ランス(Reims)<Basilique>

2025年5月21日(水)、最初に訪れたのはReims、Basilique Saint-Rémiです。

ここは、後陣のステンドグラスと身廊の柱頭が良いです。

2025年、聖堂は毎日8:00〜19:00に開いていました。

Reims では、2か所に行きました。以下のように2回に分けて書きます。
<1> Basilique Saint-Rémi
<2> Musée Saint-Remi

目次

1. Reims .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観 .
5. 内観(柱頭) .
6. 内観(ステンドグラス) .

1. Reims

ランス(Reims)は、グラン・テスト地域圏マルヌ県にあり、県都シャロン=アン=シャンパーニュの約38km北西に位置します。

聖堂は、町の南部にあります。

南西側外観

聖堂の外にあった案内板によると、この地域には1世紀から3世紀にかけて陶工たちの居住区がありました。しかし、「蛮族の侵入」と呼ばれる時代に都市が急激に縮小し、この居住区は城壁の外側に位置することになりました。その後、広大な初期キリスト教の墓地が整備され、533年に司教レミ(Rémi)がここに埋葬されたのです。

2. 概要

聖堂の中にリーフレットがありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

サン=レミ聖堂(Basilique Saint-Rémi)

歴史

533年、ランス(Reims)の司教レミ(Rémi)が96歳で亡くなった。
その出自はガロ・ローマ時代の有力な家系に連なり、フランク王国の王クローヴィスを洗礼に導いた人物である。彼の遺骸は町の城壁の外、聖クリストポルスに捧げられた小礼拝堂に安置された。現在墓のある場所である。彼の聖性と繰り返される奇跡の評判は、すぐに多くの巡礼者を惹きつけた。
当初の小礼拝堂は教会の規模に拡張され、10月1日に遺体は厳かに移葬され、この日は聖レミギウス(仏:Saint Rémi)の日となった。750年から760年頃、大司教ティルパン(Tilpin)はサン・ドニ(Saint Denis)からベネディクト会修道士たちを受け入れ、巡礼者達の庇護と案内を務めさせた。これがこの修道院の1000年以上にも及ぶ歴史の始まりである。

9世紀半ば、ヒンクマール(Hincmar)はその建物をさらに拡張し、カロリング様式の修道院教会を奉献した。しかし、この教会は1000年以降に姿を消し、修道士たちによって選出された初期の修道院長のひとりであるエラール(Airard)によって建設が着手された、大規模なロマネスク様式の教会に取って代わられた。

ヒンクマール(Hincmar)の野心的すぎる計画はティエリー(Thierry)修道院長によって妥当なものに改変された。その結果、身廊の11の柱間、トリビューン、側廊、翼廊と主後陣の両側にある小後陣が残った。当時は木製の天井で覆われており、トリビューンを持ったポーチがファサードに続いていた。この壮大な聖堂は 1049年、ランス公会議で教皇レオ9世によって奉献された。

1162年、新たに就任したピエール・ド・セル(Pierre de Celle)修道院長は巡礼者のアクセスを容易にするため、新たな拡張を決定した。彼は教会の東西両端を改修した。西側にあったロマネスク様式のポーチは取り壊され、身廊がゴシック様式の二つの柱間で延長された。東側は新たに周歩廊と五つの放射状祭室を持つゴシック様式の内陣がロマネスク様式のクワイヤに取って代わった。

1181年、ピエール・ド・セル(Pierre de Celle)の後を継いだシモン(Simon)修道院長が、身廊のロマネスク時代の天井(壁)を高くしつつ補強し、丸窓を穿った。そして11世紀の支柱の上に、木製の骨組みに代わり、ゴシック様式のリブ・ヴォールトを建造した。

