チヴィダーレ・デル・フリウリ(Cividale del Friuli)<3>

2023年8月17日(木)に唯一訪れた Cividale del Friuli で、最後に Museo Archeologico Nazionale に行きます。

ここは、ロンゴバルドに関する展示が充実しています。金属加工技術の素晴らしさに舌を巻きます。(ロマネスクの展示はありません。)

2023年は、火曜から日曜の10:00〜19:00に開いていました。

有料です。Museo Archeologico Nazionale だけの入場券は€6。私は三つの博物館(Monastero di S. Maria in Valle e Tempietto Longobardo + Museo Cristiano e Tesoro del Duomo + Museo Archeologico Nazionale)の統合入場券(€9)を買いました。

Cividale del Friuli では、3か所に行きました。以下のように3回に分けて書いています。
<1> Monastero di Santa Maria in Valle e Tempietto Longobardo
<2> Museo Cristiano e Tesoro del Duomo
<3> Museo Archeologico Nazionale

目次

1. Museo Archeologico Nazionale へ .
2. 概要 .
3. 副葬品 .
 3-1. 十字架(身分の高い少年の副葬品、7世紀初め) .
 3-2. 十字架(身分の高い戦士の副葬品、7世紀初め) .
 3-3. 十字架(高官の副葬品、7世紀後半) .

1. Museo Archeologico Nazionale へ

私は Museo Cristiano から北東に約100メートル、1分ほど歩いて、大聖堂の北にある博物館に着きました。12:00頃のことです。

博物館の門は広場(Piazza Duomo)の東側にあります。

考古学博物館としてロンゴバルド以外に関する展示もあります。それらの中では、1〜2世紀頃の床モザイクが素晴らしかったです。

1〜2世紀頃の床モザイク
1〜2世紀頃の床モザイク

とはいえ、やはり注目したいのは、ロンゴバルド人とその王国についてと、Cividale に残されたネクロポリスに関する展示です。副葬品のクオリティが高くて、私は目を奪われました。

2. ロンゴバルド人とその王国

館内に案内掲示がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

5世紀から6世紀にかけてのヨーロッパ
476年、ゲルマン人の軍事指導者オドアケルがローマ帝国西方の皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させた。その後、800年までローマ帝国西方に皇帝は存在せず、皇帝はビザンティウムからイタリアに対しても正式な権限を行使することとなった。489年、皇帝ゼノンは、ギリシャ領に定住していたゴートの王テオデリックに、オドアケルに対抗するよう促した。6年間の戦争の後、テオデリックはイタリアの王位に就き、491年にゼノの後を継いだアナスタシウスによって承認された。テオデリックは526年まで君臨し、イタリアの先住民、ゴートその他のゲルマン系諸民族との共存を保証し、西方の他の王国との同盟関係を築こうとした。そのなかでも、クロヴィス率いるフランク王国との同盟は際立っていた。ソワソン王国を征服した後、アレマンとチューリンゲンを征服し、ブルグントからヴィエンヌとその領土を奪い、507年に西ゴートを破った。アキテーヌにいた西ゴートの大半はこの地を離れ、スペインに向かい、トレドを首都とする王国を築き、イスラムに征服される711年まで存続した。クロヴィスはパリに王宮を築いたが、511年にパリで死去した。西ヨーロッパの政治地図は単純化され、イタリアの東ゴート、他のゲルマン民族に対する覇権を拡大したフランク、スペインの西ゴート、アフリカと大きな島々のヴァンダルという4つの主要な王国が存在することになった。これらの主要な王国の中にもブルグント、パンノニアのバイエルン、スペインのスエビ、そして非ゲルマンの飛び地であるバスク人など、小さいながらも重要な勢力が存在した。これらの民族は、征服された地域の先住民族との婚姻や文化交流によって、複合的な人相を持つようになった。

イタリアでは、5世紀末頃から、東ローマ帝国と手を組んだ東ゴート人が勢力を持っていたんですな。

ロンゴバルド人の移動
527年に帝位に就いたユスティニアヌスの主導により、西方諸王国の均衡は崩れた。533年、彼は迅速にアフリカを再征服。535年、皇帝ユスティニアヌスはイタリアの支配権を東ゴート人から取り返すため長い戦争を命じた。約15年後、イタリアはスカンディナヴィアを原住地とし500年以上の移住歴を持つロンゴバルド人に侵略された。彼らはバルト海沿岸のいくつかの土地を占領した後、エルベ川を遡上し、4世紀末にはフン人の圧力による動乱の後、ボヘミアと下オーストリアに進出した。ここでフン人に勝利した彼らは、ドナウ川流域に場所を求め、王国を築いた。ヘルリ人を打ち破った後、ロンゴバルド人はチューリンゲン人、ゲピド人、バイエルン人、ビザンチン帝国、フランク王国と同盟を結び、武功を挙げた。イタリアにおけるゴート人との戦いではビザンチン帝国に味方し、政治的覇権を求めるフランク王国を支援し、ドナウ川流域を徐々に占領しつつあった草原の民アヴァール人と同盟してゲピド人と戦った。6世紀半ばには、ロンゴバルド王国はボヘミアとハンガリーの間に広大な領土を有し、ヨーロッパで最も重要な王国のひとつとなっていた。アヴァール人からの新たな圧力が現れると、アルボイン王はドナウの地を放棄し、ビザンティウムとの同盟を解消して、ギリシア・ゴート戦争で疲弊していたイタリアの征服を目指した。アルボインは、他のゲルマン諸国(ゲピド人やサクソン人など)や、おそらくスラブ諸国や草原地帯からの部隊を率いて、東方からヒストリアとビザンツ国境に攻め込んだ。

