カルピ(Carpi)

2019年12月の旅行初日、三番目の目的地はCarpi。モデナ(Modena)から北に約20km、電車で約15分の道のりです。Carpi での目的は Santa Maria in Castello ですが、、、

もう遅いので内部の見学は翌日までおあずけ。この日はまず宿にチェックインして夜景を楽しみます。

宿はこちら。

DOMUS AUREA
54 Corso Sandro Cabassi, Carpi, 41012

カルピの駅まで100mと近いうえに町の中心にも近くて便利な立地。バスタブ付きの広めの部屋で2泊合計€154でした。

荷物を置くとさっそく外へ。

Carpiはモデナ県の中でモデナに次いで第二の人口(約7万人)を持つ都市。私がむかしイタリア留学したときこの町の学校に通いましたから思い出がたくさんあります。

中心部に向かうとドゥオーモが見えてきました。

カルピのドゥオーモ(Duomo di Carpi または Cattedrale di Santa Maria Assunta)の南側

こちらの大聖堂は1514年に着工して18世紀に竣工。ファサードは17世紀後半のバロック様式で私の好みではありませんが、この場所でよく友達と集まってたなあと懐かしい気持ちになります。

ドゥオーモのファサードが面しているのはマルティーリ広場(Piazza dei Martiri)。

クリスマス・イルミネーションで輝いています。

マルティーリ広場(Piazza dei Martiri)

この広場が17,000m² というイタリア最大級の大きさと形になったのは16世紀初めにアーケード(上の写真向かって右)が造られたときで、その頃に城(上の写真向かって左)も建てられて広場はボルゴジョイオーゾ広場(Piazza di Borgogioioso)と呼ばれました。「よろこび町の広場」とでも訳せるでしょうか。

(現在のPiazza dei Martiri という名前は直訳すると「殉教者たちの広場」とか「犠牲者たちの広場」という意味です。1944年にファシストによる16人虐殺事件が発生したことを受けて広場はこの名で呼ばれることとなり城の下に記念碑が建てられました。)

ルネサンス様式の広場は今も市民の生活の中心です。

でも、目当てのロマネスク教会はこの広場には面していません。

城の裏(東側)に行くと、、、

Santa Maria in Castello (西側)。教会の南に建つ鐘楼(13世紀)は高さ49.5mと、けっこうな高さ。

目当ての教会のファサード前には臨時のスケートリンクが設置されていて、子どもたちがにぎやかに滑っていました。教会もライトアップされて良い感じ。

西扉口と北壁に12世紀のロマネスク様式が残っています。

教会の北壁

この教会の夜景を見るのは初めて。なかなか良いですねえ。

夜景を見てホッとしたところでピザ屋で食事して、

Pizzeria Il Ghiottone という名前のピザ屋(宿の隣です)、焼きたてでとても美味しいのです。

腹の虫をなだめたら宿に戻ってゆっくり休みました。

zzz…

そして翌朝さっそく目当ての Santa Maria in Castello に戻りました。内部を見学するためです。事前に電話して私が訪問する12月7日(土)朝11時に開いているかを確認し「開いている」と返事をもらってありました。

教会の西側

さっそく教会の中へ。

ファサードを背にして東を向く

ずいぶんとすんづまりの短い教会です。

フロアプラン付き案内掲示がありました。

フロアプラン付き案内掲示

身廊がほぼ無いんですねえ。

ふと男性から声をかけられました。

「もしかしてご連絡を下さった日本の方ですか?」

ふりかえると男性が二人。そうですと答えると、一人は事前に連絡をしたとき返事をくれた人でもう一人はその人が頼んでくれたガイドとのこと。

これは、ありがたい。

ガイドつきで見学再開です。

ガイドによると、伝承では教会はロンゴバルドの王アストルフォの命によって8世紀半ばに建設されたとされています。文書内の最初の言及は879年で、教皇ヨハネ8世の修復を指示する手紙が確認されています。10世紀には「Pieve」として洗礼盤が設置され、12世紀初めにマティルデ・ディ・カノッサ(Matilde di Canossa)が教会をロマネスク様式で再建しました。1983年の発掘調査で発見された地下聖堂の痕跡を除いて、8世紀半ばの元の教会の構造物は残っていません。なお、この発掘調査では3世紀頃の帝政ローマ時代の建物の痕跡も確認されました。

15世紀に教会は衰退。1514年には領主アルベルト3世ピオによって3分の2が取り壊されました。彼は現在のマルティーリ広場の北側に新しい教会の建設を計画し、取り壊した石材を新しい教会のために持って行きました。その後に立派なルネサンス様式の広場や城は完成しましたが、アルベルト3世ピオは1525年にスペイン人が来襲したとき逃亡したのです。

Santa Maria in Castello は「城内の聖マリア教会」という意味ですが、これはロンゴバルド時代にこの町が城塞都市であり、その城塞の中の教会だったことによるものです。また、別名”La Sagra”(「祭礼」)と呼ばれますが、これは1184年に教皇ルキウス3世がこの町を訪れ教会を聖別したことによるものです。

いやはや、ガイドってすごいです。スラスラとそらんじちゃうんですから。

教会の内部をみていきます。

南壁には14世紀の石棺。

南側廊と南小後陣

主後陣はロマネスク時代のもの。

主後陣には「東方三博士の礼拝」を描いた12世紀後半のフレスコ画が残ります。

主後陣

北小後陣は15世紀に聖マルティヌス礼拝堂が造られました。フレスコ画が勝利アーチ、北壁と天井に残っていますが、当時は礼拝堂全体がフレスコ画で覆われていたそう。

北小後陣にある聖マルティヌス礼拝堂

北側廊には扉口があって隣のアレクサンドリアの聖カタリナ礼拝堂に通じています。

北側廊の扉口

アレクサンドリアの聖カタリナ礼拝堂は鮮やかな15世紀のフレスコ画で覆われています。

アレクサンドリアの聖カタリナ礼拝堂

教会に戻って、ファサード裏。西扉口の北側には12世紀の説教壇(と呼ばれているもの)があり、福音書記者のシンボルが彫刻されています。

西扉口入って左にある説教壇(12世紀)

でも、どうやらもともとは説教壇として造られたのではなくて聖域と信者席とを区切るための石板だったらしい。

西扉口入って左にある説教壇(12世紀)

このつぎはぎ状態をみると、むしろ納得です。

西扉口入って左にある説教壇(12世紀)

さて、最後に外に出て西扉口をみます。

ファサードはルネサンス様式ですが、西扉口はロマネスク様式。

教会の西側

16世紀に3分の2が取り壊されたとき、もともとの西扉口を移設したのです。

12世紀の西扉口

繊細な植物装飾が魅力的です。

12世紀のロマネスク教会は今より3倍の長さがあったということは、臨時スケートリンクが設置されている場所までずっと教会だったわけです。

教会の南西側。

ロンゴバルド時代やロマネスク時代にはここが城塞都市の聖域であり、町の中心でした。

歴史はめぐり、人口の増加や近代都市化(16世紀は近代とは言わないのでしたっけ?)の波におされて町の聖域も中心も西側の大聖堂と巨大広場に移ってしまいました。

Santa Maria in Castello、町の中にひっそりとたたずむロマネスク教会です。西扉口、説教壇とフレスコ画にロマネスクをとどめています。

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