キュクサ(Cuxa)<1>

2018年3月の旅行五日目。四番目に向かったのはサン・ミシェル・ド・キュクサ修道院です。フランス語でSaint-Michel-de-Cuxa、カタルーニャ語だと Sant Miquel de Cuixà と言うそうです。

ところで、パブロ・カザルスについて、少し書いちゃいます。

ヴィルフランシュ・ド・コンフラン(Villefranche-de-Conflent)からサン・ミシェル・ド・キュクサ修道院への移動は東に8km、車で12分くらいです。

移動の途中でプラド(Prades)という町を通ります。

カザルスが、反ファシストとしてスペインからフランスに亡命して17年間住んだのが、ここプラドです。そして、カザルスはサン・ミシェル・ド・キュクサ修道院にも縁があります。

カザルスは1876年にカタルーニャの小さな村ベンドレルで生まれました。史上最高のチェロ奏者の一人で、指揮者です。1973年に96歳で亡くなるまでの間に、第一次世界大戦、スペイン内乱、第二次世界大戦を経験しています。バッハ、チェロ、故郷カタルーニャを愛し、人間を賛美する一方、圧力に屈しないで正しいと信じることをする、強い意志を持った芸術家でした。

私は、この旅行で初めて知りました。知りたくて、この本を読んだんです。

『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』
アルバート・E. カーン (編集)、吉田 秀和 (翻訳)、郷司 敬吾 (翻訳)

「編集」との文字通り、アルバート・E. カーン という人が、パブロ・カザルスの言葉を集めて編んだ本です。(このページにカザルスの言葉を引用するとき、本からそのまま引用して太字にします。一部の表記が私が使用しているものと違っていて読みにくいかも知れません。ごめんなさい。)

カザルスはカーン宛ての手紙に「私の生涯が自伝を書いて記念するほど価値のあるものとは、どうしても思えない。私は、なすべきことをしたにすぎないのだから。」と書いて、自伝を書くことをいつも拒んでいました。この本は自伝ではありません。この本にある言葉はカザルスのものですが、構成はカーンがしたものだからです。

カーンは当初、カザルスの言葉を聞いて、自分で文章を書こうとしていました。でも、カザルスの言葉を聞いていると「カザルス自身の言葉にはとても色彩と響きがあり、彼の個人的な追憶と回想にはごく自然な詩があるので、彼の音声はその物語と切り離すことができないように思えた。」そうです。だから、カーンは自分で書くのをやめて、カザルスの言葉を綴ったんです。

そんなカザルスの言葉は、私の心を震わせました。

本の中で一番印象に残った部分があります。祖国、戦争の放棄、国民の優劣、についての言葉です。長いですが、カザルスの言葉を中略無しで、その話題が終わるまでを一気に、本からそのまま引用します。

生涯、私は多くの国を旅行し、至るところに美しさを見出した。だがカタロニアの美しさは幼いときから私をはぐくんでくれたものだ。目を閉じると、サンサルバドルの海と砂浜に小さな漁船がよこたわる海岸沿いの村のシッチェス、タラゴナ地方のぶどう畑とオリーブの森とざくろの林やリョブレガト川とモンセラートの峰々が見えるのだ。カタロニアは私の誕生の地である。そして、この土地を母のように愛している・・・。

もちろん、私はスペインの一国民である。三十年以上も流浪の身であるが、相変わらずスペイン国の旅券をもっている。それを手放そうとは夢にも思わない。ペルピニアンのスペイン領事館のある館員が、スペインに帰りたくないなら、なぜ旅券を放棄しないかと私にたずねた。「私がなんで捨てることがあろうか。フランコに旅券を捨てさせなさい。そうなったら私は帰国するから」と答えた。それはそうとして、まず第一番に、私はカタロニア人である。もう百年近くもこのように私は感じてきたので、変わることはあるまい。

