘楼に象徴されているように思います。どちらも、11世紀後半のパレンシア周辺における伝統的教会建物にはあまり見ないものです。
そして、クリュニー修道会の典礼上の要求というのは、今は失われた小さな西側のポーチに象徴されます。
修復の数世紀前に失われていた西側の小ポルティコは、その遺構(アーチの基部)が1900年頃の修復によって除去されてしまったが、サン・マルティンとクリュニー修道会の結びつきを強めるものである。こうしたポルティコは、伝統的にクリュニー修道会によって建設された教会にあり、クリュニー修道会が実践した厳格な典礼と密接な関係があった。死の克服を象徴する意味合いから、クリュニーの修道士たちは、教会のこのポルティコのあるエリアを「ガリラヤ」と呼んでいた。
さらに、案内パネルは、クリュニー修道会によって建設された教会の例として二つの教会をあげ、類似性を論じます。
サン・ソイロ・デ・カリオン(San Zoilo de Carrión)教会やサン・イシドロ・デ・ドゥエニャス(San Isidro de Dueñas)といったクリュニー修道院によって建てられたロマネスク様式の教会は、西側の小ポルティコに加え、西壁が非常に厚く西扉口の上に塔からアクセスできる壁内の通路が設けられていた。

1900年頃、建築家であり修復家でもある人物が、サン・マルティン・デ・フロミスタ教会の廃墟の修復に着手したとき、かつての西扉口の両側に二つの切り取られたアーチがあったことを記録した。それらが失われたポーチの残骸であることを理解できなかった彼は、ファサード全体を再建してそれらを撤去することを選択した。この再建では、西側の壁の元の厚みを薄くすることも行った。
西壁が非常に厚く西扉口の上に塔からアクセスできる壁内の通路が設けられている建物といえば、私が思い出すのはコベット(Covet)です。これは12世紀の建物です。
さて、12世紀を頂点とし、修道院は衰退に向かいます。
サン・マルティン・デ・フロミスタ修道院の衰退の最初の兆しは、クリュニー修道会全体の危機という状況の中で見られた。その兆しは13世紀にはすでに明らかであり、その後2世紀にわたってさらに大きくなった。
この後も、案内パネルを引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
案内パネルによる予想復元図です。東が右です。

4. 1900年頃の修復
1900年頃の修復について、2. 概要で少し書きましたが、教会の見学に関係がある事柄について補足します。
教会は、19世紀には極度の荒廃状態にあった。
1895年にサン・フェルナンド王立美術アカデミーが最終的なプロジェクトを承認した。建築家マヌエル・アニバル・アルバレスによって策定されたこのプロジェクトは、教会ほぼ全体の解体を想定しており、元の構造に追加された部分、特に問題のある交差部の上層部と多角形のアクセス塔を取り除くことを内容としていた。

また、北側には、ギャラリー、聖母被昇天に捧げられた小さな礼拝堂、そして第二礼拝堂が追加されていた。さらに、南側にはレンガ造りの聖具室が追加され、西側には日干しレンガで建てられた増築部分があった。

この西側の増築部分を撤去した際、元の西側ファサードが後代に改変されていたことが判明した。この改変は、建物の長さを延長するために実施されたもので、その結果、西側のロマネスク様式の扉口は破壊され、側壁には穴が開けられていた。身廊に通じていた元の扉口の両側に二つの切り取られたアーチが残っていたことが記録されているため、このロマネスク様式の教会は、もともと小さなポルティコがあったと考えられる。
1900年頃の修復は、元のロマネスク様式の建物の大きさを尊重し、後代の増改築が撤去されました。
修復が完了して以来、その修復内容は現在も論争の的となっている。確かなことは、建物は概ね元のロマネスク様式の建物の体積に等しいことである。
残念だったのは、建築資材が交換され、多くの彫刻が新しく制作された彫刻に置き換えられたことです。
修復作業で最も批判された点は、建物がほぼ完全に解体され、その建築材料がほぼ完全に交換されたことである。また、外部(持ち送り)や内部(柱頭)といった多くの彫刻要素を、装飾のない要素で置き換えるのではなく新しく制作したことも、適切な対応ではなかった。間違いなく肯定的な点は、建物を差し迫った崩壊から救ったことである。
5. 外観
西に行きます。
模型(1900年頃の修復前の姿)に比べると、すっかり整った姿になっています。
一方、元のロマネスク教会にあったと思われる小さな西側ポルティコはありません。また、西壁は薄く改築されています。

北に行きます。
教会の外側には、合計約300もの持ち送りがあります。

持ち送りには、とても良い彫刻があります。
でも、どの彫刻が元からあったロマネスク様式で、どの彫刻が1900年頃の修復で新しく制作されたものなのか、よく分かりません。
6. 内観
教会の中に入ります。

教会の中には約50もの見事な柱頭彫刻があります。
それらの多くは1900年頃の修復で新しく制作されたものです。新しく制作されたもののいくつか(全てではありません)には「R」の文字があります。
柱頭は、植物や編み模様を彫ったもの、聖書の場面(「原罪」、「楽園からの追放」、「東方三博士の礼拝」など)を彫ったもの、動物や人物によって教訓的な場面(カラスとキツネの寓話やギリシャ・ローマの古典)を彫ったものなどがあります。

教会の建築年代を1180年代と考える根拠のひとつが、ギリシャ・ローマの古典を彫った柱頭です。
19世紀末にサン・マルティン教会が評価されて以来、国内外の美術史家たちは、この教会に施された柱頭や持ち送りの一部が、ギリシャ・ローマ世界への強い愛着を反映していることを繰り返し指摘してきた。職人のうち少なくとも1人は、墓や古代遺跡などを通じて、古典的な彫刻芸術を深く研究していたようだ。
ハカ(Jaca)にあるロマネスク様式の大聖堂の彫刻にも同様の古典世界への愛着が見られることから、サン・マルティン教会の建築年代はハカ大聖堂(catedral de Jaca)の建築年代と同様と考えられる傾向があった。現在、ハカ大聖堂は1076年から1090年の間に建設されたことがわかっている。
ギリシャ・ローマの古典を彫った柱頭のひとつが『オレステイア』をテーマにしたこちらです。

1902年から1903年頃、修復工事中にその場所から取り外された後、そこに描かれた人物の裸体が教会には不適切だと誰かが判断し、破壊された。この事故の後、柱頭は複製と交換され、現在その複製が教会内に展示されている。オリジナルはパレンシア博物館に保管されている。

1973年、セラフィン・モラレホ・アルバレス(Serafín Moralejo Álvarez)がこの作品の古典的な源を明らかにした。ウシージョス教会(Colegiata de Husillos、フロミスタから南へ約25km)に保存されていた、2世紀のローマ時代の石棺である。そこにはアイスキュロスの『オレステイア』の最も緊張感に満ちた場面、すなわちオレステースが母クリュタイムネーストラーを襲う場面が彫られている。

何を描いたのかよく分からないロマネスク作品って、あちこちにたくさんあります。こんな風に着想の源を明らかにできる研究者、すごい。
サン・マルティン・デ・フロミスタ教会(Iglesia de San Martín de Frómista)。レオン・カスティーリャ王国の貴重な遺産です。
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