サン・ミシェル・ド・キュクサ修道院、続きです。
ヴィルフランシュ・ド・コンフラン(Villefranche-de-Conflent)からサン・ミシェル・ド・キュクサ修道院への移動は東に8km、車で12分くらい。難なく到着しました。
入り口の真ん前に大きい駐車場があります。私が行った3月の午後、そこには2台の車しかありませんでした。
下の写真の中で、木の枝で隠れている所が入口。受付でヴィルフランシュ・ド・コンフランの観光案内所でもらったpass(詳細はこちら)を使って1ユーロ割引してもらいました。そしてラミネート加工された案内シートの英語版を借りました。帰りに返すやつです。
案内シートを読みつつ。。。まず、受付の隣に設けられたスペースで10分ほど修道院の紹介ビデオを見ました。
サン・ミシェル・ド・キュクサ修道院は、840年頃にテット渓谷に設立されたベネディクト僧の共同体が起源です。そこが878年に洪水で破壊されて、生存者はキュクサの聖ゲルマヌス教会を頼って避難しました。その後、修道院はセルダーニュ・ コンフランの伯爵家の支援を得て急速に発展します。10世紀の終わり頃にはヨーロッパ全体に影響力を及ぼすようになっていました。
そして1008年にオリバ(Oliba)が大修道院長(Abbot)に就任しました。オリバはセルダーニュ伯を父に持ち、リポイ(Ripoll)のAbbotで、ビク(Vic)の司教(Biship)で、モンセラット(Montserrat)の創設者です。
ちなみに、サン・マルタン・ドゥ・カニグー修道院を創設した伯爵(後に修道士になって岩に自分の墓を掘った人)というのはオリバのお兄さんです。オリバは、兄がサン・マルタン・ドゥ・カニグー修道院を創設するのを支援しました。
オリバは修道院長に就任すると周歩廊(ambulatory)、鐘楼(bell tower)、地下聖堂(crypt)、アトリウム(atrium)、トリニティ・チャペル(Trinity Chapel)などを建設し、聖堂内にはフレスコ画や祭壇天蓋(ciborium)の装飾を行い、修道院の物理的、宗教的な威信を強めました。
また、破門を含む宗教制裁を通じて封建的な暴力を封じ込め、特定の曜日について戦いを禁じる「神の休戦」を初めて宣言しました。
今でも、オリバはカタルーニャの精神的な建国の父として尊敬されています。バルセロナにはオリバの名前を冠したカトリックの理念に基づく大学があって、その大学ではカタルーニャ社会への奉仕、人の不可侵の尊厳を原則にしています。
オリバの後の修道院の話です。1130年頃、Abbot のグレゴワール(Grégoire)の指揮で大理石の回廊(Cloister)が建設され、ルシヨン(Roussillon)のロマネスク彫刻が施されました。
この柱頭彫刻が、すごく良いんです。回廊に移動してから撮った写真がこちら。
修道院はその後、1462年から33年間フランスの支配下に入り、しばしば迫害の犠牲になりました。そして1659年のピレネー条約により、修道院の地域はフランスの一部になりました。
1789年にフランス国民議会が全ての教会財産の国有化を決めると、1790年には最後の修道僧が追放され、修道院は国有財産として売却されました。革命家による略奪も起きました。1835年には屋根が、1838年には北の鐘楼が崩壊し、大理石は再利用されたり、売却されたりしました。。。ひどい。
1919年に修道院は買い戻され、シトー会の修道士に与えられました。1965年からはベネディクト会の修道士が1100年前のような修道院生活を続けています。
修道院付属の教会内の写真撮影は遠慮するよう言われました。
ビデオが終わると、いよいよ見学です。ラミネート加工の案内シートにフロアプランが載っていました。
①地下聖堂(crypt)
②回廊(Cloister)
③修道院の歴史を再現した展示室
④トリビューンの跡
⑤修道院付属の教会
⑥鐘楼(bell tower)
⑦⑧アトリウム(atrium)、トリニティ・チャペル(Trinity Chapel)
見学順路はcryptから。壁に案内が掲示してありました。
crypt内は、天井が低い部分は洞穴の通路みたいで、天井が高い部分は開放感がありました。おしゃれな隠れ家風レストランのような印象。
cryptから出ると、順路に従って回廊に行きます。これまた壁に案内が掲示してありました。
この回廊、すごく広いんです。掲示案内のフロアプランで①の方向から②教会の方を向いて撮った写真です。
回廊には楽しい柱頭彫刻がいっぱいです。詳細は次回。
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とても興味深く読ませて頂きました。有難うございます。
読んでくださって、ありがとうございます。