私たちカタロニア人は自分の国語をもっている - カスティール人のスペイン語と全然異なった古代ロマンス語である。われわれには独自の文化がある。サルダーナ舞曲はわれわれの踊りだ。なんと優雅な踊りだろう。それに独自の歴史がある。カタロニアは、中世にすでに大国だった。その影響はフランスとイタリアに及んだ。今日でも両国にはカタロニア語を話している人が大勢いる。われわれには国王はいなかった。伯爵を支配者に持つことで満足したのだ。中世のわが国の憲法には、カタロニア人民がその支配者に呼びかけた、つぎの言葉がでている。「われわれ一人一人はあなたと同等である、そしてわれわれすべてが一緒になればあなたよりも偉大である」。早くも十一世紀にはカタロニアは戦争の放棄を要求する議会を召集したのだ。高度の文化をもっていたことを示すこれ以上の証拠がありえようか。

すべて国家は衰微していく。先ごろまで、英帝国に太陽の没することはないといわれていた。今日も英国は存続しているが、かつての英帝国はもはやない。カタロニアもかつてのような強国ではない。しかし、そのことによってこの国の歴史は減少することはないし、また国家としての権利を否定することを正当化することはできない。であるのに、カタロニアはスペインの臣下にすぎない。わがカタロニア人はスペインの他諸民族と兄弟として生きていきたいので、召使としてではない。現在のスペイン政権のもとでは召使なのだ。われわれの公立学校では自国語が教えられることが禁止され、そのかわりにカスティール語が教えられている。わが文化は窒息させられているのだ。

私は終始、極端な国家主義に反対してきた。どこの国民もほかの国民にまさることはない。異なることはあってもまさることはない。極端な国家主義者は他国民を支配する権利があると信じている。愛国心は全く違うものだ。自分の国土を愛する心は人間の本性に深く根差している。私はルイス・コンパニスのことを思い出す。スペイン共和国時代、彼がカタロニアの大統領だったころに、私は彼と知り合った。コンパニスとは意見を異にしたこともあったが、彼は愛国者だった。彼はカタロニアの勤労者のために闘ったかがやかしい弁護士だった。ファシストが政権を奪ったとき、彼もフランスに逃れた共和党の指導者の一人だった。フランコが彼の身柄の引き渡しを要求したとき、ペタン政府はその要求に応じた。スペインのファシストは彼を処刑した。コンパニスは銃殺隊の前に立ったとき、タバコに火をつけ、それから靴と靴下をぬいだ。両足をカタロニアの土につけたまま死にたい、と望んだのだ。

そんなカザルスと、プラドやサン・ミシェル・ド・キュクサ修道院とのつながりについて書きます。

スペイン内乱の終わりのころ、カザルスはパリにいて、フランコがバルセロナとほかの都市に報復攻撃を仕掛けていることを知りました。何千という男女が投獄されたり処刑されたりしていました。さらに、ファシストの軍隊がサンサルバドルのカザルスの家を占拠したこともききました。カザルスは苦しみ、生きる意欲を失いました。

プラドに行ったいきさつについて、カザルスの言葉を引用します。

思い余って、アイセンベルク夫妻は、私にバルセロナ出身の旧友ガルロに会ってはとすすめた。あとになってガルロは私に会ったときのショックを私に語った - 彼は、私を見てもわからなかったそうだ。数時間私と話していたが、「あなたはもうパリにいてはいけない、すぐここを発ちなさい」と言った。彼は、私にフランス領カタロニアにあるスペイン国境に近いフランスの南部の小さな村を紹介した。その名前がプラードだった。「土地の多くの人たちは私たちの言葉を話すのですよ。カタロニアに帰ったと思うようになりますよ」

私はそんなことをしても無駄だと言った。しかし彼はなおもすすめた。「そこの近くにある亡命者の収容所に行けば、あなたの国の人々と親しくなれるのです。彼らもあなたの援助が必要なのです。援助がひどく必要なのです」。で、結局、私は行くことに同意した。

