カステルセプリオ(Castelseprio)

2023年8月9日(水)、最初に訪れたのは Castelseprio、Chiesa di Santa Maria Foris Portas です。

ここは、フレスコ画が素晴らしいです。

水曜は9:00〜11:00、木曜から土曜は13:30〜15:00、日曜は9:30〜13:00に開きます。出土品収蔵館(Antiquiarium)や考古学的公園とあわせて博物館として運営されています。驚くことに、すべて無料です。(2023年8月現在の情報です。)

目次

1. Castelseprio へ .
2. 概要 .
3. 平面図. 
4. 身廊の床 .
5. フレスコ画 .
 5-1.「受胎告知」と「ご訪問」 .
 5-2.「ヨセフの夢」 .
 5-3.「水の試み」 .
 5-4.「パントクラトル(全能者)」 .
 5-5.「ベツレヘムへの旅」 .
 5-6.「ご生誕」と「羊飼いたちへの告知」
 5-7.「東方三博士の礼拝」 .
 5-8.「神殿奉献」 . .
 5-9.「準備された玉座(Etimasia)」 .

1. Castelseprio へ

私はAirbnbをチェックアウトし、北西に約26km、30分ほど運転して緑豊かな公園に着きました。9:45頃のことです。車はここに停められます:

車を停め、東に歩くとかつての城塞都市(Castrum)がありますが、私の目的はそちらではありません。

「Foris Portas(門の外)」の Chiesa di Santa Maria は、城塞都市(Castrum)の外の村(Borgo)にあります。

教会の中にあったリーフレットより

車を停めた場所から、古城通り(Via Castelvecchio)を北西に160メートルほど歩くと、Chiesa di Santa Maria Foris Portas に着きます。

南東側外観

教会は、小高い丘の上にあります。

北西側外観

2. 概要

教会の内外に案内掲示、小冊子やリーフレットがありました。また、教会の中にガイドがいて、イタリア語と英語で説明してくれました。(驚くことに、すべて無料です。)私が一部を抜粋して太字で和訳します。

青銅器時代にネクロポリスとして使われていた高台にある教会は、中世初期に、貴族の依頼によって建てられた。

東洋的な伝統に基づく三つの後陣のあるプランと、外典によるキリストの幼年期のエピソードを描いた質の高いフレスコ画の連作によって、非常に興味深い建物となっている。これらのフレスコ画は1944年に再発見され、中世初期のヨーロッパ絵画のユニークな証となっている。

教会の建築年代については、意見が分かれている。最近の科学的研究では、カロリング朝時代(紀元8世紀末から9世紀初頭)に建設された、あるいは少なくとも建物の改築が行われた、とされている。この年代は、おそらくビザンチンの画家によるフレスコ画について、美術評論家たちが示唆した年代と一致している。

16世紀から19世紀にかけて改築され、おそらくハンセン病療養所として使用された。両側の小後陣は取り壊され、入り口のアーチウェイが閉じられた。

この後も、案内掲示、小冊子やリーフレットを引用するときは太字で書きます。

3. 平面図

小冊子にあった、発掘調査に基づく平面図です。

教会の中にあった小冊子より

4. 身廊の床

教会の中に入ります。

身廊にて北東を向く
身廊にて南東を向く

身廊の床は、城塞都市(Castrum)の中にある Basilica di San Giovanni の洗礼堂の床とよく似ている。大理石と様々な石灰岩による多角形で形成された幾何学模様、オプス・セクティレ(opus sectile)である。石材は白と黒で、三角形は異なる色である。

身廊の床
身廊の床

ガッリアーノ(Galliano)の内陣に残された、最初の教会の床(5世紀半ば)を思い出します。

間取りは古代後期の文化であり、東洋の建築モデル(小さなマウソレウムやマルティリウム)に触発されたものであるが、同時に、ボリュームと空間の表現において、明らかに中世初期の影響を受けた単純な建築技法と融合した新しい空間概念を表現している。

教会の建築年代については、意見が分かれている。最近の科学的研究では、カロリング朝時代(紀元8世紀末から9世紀初頭)に建設された、あるいは少なくとも建物の改築が行われた、とされている。

この教会で、もうひとつ興味深いのは開口部。

身廊にて東を向く

アーチの足が、アーチを支える石よりも少し外側にあるので、キノコのような形です。

とても興味深いです。

5. フレスコ画

この教会を一番有名にしているのは、後陣と勝利アーチに描かれたフレスコ画です。

巻き絵のように二段に展開していて、左上の「受胎告知」から始まり、後陣下段中央の「神殿奉献」で幕を閉じます。いくつかの場面は失われています。

5-1.「受胎告知」と「ご訪問」

「受胎告知」(原ヤコブ福音書11章、偽マタイ福音書9章、ルカによる福音書1章)と「ご訪問」(原ヤコブ福音書12章、ルカによる福音書1章)。

マリアは左手に糸つむぎを二つ持っています。

糸を紡ぐマリアの描写は、2世紀頃に成立した新約聖書外典『原ヤコブ福音書』に由来します。後世に正典とされなかったために「外典」となりましたが、中世の時代までは広く親しまれていたようです。

