ビトント(Bitonto)

2024年8月5日(月)、二番目に訪れたのはBitonto、Concattedrale di Maria Assuntaです。

ここは、上部教会では外部の西扉口と南ギャラリーが素晴らしく、内部の柱頭彫刻と説教壇も注目です。地下聖堂の柱頭彫刻もいいです。考古学エリアでは床モザイクに圧倒されます。

2024年、地上部分は毎日8:00〜12:00と1630〜20:00に開いていました。考古学エリアの訪問は土曜10:00〜12:00と日曜11:45〜13:00または予約制で、有料(€3)です。私はFacebookのCattedrale di Bitonto – Scavi Archeologiciの投稿に従ってemailで予約しました。

目次

1. Bitonto へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観(上部教会) .
5. 内観(上部教会) .
6. 内観(地下聖堂) .
7. 内観(考古学エリア) .

1. Bitonto へ

ビトント(Bitonto)は、プーリア州バーリ県にある町で、県都であり州都であるバーリ(Bari)の約15km西にあります。

南西側外観

大聖堂は、町の歴史的中心部にあります。

2. 概要

教会の外に案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

ビトント大聖堂(Cattedrale di Bitonto)の地下にある考古学エリアは、地下聖堂からアクセスでき、地上の建物の床面から約3メートルの深さにある。このエリアは、10年間にわたる考古学調査(1991年~2001年)を経て、2002年3月20日に一般公開された。

見学コースは地下全域を巡るようになっており、ロマネスク様式の建物に先行する重要な遺構を見学できるもので、上部の建物の三つの身廊の真下に位置する三つの身廊が見られる。

モザイクの床、身廊を仕切る柱、外周の壁は、初期キリスト教時代(4世紀から6世紀)の建物を想像させる、印象的な証拠を提供している。

時を経て、初期中世時代(7世紀から11世紀)に拡張と改築が施された。

この後も、案内板を引用する時に太字で書きます。上部教会については、ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『PUGLIA ROMANICA』を引用し、太字で書きます。

3. 平面図

考古学エリアにあった案内掲示による平面図です。東が左です。

<初期キリスト教時代>
初期キリスト教時代の遺構:濃橙色
初期キリスト教時代の復元予想:薄橙色
現在の建物:黒線

案内掲示より

<初期中世時代>
初期中世時代の遺構:青色
現在の建物:黒線

案内掲示より

4. 外観(上部教会)

まず、上部教会の外側をみます。

東側

窓装飾が立派です。

東側外観
南側

南側廊の外壁には、聖ニコラウス教会(S. Nicola)と同じような、美しいギャラリーがあります。

南側外観

柱頭彫刻が素晴らしい。

ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『PUGLIA ROMANICA』より:

六連廊のギャラリーもまた、その装飾の豊かさを提供している。 西から東に向かって装飾装置はより多様で贅沢になり、最後の二つでは、柱頭と柱身を完全に支配し、暴れまわる。これは、説教壇(1229年)の作者であるニコロ自身によるものとみなすことができる(Calò Mariani)。

南側外観
西側

主扉口、みっちりと彫刻されています。

西側外観、主扉口

ティンパヌムには「冥府降下」、まぐさにはイエスの幼年期の物語が描かれているようです。

ティンパヌムは、ビザンチン様式の伝統に親しまれてきたアナスタシス(復活)が支配している。二重の十字架を掲げたキリストの姿があり、その両側には地獄から連れ出された先祖たちが描かれている。右側には、三角形の琴を持つダヴィデとソロモンが、左側にはアダムとそれに続くエバが描かれている。

まぐさには、受胎告知、ご訪問、東方三博士の礼拝、神殿奉献といった先例が並び、登場人物の特定を容易にするために後から追加された碑文によって、その理解がうながされる。

キリストとエバは、おたふくのような下膨れ顔です。かわいい。

西側外観、主扉口

5. 内観(上部教会)

次に、上部教会の内側をみます。

上部教会の身廊にて東を向く
柱頭彫刻と身廊の年代

柱頭は、植物が繊細に彫られています。

上部教会の身廊にて北東を向く
上部教会の身廊にて南東を向く

左(北)側の一番目の柱頭には、人物たちが描かれています。

『PUGLIA ROMANICA』より:

上部の2つの翼のある動物の間に王冠をかぶった人物が描かれており、王がしっかりと拳に握っている2本の棒の餌に引き寄せられたグリフォンが、アレクサンドロス大王を空へと引き上げているのがわかる。12世紀後半に、オトラント(Otranto)、タラント、トラーニ(Trani)の大聖堂の床モザイクに描かれたのと同じ場面である。

この柱頭は、身廊全体の年代が12世紀後半であることを裏付けている。

左(北)側の一番目の柱頭
説教壇

説教壇は、ほぼ全体が大理石で作られており、17世紀に解体され、元々は身廊の左側の最後の2本の柱の間にあったものを移動し、1720年に部分的かつ不完全に組み立てられた。不運にも、勝利アーチを支える右側の柱に寄りかかったまま、現在もその位置に置かれている。