そんなことで一九三九年の春にブラードに着いた。ピレネー山中のこの寒村で、私が生涯の十七年間を過ごそうとは当時夢想だにしなかった。心に嘆きは残っていたものの、周囲の風景に私は安らぎをおぼえた。玉石を敷きつめた小道が曲がりくねり、赤いタイルの屋根の白壁の家が立ち並び、ちょうどアカシアが花盛りで、ブラードの村は、子供のときから馴染んでいるカタロニアの村と寸分違わなかった。周囲の田園も同じように親しみ深かった。果樹園とぶどう園が織りなす見事な模様、ローマ時代の要塞と、中世期の修道院が山腹にしがみつくように建っている峨々たる山々。私の生まれ故郷の景色に生き写しだった。事実、この地域は数百年前まではカタロニア王国の一部だったのである。

私はブラードに一つだけあるホテルに投宿した。名前はグランドホテル。設備は豪華ではなかったが、部屋の小さな窓からの眺めは、まさに王侯が眺めるのにふさわしかった。すぐ近くにカニグ山がそびえていた。われわれの愛するカタロニアの詩人、ハシント・ベルダゲールがその詩編の中で歌いあげたこの見事な山岳は、カタロニア人には特別な意義をもっている。山頂の一つにひとり堂々と建っているのが聖マルティン修道院で、十一世紀の初期にグイフレッド伯によって建立されたものである。伝説によると、黄色の地に四本の縞を持つカタロニア国旗は、伯の曽祖父でカタロニア王朝の創始者がつくったという。彼は戦闘で瀕死の傷を負いながら、自分の血を指につけて、楯の上を指でなぞり、「これをわが国旗にする」と宣言したという。

プラド到着後、カザルスはすぐ収容所のいくつかを訪れ、地獄さながらの光景を目撃します。何万人という男女が有刺鉄線を張りめぐらされて、今にもつぶれそうな掘立小屋に家畜みたいにぶちこまれていました。衛生施設も医療設備も無く、水も食料も不足していました。カザルスはフランス、イギリス、アメリカ、その他の国々の個人と団体に向けて亡命者の窮状を訴えて援助を願う手紙を何百通も書きました。資金を補うために慈善演奏会も催しました。

1940年の夏、戦争は一層、深刻な事態になります。ヒトラーの軍が突如、西に向かい、フランス国内深く侵入しました。その後、フランスの降伏とヴィシー政権樹立によって、ファッショの同調者や協力者が至るところで権力を握ります。カザルスと交際しているとわかるとファシストに処刑されることを恐れる人が増えていきました。苦しい毎日でした。

このとき、カザルスとサン・ミシェル・ド・キュクサ修道院に妙なつながりができました。カザルスの言葉を引用します。

むろん、世界のすべてが灰色だったわけではない。そんなことは絶対にないと私は思う。たとえ最悪の状況のもとにあっても。二、三人の友人のプラードの住民は、こっそり会いにきてくれた。どんなに心温まる思いがしたことであろうか。アラベドラが一緒だったし、ヴィラ・コレットの私たちの小さなサークルがあった。ほかにもカタロニア人がいて彼らとは自由に接触できた。その一人が詩人で旧友のベントーラ・ガソルだった。彼はスペイン共和国時代のカタロニア内閣の文化相だった。実は、あるとき、われわれの長い友情が思わぬ災難をひき起こした。二人が親しくしている限りお互いに大きな刺激を受けた。二人が会うといつも奇抜な考えを思いついた。ある日のこと、例のごとく妙案が浮かんだ。プラードから数マイル離れたカニグ山のふもとに、サン・ミシェル・ド・クシャという古い修道院があった。九世紀に、カタロニアの修道院として建てられ、中世には、宗教、芸術の中心だったが、その後数世紀を経て、僧院は人が住まなくなり、当時は廃墟になっていた。スペイン共和国のとき、リポルというカタロニアの町の町民が塔の一つに見事な鐘を寄贈して、取り付けていた。ガソルと私は意気投合した。実に妙案じゃないか、われわれ二人が僧院に出かけていって、カタロニア人の愛国心が今も生きていることを同胞に知らせるために鐘を鳴らせたら!ということになって私たちは鐘をついた。忘れがたい瞬間だった。古い柱とアーチ、すりへった敷石のある暗い回廊の静寂の中で、豊麗な鐘の音があたりの山々にこだましたときは!だがヴィシー政府はわれわれのようには、その瞬間を喜ばなかった。土地の人から私たちのことを聞いたとき、彼らは騒ぎ立てた。ペルピニアンの新聞はわれわれ二人を共産主義者とか無政府主義者とか、暗殺者とさえいって告発する論説を第一面にでかでかと掲げた。むろん、私たちはその中のどれでもなかった。カタロニアの一詩人と一音楽家にすぎなかった。

