2024年8月29日(木)、最初に訪れたのはAtienza、Ermita de Nuestra Señora del Valです。
ここは、南扉口の外観が素晴らしいです。
Ermita は閉まっていました。私は Ermita の中に入りませんでした。
目次
1. Atienza へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観(南扉口) .
1. Atienza へ
アティエンサ(Atienza)は、カスティーリャ・ラ・マンチャ州グアダラハラ県にある村で、県都グアダラハラの約67km北東にあります。
丘の頂上にアティエンサ城(Castillo de Atienza)があり、集落は、その東の裾野に広がっています。
Románico Digital によると、イスラム教徒の支配者がこの丘に城塞を築いたのち、キリスト教の城として姿を現したのは11世紀から12世紀にかけてです。

Ermita は、集落の北はずれにあります。サン・バルトロメ教会(Iglesia de San Bartolomé)から、古い中世の城壁の跡を横切り、斜面の小道を通って行きます。
着きました、Ermita de Nuestra Señora del Valです。

Ermita の西側に建物がつながっていて、その建物の中から男性が出てきました。
男性は、申し訳なさそうに「教会の鍵を持っていないので、中に入ることはできないのです。」と言いました。
夫と私が南扉口だけを見に来たことを伝えると、男性は笑顔で歓迎してくれました。
2. 概要
Románico Digital による概要です。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
Ermita は、15世紀半ばの包囲戦でフアン2世(Juan II)とアルバロ・デ・ルナ(Álvaro de Luna)によって破壊された地区の教区教会であった。戦争の結果、教区教会の地位を失ったため、Ermita となった。
男性によると、かつて村には14もの教会がありましたが、8に減ったのだそう。現在、アティエンサ(Atienza)村の人口は約400人ですが、昔はもっと多かったようです。
この後も、Románico Digital を引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
Románico Digital による平面図です。東が右です。

4. 外観(南扉口)
南扉口をみます。
オリジナルのロマネスク建築の面影を残すのは、南に位置する扉口だけである。
扉口は、尾を背負った二頭の四足獣(再利用)に挟まれているが、これはおそらくライオンで、セゴビアからの影響の可能性を考えさせる。

楔石の上に粗い彫刻群がある。これは「エジプトへの逃避」をテーマとしたもので、聖母は幼子を膝の上に乗せている。このように幼子を膝の上に乗せ、両者を結びつける配置は、この彫刻の年代を物語っている。というのも、彫刻に母性的な親子関係が見られるようになるのは、12世紀末のことだからである。

中央の厚いモールディングに10人の人物がはめ込まれています。

10人の人物は曲芸をしているようで、体をひねったり回ったりしています。

足を揃えている人物が多い中、右から三番目の人物だけは両足を大きく開いています。

彼らは足首まであるチュニックを着ていて、そのチュニックには、縞模様、四角形、単純な切り込みなど、それぞれ異なる種類の装飾が彫られています。

10人の人物のうち、4人は頭にかぶりものをしていて、他の人物は髪を真ん中で分けています。

曲芸師たちは、罪と罪深い行為への扇動者と見なすことができる。曲芸師、踊り子、吟遊詩人を愛する者は、悪魔の行列に従っている。悪魔は彼らを迷わせ、欺く。悪魔は獲物を捕らえる術を知っているからである。
内側の面、右には、フランシスコ・レイナ・セラーノ(Francisco Layna Serrano)が次のように書き写した銘文も残っている:
LH.F.X … IL. … ECCLA. ERA. MILESIMA. CENTESIMA. L. XXXV. SECUNDO. IDUS. NOVE。U…. REGULI. LI。P. ..AR. ..
同著者によれば、この碑文の文字は、扉口が建てられた時代とは一致せず、16世紀の文字である。そのため、彼は、この碑文は教会の修復中に消え、扉口に転写された記念碑文であることを示唆している。この碑文は、1147年という日付が教会の奉献の可能性を示しており、この時期は、扉口自体の建築的特徴と一致する可能性がある。

12世紀の扉口のようです。
Ermita de Nuestra Señora del Val。南扉口が素晴らしいです。
・
・
・