説教壇

部分的かつ不完全な状態ではあるが、プーリア州で最も有名な彫刻群のひとつであり、その理由は作品の本質とはほとんど関係がない。

その理由はまず、明瞭に刻まれている碑文である。

HOC OPUS FECIT NICOLAUS / SACERDOS ET MAGISTER ANNO MILLESIMO / DUCENTESIMO VICESIMO / NONO I[N]DICTIONIS SECUNDE

二つ目の碑文がそれを裏付けている。

DOCTA MANUS ME FECIT AD HOC UT LECTIO VITAE HIC RECITATA FERAT FRUCTUS MENTIS

制作に貢献した司祭であり親方であるニコラウスの名前は、トラーニ大聖堂の鐘楼の台座にも刻まれ、この説教壇にも大きな文字で繰り返し刻まれている。また、1229年という制作年代が明記されていることは、13世紀におけるプーリアの彫刻制作の有機的な配置を示す貴重な一里塚となっている。

もちろん、この作品は作者の人格を定義できるものではない。特に、他の親方たちと同様に、この作品では、私の意見では、デザイナー、クリエイター、作品の監督という側面が強く、実際の彫刻家としての側面は時折見られる程度である。あるいは、両方の側面が混在している場合もあるが、その場合、どの部分が彼の作品で、どの部分が彼の指揮下で働く他の職人の作品なのかを区別することはできない。

説教壇

凝った装飾が施された縁で囲まれた三角形のスペースには、複雑で謎めいた浮き彫りが施されている。四つの人物像、すなわち玉座に座る1体と立ち姿の3体が、欄干の傾斜に沿って配置されている。

この場面解釈については、今も意見が分かれている。

論争は、個々の登場人物を特定する段階で始まる。座っている人物について、SchubringとBertauxはフリードリヒ2世とし、(中央に冠を被って立っている人物をコンスタンスと見なすことを提案している)Avenaはヘンリー6世としている。

さらに興味深いのは、おそらくこの大聖堂で1229年に執り行われた説教のテキストと図像を関連づけ、プーリアの都市の反乱が皇帝によって迅速に鎮圧された直後に執り行われた説教をニコラウス助祭が説いたと考える、Schallerの見解である。Schallerは、座っている人物をヘンリー6世に王笏を手渡すバルバロッサ(フリードリヒ1世)とし、その後に王位と関連付けられるフリードリヒ2世とコンラート4世が続いているとしている。

後にHeinrich Thelenがこの解釈に異議を唱えた。3人の立っている人物は男性だが、座っている人物は、髪型と王冠の種類から判断すると、女性を暗示している。すなわち、おそらく擬人化されたビトントの町である。中央に立ち、王冠を被った皇帝フリードリヒが、使者を通じて、王都としての地位を象徴する笏をビトントに送っているとしている。

要するに、今のところこの浮き彫りは、依然として謎のままである。

説教壇

空の窪みとなっている背景は、もともとは亀甲や真珠層製の円盤で埋められていた。

輝く装飾が施されていたようです。

6. 内観(地下聖堂)

地下に行きます。

地下聖堂にて北東を向く

柱頭彫刻がいいです。

地下聖堂にて東を向く

7. 内観(考古学エリア)

最後に、考古学エリアに行きます。

考古学エリアの入口(旧内陣にて西を向く)
初期キリスト教時代(4世紀から6世紀)

ツアーは、地下聖堂に通じる通路を抜け、内陣のエリアから始まる。このエリアには、ギリシャ・ローマ時代(紀元前1世紀〜1世紀)の壁の遺構のほか、初期キリスト教時代のオリジナルの多色モザイク床が保存されており、幾何学的な装飾パターンの中に、大きな象徴的要素として2羽のクジャクが描かれている。

考古学エリア:2羽のクジャク

案内掲示に、初期キリスト教時代の復元予想図がありました。内陣から西を向いています。

案内掲示より、初期キリスト教時代の復元予想図
初期中世時代(7世紀から11世紀)

大きな石灰岩の板を使って作られた床は、初期中世時代に修復された部分である。

身廊には、床の遺構に加え、9世紀から10世紀にかけて描かれたフレスコ画の痕跡が残されている。

考古学エリア:フレスコ画の痕跡

身廊の突き当たりには、おそらく塔であったと思われる四角い部分があり、古代バシリカの最も壮観な要素であるモザイクとオプス・セクティレの床を囲んでいる。床には、くちばしに花をくわえて厳かに立つグリフォンが描かれている。この作品は11世紀のもので、非常に高い美的価値を持つ。

圧倒的。

考古学エリア:グリフォン

Concattedrale di Maria Assunta。上部教会では外部の西扉口と南ギャラリーが素晴らしく、内部の柱頭彫刻と説教壇も注目です。地下聖堂の柱頭彫刻もいいです。考古学エリアでは床モザイクに圧倒されます。

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