私、これを読んだとき「いやいや、いつどこで難癖つけられて処刑されるかもしれないのに、鐘なんぞ鳴らしちゃう?」と思いましたが、一方で「豊麗な鐘の音かあ、気持ち良かっただろうなあ」とも思いました。

2018年3月の修道院の写真が、こちら。カザルスが鳴らした鐘楼です。

1945年にドイツは降伏します。でも、ドイツの降伏後6か月もたたないうちに、原子爆弾が一瞬のうちに広島で何十万もの人々を殺し、人類の未来に暗雲を投げかけました。これについて、カザルスはこう言っています。

なんという恐ろしい皮肉だろうか - 文明に対するファシズムの脅威への勝利寸前に、人類の絶滅をおびやかす武器を創造しようとは!

さらに悪いことには、フランコ政権が第二次世界大戦終結後も存続したんです。列強はフランコ政権に対して懐柔的なそぶりをとり、著名人がフランコを賞賛する言葉を述べ、新聞の論調もフランコのえせの業績をほめました。カザルスは断乎たる行動をとる決心をします。演奏会や受賞を拒否し、どこかの政府がスペイン国民への約束を守るかも知れないと一縷の望みを託します。

でも、彼らのスペインに対する態度は、国連の人道主義的規範によるのではなく、政策上の便宜主義に指令されていることが明白になります。しばらくしてカザルスは、民主主義諸国がスペインに対する態度を改めぬ限り公開演奏をしないと宣言しました。

1947年、アメリカのバイオリニスト、アレクサンダー・シュナイダーが、カザルスの旧友ホルショフスキーと相談したこと、ホルショフスキーが提案があること、自分も非常に賛成していることを知らせます。それは、プラドで音楽祭を開催する提案でした。プラドに引っ込んで抗議するカザルスの主旨に矛盾しないし、1950年はバッハ死後200年で、こうした行事に申し分ないと言うのです。

こうして、1950年にバッハ音楽祭がプラドで催されました。反響は熱狂的で、毎年開催されることが決まります。第二回はペルピニャンの古い王宮で、続く二年間はサン・ミシェル・ド・キュクサ修道院の廃墟で行われました。

1954年8月に当時77歳のカザルスが、サン・ミシェル・ド・キュクサ修道院でバッハの無伴奏チェロ組曲を演奏した映像がYouTubeにありました。

映像では分からないのですが、このとき、まだ廃墟同然だった教会部分には屋根がなく、1957年にようやく屋根で覆われたそうです。

カザルスは1958年の夏、アルベルト・シュヴァイツァーと共同して米、ソ両政府に対して軍備拡充競争の終焉と今後の核実験禁止を訴えました。引き続き数年間、あらゆる機会をとらえて平和の必要を叫びました。1962年には、戦争中にプラドで作曲した「エル・ペセーブレ」を携え、85歳の高齢をおして、ひとりで平和運動に乗り出しました。

1971年、当時94歳のカザルスのスピーチと「鳥たちの歌」がYouTubeにありました。(字幕を私が訳します)

1971年10月、パウ・カザルスは国連総会に招かれ、国連平和勲章を受けました

私はもう40年近く公開演奏をしていません
今日は演奏しなければなりません
この曲は「鳥たちの歌」と呼ばれています
天空で、鳥たちは歌うのです
「平和、平和、平和」
その音楽はバッハとベートーベン、そして全ての偉人たちが愛し、賞賛したであろう音楽です
それはとても美しいものであり、また、魂でもあるのです
私の国、カタルーニャの

「鳥たちの歌」はカザルスの耳の底に絶えず鳴っていたカタルーニャ民謡です。

少し、と言っておきながら随分とカザルスについて書いちゃいました。

次回、ロマネスクについて書きます。

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