12世紀に栄えた修道院生活は、百年戦争の間に衰退した。修道院は管理権移譲(commendam)されてグラン=プリオール(Grand-Prieur)によって統治され、修道院は放棄された。唯一の例外は、16世紀初頭のロベール・ド・レノンクール(Robert de Lenoncourt)である。南翼廊に建てられた華麗な窓のある扉口と、隣接する博物館に展示されているタペストリーは、彼の功績によるものである。17世紀には、北側の扉口も再建された。これにより、かつては翼廊からファサードの裏側に続いていた側廊が姿を消した。17世紀、ベネディクト会修道会が修道院を改革した。彼らは、クワイヤを囲む列柱をルネサンス様式で建設した。
革命の混乱の中で、市内の他の修道院教会と同様、取り壊しの危機に瀕したこの大聖堂は、教区教会へと転用されることで救われた。ベネディクト会修道士たちは1793年に修道院から追放された。

19世紀には、北塔とファサードの上部(バラ窓より上)が再建され、新しい霊廟が建てられた。1896年、クロヴィスの洗礼1400周年を記念して全国的な募金活動が行われ、金箔で飾られたブロンズ製の聖遺物箱が霊廟内に収められた。この時代に、天上のエルサレムと12部族(12の塔)を象徴するシャンデリアも作られた。96本のろうそくは、聖レミギウス(仏:Saint Rémi)の生涯を表している。

第一次世界大戦中、ランス(Reims)は苦難に見舞われ、聖堂も被害を受けた。
砲弾が屋根の骨組みに火をつけ、ヴォールトを破壊した。壁には穴が開いた。1918年の冬、悪天候により、空に開いたままだった身廊の南側トリビューンが崩壊した。北側トリビューンの石は炎に焼かれ、クワイヤにあった大オルガンと聖歌隊用オルガンは破壊された。
再建工事は40年に及んだ。1958年10月12日、大聖堂は完全に修復され、聖レミギウス(仏:Saint Rémi)の広大な聖遺物箱という本来の目的のために再び使用されるようになった。

この後は、聖堂の中にあった案内パネルを引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

案内パネルによる平面図です。東が上です。

案内パネルより

赤色:533年、聖クリストポルスに捧げられた小礼拝堂
濃黄:1049年以前
緑色:1049年
水色:1162年〜1181年ピエール・ド・セル(Pierre de Celle)修道院長
桃色:1181年〜1198年シモン(Simon)修道院長
紫色:1506年ロベール・ド・レノンクール(Robert de Lenoncourt)修道院長
橙色:1602年フィリップ・デュ・ベック(Philippe du Bec)修道院長
薄黄:1655年〜1713年

4. 外観

東に行きます。

南東側外観

ロマネスク様式の南小後陣が再建されています。

南小後陣

5. 内観(柱頭)

聖堂の中に入ります。

見事なトリビューンです。

身廊にて東を向く

また、柱頭も良いです。

こちらの柱頭は、男性が重そうな荷を背負っています。もしかすると「ガザの門を背負うサムソン」(『士師記』16章)かもしれません。

1: サムソンはガザに行き、一人の遊女がいるのを見て、彼女のもとに入った。
2: ガザの人々は、「サムソンが来た」との知らせを受けると、一晩中彼を取り囲み、町の門で待ち伏せ、「夜明けまで待って、彼を殺してしまおう」と言って、一晩中声をひそめていた。
3: サムソンは夜中まで寝ていたが、夜中に起きて、町の門の扉と両脇の門柱をつかみ、かんぬきもろとも引き抜いて、肩に担い、ヘブロンを望む山の上に運び上げた。

身廊がつくられた11世紀半ばの作品だと思います。

重そうな荷を背負う男性

6. 内観(ステンドグラス)

交差部に行きます。

交差部にて東を向く

後陣の中央にステンドグラスがあります。

後陣中央のステンドグラス

聖母マリアと使徒聖ヨハネを配した大きな磔刑像があります。

後陣中央のステンドグラス

磔刑像の両側に表現されている「受胎告知」(『ルカによる福音書』1章)とともに、後陣がつくられた12世紀後半の作品だと思います。

Basilique Saint-Rémi。後陣のステンドグラスと身廊の柱頭が良いです。

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