ロンゴバルド人、どんどん南下します。

6世紀半ばの状況と、初期の入植地からのロンゴバルド人の移動ルート

案内掲示より

6世紀後半、ついにロンゴバルド人がイタリアに侵攻します。

イタリアのロンゴバルド王国
ロンゴバルドのイタリア侵攻は568年または569年に始まった。わずか1年後、フリウリ国境が陥落し、ポー渓谷とミラノは征服された。572年にはパヴィアが占領され、626年にロンゴバルド王によって首都に選定された。長い間、ヒストリア、グラードとヴェネツィアの間の島々、オデルツォ、リグーリアはロンゴバルドの支配を免れ、ラヴェンナ征服というロンゴバルドの野望も阻止された。フランク王国との戦争が何度か失敗し、ロンゴバルド王国の地平線はイタリアにとどまった。パヴィア包囲戦の頃、トスカーナ征服戦争はすでに始まっており、多くの都市がすぐにロンゴバルドの支配下に入った。パヴィアを占領してからわずか数年後、ロンゴバルド軍の一部はウンブリア、特にスポレート市を制圧し、マルケ、アブルッツォ、カンパーニャの大部分、そしてプーリアとカラブリアの北部地域を制圧した。ベネヴェント市はロンゴバルドの中心地となった。後に “regnum Italiae” と呼ばれることになるロンゴバルド王国にとって重要だったのは、オデルツォとリグーリアを征服したロタリ王(在位636年〜652年)であった。その後の世紀、スポレート公とベネヴェント公が起こした行動とイタリア半島全体を支配しようとしたロンゴバルド人の野望が教皇庁の反発を招き、フランク王国との同盟が結ばれた。774年、カール大帝はデシデリウス王を破り、自らを「フランク人とロンバルド人の王」と宣言した。

こうして、ロンゴバルド王国は774年に実質的に滅亡しました。ロンゴバルド系公国だったベネヴェントは生き残りましたが、それはまた、別の物語。

案内掲示より

白色:東ローマ帝国
青色:西暦603年までのロンゴバルド領土
茶色:アギルルフによる征服または再征服(西暦591~616年)
緑色:ロタリによる征服または再征服(西暦636~652年)

この後も、案内掲示を引用するときに太字で書きます。

3. 副葬品

568年または569年にイタリアに侵攻を始めたロンゴバルド人は、ここ Cividale でも生活を営み、亡くなりました。埋葬地は、すでに住民が使用していた場所だけでなく、新たにつくられた場所もあったようです。19世紀に発見され、調査研究が行われました。

San Mauro のネクロポリスは、要塞都市の北、Cividale 平野を北に囲む丘の一番奥にあり、非常に広い地域を見下ろすことができる。移住時代と思われる墳墓が多数あることから、ネクロポリスは西暦568年以降にこの地に築かれたものと考えられる。

ネクロポリスで発掘された副葬品は、ネックレス、ハサミやナイフ、フィブラ(衣服をとめるブローチ)など、多種多様でした。

たとえば、こちらはイタリアで生まれたロンゴバルド人の第一世代、身分の高い17~25歳くらいの女性(6世紀後半)。

身分の高い17~25歳くらいの女性(6世紀後半)
身分の高い17~25歳くらいの女性(6世紀後半)

特に私がご紹介したい副葬品は、十字架です。その後のロマネスク美術に影響を与えているように感じたし、何より美しかったから。

十字架はどれも、手のひらくらいの小ささです。

3-1. 十字架(身分の高い少年の副葬品、7世紀初め)

動物(鹿と鷲)の描写と擬人化された絡み合うデザインのエンボス装飾が施された金の十字架(身分の高い少年の副葬品、7世紀初め)

強そうな動物たちが描かれています。少年の副葬品です。

身分の高い少年の副葬品、7世紀初め

この十字架とともに埋葬された少年は、金糸で刺繍された衣服を着ていました。かなりおしゃれ。

身分の高い少年の副葬品、7世紀初め
3-2. 十字架(身分の高い戦士の副葬品、7世紀初め)

鹿と擬人化された動物的モチーフと絡み合うデザインを描いたエンボス加工の金の十字架身分の高い戦士の副葬品、7世紀初め)

戦士の副葬品は、すごくかっこいいデザインです。

身分の高い戦士の副葬品、7世紀初め

私、これ、欲しいなあ。

3-3. 十字架(高官の副葬品、7世紀後半)

半貴石(ガーネット、ラピスラズリ、アクアマリン)がセットされた、人頭の描写で飾られたエンボス加工の金の十字架(高官で、その地位から特権的な埋葬を許された ”Gisulfo” の副葬品、7世紀後半)

”Gisulfo” の副葬品、7世紀後半

11〜12世紀頃の作品と見まごうような、素晴らしい意匠です。

Museo Archeologico Nazionale。ロンゴバルドに関する展示が充実しています。金属加工技術の素晴らしさに舌を巻きます。

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