ボッビオ(Bobbio)<2>

Ponte Gobbo をみたので、次に Abbazia di San Colombano を目指します。西に約700m、徒歩10分の距離です。

(Abbazia di San Colombano は3回に分けて書きます。今回のボッビオ(Bobbio)<2>で聖コルンバヌスと修道院の概略を書き、次回のボッビオ(Bobbio)<3>で修道院教会を見学し、最後にボッビオ(Bobbio)<4>で舗床モザイクを詳しくみます。)

私は南東からAbbazia di San Colombano に近づきました。

Abbazia di San Colombanoの東側

入り口はもう少し先(ポルティコの北端)にあります。

Abbazia di San Colombanoの入り口(ポルティコの北端)

上の写真で正面の入り口から入ると、右手に案内パネルが並んでいました。

入り口を背にして西を向く(右手に案内パネルが並びます)

これらの案内パネルが秀逸です。

案内パネルのひとつ:修道院の構造(La Struttura del Monastero)

各パネルの題名は以下の通り(カッコ内はイタリア語原文):
起源(Le Origini)
聖コルンバヌス(San Colombano)
聖コルンバヌスの旅(Il Viaggio di San Colombano)
ボッビオに到着(L’Arrivo a Bobbio)
ボッビオの修道院の所有資産(I Possedimenti del Monastero di Bobbio)
コルンバヌスの著作(Le Opere di Colombano)
写字室(Lo Scriptorium)
ボッビオの写字室(Lo Scriptorium di Bobbio)
文字装飾(La Miniatura)
写本(Il Codice)
筆法(Le Calligrafie)
修道院の構造(La Struttura del Monastero)
アイルランドの修道院の構造(La Struttura dei Monasteri Irlandesi)
ケルトの修道院制度(Il Monachesimo Celtico)
都市国家の誕生(La Nascita del Comune)

この修道院を創設した聖コルンバヌスとは?アイルランドの修道院とは?ボッビオはどんな修道院だったのか?

このような、ここを訪れる人が知りたい内容を分かりやすく書いてあるのです。かいつまんで(案内パネルを出典とする部分は太字で)ご紹介します。

<聖コルンバヌスとは?>

コルンバヌスは540年頃にアイルランドで生まれた。裕福な大貴族の家庭で育った彼は優れた教育を受け、7歳の時には文学、文法、幾何学、修辞学などを学んでいた。また、他の若者たちと同様に家業(牛の飼育、皮のなめし、狩猟、釣り)をし、馬に乗ったり、弓や剣を使ったりすることを学んだ。

コルンバヌスは15歳の時に修道士になることを決め、クルアンイニスで聖典とラテン語を研究したのち、マスターの称号を得るとバンゴール修道院に移った。

6世紀のケルト人の修道院には”peregrinatio pro Christo”という禁欲的理念があった。船で旅立ち、修道院を設立するために異国の地に上陸することを意味する。コルンバヌスは蛮族の侵略に侵された大陸でキリスト教の信仰を広める必要性を感じ、12人の仲間と一緒にアイルランドを出発した。

嵐のような航海の後、コルンバヌスたちはサン・マロの近くのガリア(現在のフランス)に上陸した。当時、ガリアは恒久的な戦争状態にあり、メロヴィング王国間の権力争いに引き裂かれ、宗教的な生活はほとんど消滅していた。

彼らは伝道のための拠点を探し続け、東進してブルグンド分国に到着すると、キリスト教を支持していた国王グントラムとその後のキルデベルト2世によって、三つの修道院の設立が許可された。アヌグレイ(Annegray)、リュクスイユ(Luxeuil)、フォンテーヌ(Fontaine)である。

案内パネルより:聖コルンバヌスの旅(Il Viaggio di San Colombano)

しかしフランスの司教たちはコルンバヌスの修道院の自治を許さなかった上、国王テウデリク2世と女王ブルンヒルドの怒りを買い、609年頃、コルンバヌスは追放されることとなる。アイルランドに戻ろうと仲間たちと一緒に北上したコルンバヌスであったが、パリから南下を決意し、612年にロンゴバルド王国に到着した。

ロンゴバルド王国の首都であったミラノでは、アリウス派の信仰を持ちながらも寛容な精神を持つアギルルフ王と、熱心なキリスト教徒であった妻テオドリンダに歓迎された。王は王国を正当化するために教皇との外交的な仲介をコロンバヌスに依頼し、その代わりに、コロンバヌスに完全に独立した修道生活の中心地をボッビオに設立することを許可した。寄贈は613年7月24日付の文書で証言されている。

ボッビオはリグーリアに接する山の中にあります。当時リグーリアはまだビザンチン帝国の支配下にあり、ロンゴバルド王国にとって戦略的に重要な場所でした。

20年以上にわたる遍歴の末、614年秋にボッビオに到着したコルンバヌスは教会を修復し、その周りに修道院を建設した。簡素な木造の庵である。615年11月23日にコルンバヌスはその庵の一つの中で死去した。

<アイルランドの修道院とは?>

アイルランドの修道院は、石や土手で囲まれ木製の柵で保護された円形のエリアに建てられた。当初の修道院は修道士が自分たちで柳の枝を編んで作った庵の集合で、それぞれの小屋には1人か2人の修道士が住んでいた。石積みで建てられたのは後のことである。主な建物は教会で、板と枝で作られた長方形の建物は宗教的な中心地であった。また、外界からの独立を求めて、修道士たちは粉挽き、焼き窯、厩舎、貯蔵室、作業場など必要とされるものは何でも自分たちで用意していた。