「受胎告知」と「ご訪問」

「ご訪問」の右にあったフレスコ画は失われています。

5-2.「ヨセフの夢」

「ヨセフの夢」(原ヤコブ福音書14章、偽マタイ福音書11章、マタイによる福音書1章)

おとめであるはずのマリアがみごもり、ヨセフは悩みます。すると主の天使が夢に現れて、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったことや、マリアは男の子を産むことを伝えます。そして、その子は自分の民を罪から救うから、イエスと名付けなさいと言います。

天使の、輝く絹のような水色と金色の衣装が美しいです。

「ヨセフの夢」
5-3.「水の試み」

「水の試み」(原ヤコブ福音書16章、偽マタイ福音書12章)

正典には書かれていない場面です。

旧約聖書『民数記』5章に記されている律法の取決めにしたがって、妊娠したマリアの潔白が試されます。マリアに苦い水を飲ませているのは、大祭司アビアタル。

「水の試み」

マリアの後ろに立つ人の足だけが残っていますが、たぶん、すでに水の試みを受けて罪の印が現れなかったヨセフだと思います。

5-4.「パントクラトル(全能者)」

後陣上段の中央には「パントクラトル(全能者)」としてのイエスが描かれています。

イエスは左手に律法の巻物を持っています。

パントクラトル
5-5.「ベツレヘムへの旅」

「ベツレヘムへの旅」(原ヤコブ福音書17章、偽マタイ福音書13章、ルカによる福音書2章 )

皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出たために、ヨセフもダビデの家に属し、その血筋ということで、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行きます。

男性(たぶんヨセフの息子)がマリアが乗るロバを引き、老人(たぶんヨセフ)が後を追っています。これは原ヤコブ福音書17章に従って描かれています。

人も動物も、手足が細長くて、劇的です。

「ベツレヘムへの旅」
5-6.「ご生誕」と「羊飼いたちへの告知」

「ご生誕」(原ヤコブ福音書19章、偽マタイ福音書13章、ルカによる福音書2章)と「羊飼いたちへの告知」(偽マタイ福音書13章、ルカによる福音書2章)

「ご生誕」と「羊飼いたちへの告知」

1人の女性がマリアに右手を近づけています。

たぶん、産婆のサロメが、マリアがおとめであることを確かめているところです。これは、原ヤコブ福音書19章と偽マタイ福音書13章に従って描かれています。

「ご生誕」
5-7.「東方三博士の礼拝」

「東方三博士の礼拝」(原ヤコブ福音書21章、マタイによる福音書2章)

三博士たちは王冠ではなく帽子をかぶっています。興味深いです。

「東方三博士の礼拝」
5-8.「神殿奉献」

「神殿奉献」(偽マタイ福音書15章、ルカによる福音書2章)

モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると、両親はその子をエルサレムの神殿に奉献します。

「神殿奉献」
「神殿奉献」(部分)
5-9.「準備された玉座(Etimasia)」

勝利アーチの内陣側に、王冠と十字架が置かれた玉座が描かれています。

「準備された玉座(Etimasia)」

その両側で、2人の天使が勝利を讃えています。

「準備された玉座(Etimasia)」(部分)
「準備された玉座(Etimasia)」(部分)

図像は、主に東方伝承の外典偽典(原ヤコブ福音書と偽マタイ福音書)に基づいています。キリストの生誕にまつわる奇跡的な側面が劇的に表現されていて、典礼につながるような荘厳な表現ではありません。

この作品が再発見されたとき、この作成年代と文化的起源をめぐって、いまだに完全には解決していない非常に活発な論争が世界中で起こった。ある美術史家は、その自然主義と空間的遠近法、ローマ絵画を十分に意識した自信に満ちたタッチから、この作品を6~7世紀のものとした。またある美術史家は、古い美的感覚から逸脱した物語的嗜好と結びついた劇的な力強さから、この作品を7世紀のものとした。さらに、東方に吹き荒れたイコノクラスムから逃れてビザンチンの親方たちがこの国に到着した時期と結びつけ、この作品を8世紀とする者もいた。

ガイドによると、ビザンチンには9世紀頃までローマ様式が残っていたので、3次元的で薄く繊細な色合いの描き方がされているのだそうです。

最近の研究では、床下の煉瓦、後陣の垂木、938年から945年のミラノ司教 Arderico に言及した落書きの分析から得られた年代と一致する、8世紀とする説が再提案されている。

後陣の下段に残る落書き

ロマネスク期より前に描かれた絵画も、ロマネスク美術に影響を与えているように思うので、とても興味深いです。

Chiesa di Santa Maria Foris Portas。フレスコ画が素晴らしいです。

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