2022年9月4日(日)の最後、二番目に訪れたのはSavigny。Musée lapidaire de l’abbaye de savigny です。
ここは、かつてこの村にあった大修道院の遺産(ロマネスク彫刻)が展示されている博物館。
開館は毎月第1日曜15時からのガイドツアーのみで、見学希望者はその日時に役場前に集合します。
Savigny へ
夫と私はプイイ=レ=フール(Pouilly-lès-Feurs)から東に44分ほど車を運転して、門前町に着きました。13時頃のことです。もしかして開館していたらありがたい、と思ったのですが、やっぱり閉館していました。仕方なく、15時まで時間をつぶしてから、役場に行きました。
青い矢印の場所が集合場所の役場(mairie)なのですが、ひとっこ1人いませんでした。しばらくウロウロしてそれらしい人を探し続け、あきらめようかと思ったころ、赤い矢印の建物の中に女性が1人いることに気づきました。思い切って声をかけると、うれしいことに、当たり!彼女がガイドでした。
夫は車で待っているというので、私とガイドの2人でガイドツアーの始まりです。
村の地図
ガイドにお願いして案内用の地図を撮らせてもらいました。
私が見学を希望している博物館は、かつて回廊があった場所の南東。村の地図の矢印に従って歩き、名所を案内してくれましたが、ゴシック様式以降の遺産については割愛します。
大修道院の歴史
残念ながら私のフランス語能力では、ガイドを十分にききとることができませんでした。現地に掲示されていたQRコードを使うと案内のサイトを読むことができたので、一部を抜粋して太字で和訳します。
サン・マルタン・ド・サヴィニーのベネディクト会修道院の起源は不明である。伝承によると、その設立は6世紀とされている。
819年の文書が、カロリング王朝時代にはサン・マルタン大修道院が存在していたことを証明する。9世紀になるとリヨン教会に服従。10世紀には、ハンガリー人の侵略を受け、略奪され、荒廃した。侵略された後、大修道院の精神的・世俗的権力は強まり、12世紀にはピークに達した。
中世を通じて、その権力と富は増すばかりであった。1000年の恐怖がもたらした多くの寄付によって、多くの修道院が設立された。大修道院長たちは、現在のロワール県、サント、ディ、ジュネーブ、ローザンヌの教区を含む広い領土にその権限を確立。リヨン大司教、ボージュ領主、フォレ伯爵の野望に直面することになった。
12世紀の終わりまで、サヴィニー大修道院長は、自分たちの修道院とその遺産の防衛を中心に、かなり巧みな政策を行っていた。1203年から1217年まで、フォレがリヨン大司教の支配下に置かれると、修道院の立場は微妙なものになり、1312年以降、大修道院はリヨン教会に従属し続けた。
(13世紀から17世紀の歴史(1)はページの最後にまとめます。)
1760年、サヴィニーにはわずか15人の修道士しかいなかった。20年後、この数は11人にまで減少した。革命の際、ほとんどすべての聖堂が破壊された。建物は略奪され、その後、民間に売却された。 いくつかの柱頭は保存され、それらは宝石細工博物館(musée lapidaire)にまとめられた。
すっごく、権威ある大修道院だったんですねえ。
musée lapidaire 内の配置図
案内のサイトに展示物の配置図があります。スクリーンショットを貼り付けます。
博物館を見学します。
博物館
博物館は、こんな石造りの建物の、地下の一室です。
博物館の中へ。
12世紀の彫刻をご紹介します。
いちばん奥に鎮座するのは「最後の晩餐」。
向かって左ではイエスがペトロの足を洗っていて、中央ではイエスがユダにパン切れを与えています。
足を洗うのは、謙遜と、愛の行為です。イエスは弟子たちに愛を示し、わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示しました。模範に従って足を洗い合う準備をする2人の使徒が右にいます。
こちらは羽の繊細な彫刻が残っています。
ラブリーな聖ヨハネ。
イエスの誘惑、受胎告知。
イエスの洗礼
ソロモン王は大きな手が良いです。
ダビデもいます。
生き物たち。
鳥がかわいくて、良いです。
Musée lapidaire de l’abbaye de savigny。かつてこの村にあった大修道院の遺産(ロマネスク彫刻)が展示されている博物館です。
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(1) 13世紀から17世紀の歴史
13世紀から14世紀にかけて、サヴィニーは、38の小修道院、約165の小教区を含む大規模な修道会の長を務めていた。小修道院は、大修道院長が任命した小修道院長と少数の修道士が居住する小さな修道院である。修道士の役割は、領地の財産を管理し、小教区を管理することであった。修道士は、現物または金銭で修道院に報酬を支払わなければならなかった。サヴィニー大修道院は、近隣諸国からの保護を求め、領土を守るための要塞を建設することで、独立を維持した。14世紀まで、大修道院長は修道士たちの議会で選出されていた。その後、14世紀から17世紀にかけて、その職はアルボン家の「世襲制」となった。
15世紀初頭に大修道院の衰退が始まった。国王と大司教が大修道院長の任命に介入するようになった。16世紀になると、居住地に縛られない修道院長に支配されるようになり、修道院の衰退が決定的になった。起因したのは、父方、母方ともに4分の4の貴族の証明を必要とする規則が常に適用されたことである。過去200年の間、貴族の子弟は回廊での生活よりも武勲を好んでいたため、新しい参事会員は必ずしも十分な貴族であることを証明できなかった。名誉職となった大修道院長は、もはや居住する必要はなく、地所からの収入を得ることで満足するようになった。
(2) ペトロの足を洗うイエス
最後の晩餐のとき、有名な「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」という言葉の前に、イエスは弟子たちの足を洗います。
ヨハネによる福音書13章
1節: さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
2節: 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3節: イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4節: 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5節: それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6節: シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7節: イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8節: ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9節: そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10節: イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
このペトロって、たいそうお調子者です。「足だけでなく、手も頭も。」なんて、なかなか言えるもんじゃありません。
(3) ユダにパン切れを与えるイエス
最後の晩餐のとき、イエスは、裏切る者がユダであることを使徒たちに示します。福音書ではこのように書いています。マタイとマルコは「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者」、ルカは「わたしと一緒に手を食卓に置いている(者)」。そして、ヨハネはこう書いています。
ヨハネによる福音書13章
21節: イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
22節: 弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
23節: イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
24節: シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
25節: その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
26節: イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
27節: ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
博物館の彫刻はイエスがユダの口に何かを与えているようですから、ヨハネによる福音書に従った図像です。
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