案内パネルより:アイルランドの修道院の構造(La Struttura dei Monasteri Irlandesi)

時が経つにつれ、修道院は家や建物のある街へと成長していった。重要な修道院には、信徒のための教育の文化的な中心となる学校があり、ラテン語の普及を促進し、地元のケルトの伝統を継承し、筆法を伝え、グレゴリオ聖歌の演奏にケルト楽器の使用を導入した。

アイルランドのキリスト教化は5世紀から100年足らずで達成されたものである。ローマ人に征服されたこともなく、人々を氏族に分けて社会組織化するという、修道院主義とつながりやすい形態がとられていたアイルランドで、修道院は文化の中心地となり、写本室、図書館が誕生して発展し、果てしない蛮族戦争の後の荒廃から救われてもちこまれた世界中の書物が保存されていった。

アイルランドの修道士たちは聖典に加えて、ラテン語、ギリシャ語、天文学、数学、哲学にも精通していた。こうした文化が基礎となって誕生したのが、装飾写本の制作に専念する修道士たちの工房である写字室なのである。

以下は、写字室や装飾写本について理解の助けになりそうな内容を簡単にまとめました。

写字室(scriptorium)の名はラテン語で書くことを意味する”scribere”に由来し、写本が書き写される場所をさす。その活動は文字を書くための羊皮紙の製作から、文字を書き、装飾を行い、製本するすべての段階を含んでいた。

羊皮紙は羊、山羊や牛の皮から作られるが、手間のかかる特殊な工程を経る。最も貴重な羊皮紙は子牛や死産児、胎児の皮を使用するサイズの小さい物であり、基本素材の希少性と特殊技術の必要性から非常に価値の高いものであった。

写字室でつくられる写本(伊:codice、英:codex)の名はラテン語で木の幹を意味する”caudex”に由来し、文字を書くためにワックスで加工された薄い木の板を金属の輪や革製の紐で束ねた冊子をさした。素材は時代が進むにつれて木の板ではなくパピルスが、さらに羊皮紙が使われるようになった。持ち運びと保存により優れていたからである。

文字装飾(伊:miniatura、英:miniature)の名はミニウム(酸化鉛)という赤色インクの原料となる鉱物に由来し、元々は頭文字やタイトルを赤字で書くことを意味していた。その後、文字装飾や細密画など写本の装飾を幅広くさすようになった。

中世には、金や多色で彩られた写本は”alluminatura”あるいは”illuminatura”とも呼ばれた。以前は、光を意味するラテン語の”lumen”に由来し文字に貴重さと光を与えるからだと考えられていたが、後に、色を定着させるために使われる鉱物のミョウバンを意味するラテン語の”alumen”からの派生であることが信憑性が高いと考えられている。

もっと、筆法(calligrafia)や字体についてもご紹介したいところですが、長くなりすぎるので、またの機会にします。

創設後の修道院について書きます。

<ボッビオはどんな修道院だったのか?>

ロンゴバルド王の庇護のもとで修道院の領土は拡大してリグーリアやトスカーナの一部に達し、数多くの巡礼者や貧しい人々が歓迎され、若者たちは教育を受けるなど、8世紀から9世紀にかけて最も強い輝きを放った。

ロンゴバルド人がフランク人にとってかわられると、カール大帝とその後継者たちは保護を修道院に保証したが、ロンゴバルド時代のようなあつさではなかった。一定期間、修道院はその独立性を維持することができたが、すぐに大修道院長の任命に政治的な干渉が加えられ、実質的な帝国の領地となった。

7世紀の創設から10世紀まで、ボッビオの修道院の写字室は、中央と北イタリアのすべての写本生産の最大の中心地であり、ヨーロッパで最大規模を誇った。カール大帝と彼の後継者の治世で「カロリング・ルネサンス」として知られている文化復興は、美しい装飾写本の生産が最大の明示であった。

カロリング帝国が崩壊し、ノルマン人、サラセン人、ハンガリー人の襲撃や略奪を受けた後、写字室は次第に姿を消し、ボッビオの写字室のように、より保護された場所にあったものだけが生き残った。

ボッビオの修道院には約700冊の写本を擁する豊かな図書館があった。典礼に加えて、詩人、作家、歴史家の作品も広く収蔵されており、文法書、科学、法律書なども多数であった。西洋が危機に陥っていた歴史的瞬間に、その活動と役割、機能を継続し、永遠に失われる危機に瀕していた貴重なカロリング朝の書物の遺産を保存したのである。

5世紀から6世紀にかけて、ヨーロッパ大陸で繰り広げられた果てしない蛮族戦争の戦火をくぐり抜けてアイルランドに持ち込まれた貴重な書物が修道院を通して保存され、ケルト文化と融合しながら装飾写本として発展しました。

のちに大陸の動乱がおさまると、”peregrinatio pro Christo”という習慣に従って船で旅立ち、新しい修道院を建設するために異国の地に上陸していった聖コルンバヌスなどの多くのアイルランドの修道士たちが、その貴重な文化遺産をヨーロッパ大陸に還元していったのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です