2024年8月29日(木)、三番目に訪れたのはCasillas de Berlanga、Ermita de San Baudelioです。
ここは、ヤシの木をイメージしたような柱と八つのリブが印象的です。内壁全体を覆うように描かれた驚くような絵画の断片が残っています。
2024年、Ermita は以下の日程で開いていました。
10月1日から3月31日の火曜から土曜は10:00〜14:00と16:00〜18:00
4月1日から9月30日の火曜から土曜は10:00〜14:00と16:00〜20:00
日曜祝日は10:00〜14:00
月曜定休(ただし祝日を除く)
目次
1. Casillas de Berlanga へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 内観 .
1. Casillas de Berlanga へ
カシージャス・デ・ベルランガ(Casillas de Berlanga)は、カスティーリャ・イ・レオン州ソリア県にある小さな村で、県都ソリアの約46km南西にあります。
有名な Ermita は、カシージャス・デ・ベルランガ(Casillas de Berlanga)の集落から約2km南東に離れた、エスカロテ(Escalote)川の左岸に向かって急降下する小さな谷の乾燥した斜面にあります。

建物の中には照明設備がありません。北扉口から差し込む自然光を頼りに見学します。
2. 概要
Románico Digital による概要です。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
この地域は、フェルディナンド1世がベルランガ(Berlanga)とドゥエロ(Duero)のこの一帯を征服した1060年にキリスト教徒の手に落ちたと思われるが、1113年にイスラム教徒が包囲したものの奪取できなかった争いにも見舞われたと思われる。
最初の文献は1136年に遡り、monasterio sancti Bauduliとして言及されている。
修道院(monasterio)は、その教会の大きさから判断して、それほど大規模な修道院ではなかったに違いないが、この地域にこのような早い時期に存在した数少ない修道院のひとつであったことから、その重要性はあったに違いない。
バンクス(Banks)とゾザヤ(Zozaya)によれば、1229年に継承された際、修道院として明示されているのではなく、domus Sancti Bauduliとして言及されていることから、この貧弱な修道院(monasterio)は、12世紀後半には消滅したに違いないという。
19世紀初頭には個人の所有となり、1884年以降はカシージャス(Casillas)の近隣住民十数人が所有していた。
この小さな建物は、外見からは想像もつかないほど、内部は壁画で飾られている。羊小屋として使われていた19世紀最後の数十年間にはすでに芸術研究の場として知られていたこの建物は、1917年に国定史跡に指定されたが、1922年から1926年にかけて、所有者であった隣人たちは、厳しい法廷闘争の末、絵画を古美術商のレオン・レヴィ(León Leví)に売却し、彼はそれらをアメリカのコレクター、ガブリエル・デレッペ(Gabriel Dereppe)に譲渡した。
現在、これらの壁画は、シンシナティ、ボストン、インディアナポリス、ニューヨークのメトロポリタン美術館、スペインのプラド美術館に所蔵されている。
この後も、Románico Digital を引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
Románico Digital による平面図です。東が右です。

入り口は二つあります。最もアクセスしやすい北側にあるメインの入り口は、シンプルな馬蹄形アーチです。南側の入り口は、壁の一番西側、壁の上部にあります。
現地にあった案内板によると、教会の周囲にはネクロポリスがあり、発掘調査によって11世紀から13世紀の石棺が確認されています。
4. 内観
中に入ります。
後陣は身廊の数段上にあります。その内部にはさらに2段の階段があり、祭壇が置かれる場所を高くしてあります。

勝利アーチにも、壁画が残っています。雄牛たち、かっこいい。

身廊はほぼ立方体の空間です。その中央には、岩に刻まれた四角形の台座の上に座る円筒形の柱があり、その上端から放射状に8本の四角形のリブが伸びて、馬蹄形アーチを形成し、ドームを支えています。この支柱と8本のリブについては、ヤシの木のイメージが定着しています。
めぼしい絵画は剥がされて売られ、各地の博物館(シンシナティ、ボストン、インディアナポリス、ニューヨークのメトロポリタン美術館、スペインのプラド美術館)に散っています。でも、剥がされずに残った絵画や、残された石膏に染み込んだ顔料が、元の様子を伝えてくれます。

身廊の西側3分の1はトリビューンで占められています。その下には馬蹄形アーチを持つ柱が林立し、南北に5と東西に2、計10の小さな四角形の空間を形成しています。
私たちが目の前にしているのは、間違いなくプレ・ロマネスクの様式である。しかし、10世紀初頭からこのような辺境地域で、しかもイスラム圏内でキリスト教の修道院共同体が存続することはほとんど不可能である。おそらく、1060年のフェルナンド1世の征服後すぐに、当時ベアト・デ・エル・ブルゴ・デ・オスマ(1086年頃)が準備されていたのと同じ文化的背景の中でしか、その設立は説明できないと考えられる。
ロマネスクという大きな波が大きく広がろうとしているときに、プレ・ロマネスクの手法で建てられたほぼ最後の建物ということになるが、この考え方は、このErmitaが建築と絵画的装飾の両面で密接に関連している、近くのエルミタ・デ・サン・ミゲル・デ・ゴルマス(Ermita de San Miguel de Gormaz)にも当てはまる。
建設当時、神殿の内部は白い漆喰で覆われていたが、その上にギリシャ十字が赤く塗られているのが最近発見された。その後しばらくして、ロマネスク時代になると、テオヘネス・オルテゴ(Teógenes Ortego)が「フレッシュ・テンペラ」と表現する技法で、壁画が描かれた。
伝統的に、壁画はパネルによって二つのシリーズに分けられ、壁面の位置から「低層画」と「高層画」と呼ばれている(ただし、後陣の壁画はすべて「高層画」に属する)。
後陣の窓の左(北)には聖ニコラウス、右(南)には聖バウデリウスが描かれているようです。ヴォールトは、すっかり絵画も石膏も失われていますが、マンドルラの中に座るイエスが描かれていた可能性があります。

「低層画」は、より単純な描画と、赤と黄土色、白、灰色、黄色を主とする非常に基本的な色彩の使用、不敬な場面を構成していることが特徴である。「高層画」には、より豊かな絵と多彩な色彩が使われ、キリストの生涯のエピソードが描かれている。
身廊では、絵画が3段に分かれており、下段は一般的に垂れ幕、中段は「低層画」のシリーズに属する場面、そして上段は「高層画」のシリーズのパネルで構成されている。南壁にはキリストの二つの奇跡。西壁にはカナの婚礼とイエスの誘惑。北壁にはエルサレム入城と最後の晩餐。そして東壁にはカルバリの道の場面である。
北壁の中段には、プラド美術館で見た絵画が並んでいます。

ヴォールトを分割する八つのリブによって縁取られるパネルには、キリスト誕生にまつわる八つの場面が描かれているようです。
円形に展開するエピソードは以下の通りである。
1. 受胎告知とご訪問
2. ご生誕
3. 羊飼いたちへの受胎告知
4. 東方三博士の到着
5. 東方三博士の旅
6. 幼児虐殺
7. 神殿での奉献
8. エジプトへの逃避

すでに述べたように、現在の建物の建設は1060年の再征服直後に行われた可能性が高いと我々は考えている。絵画に関しては、1120年の10年間に制作されたことを否定する論拠はない。
いずれにせよ、これらの作品全体は、役割も技術もまったく異なる多くのメンバーが参加したチームによるものであることは間違いなさそうである。

Ermita de San Baudelio。ヤシの木をイメージしたような柱と八つのリブが印象的です。内壁全体を覆うように描かれた驚くような絵画の断片が残っています。
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