2024年8月25日(日)、四番目に訪れたのはSegovia、Iglesia Parroquial de San Lorenzoです。
ここは、ポルティコと後陣の外観が素晴らしいです。
教会の前に2024年8月26日から9月1日のミサの予定が掲示されており、毎日10:00に予定されていました。私は15時過ぎに行ったため、教会は閉まっていました。私は教会の中に入りませんでした。
Segovia では、8か所に行きました。以下のように8回に分けて書きます。
<1> Iglesia de San Millán
<2> Iglesia de San Clemente
<3> Iglesia de los Santos Justo y Pastor
<4> Iglesia de San Sebastián
<5> Iglesia de San Martín
<6> Iglesia Parroquial de San Lorenzo
<7> Iglesia de San Esteban
<8> Iglesia de la Vera Cruz
目次
1. Segovia へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 内観 .
5. 外観(西側) .
6. 外観(南側) .
7. 外観(東側) .
1. Segovia へ
セゴビア(Segovia)は、カスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県の県都で、首都マドリードの約67km北西にあります。
教会は、セゴビアの城壁に囲まれた地区の北側に位置し、ソトサルボス(Sotosalbos)に至る道路とエレスマ(Eresma)川に挟まれた場所にあります。
このあたりは、中世の面影をよく残している地区で、教区教会を中心に家々が立ち並んでいます。

2. 概要
Románico Digital による概要です。自動翻訳(DeepL)に助けてもらいながら、私が一部を抜粋して太字で和訳します。
我々の知る限り、1247年の文書まで、文書記録は存在しない。
サン・ビセンテ修道院(monasterio de San Vicente)が多くの土地を所有していたこの場所には、エレスマ(Eresma)川の隣に位置する菜園を耕作する農民や貧しい人々の集団が住んでいたことは想像に難くない。
1988年に行われた発掘調査により、現在の聖具保管室の前身であるロマネスク様式の後陣の一部が発見された。
この遺構について、María José Peñas は「9世紀または10世紀頃の相対年代」と考えている(PEÑAS ÁLVAREZ, Mª J., 1991, p331)。しかし、初期の教会の後陣に相当する遺跡であることは明らかである一方、重要な考古学的資料の欠如と現在の建物との相対年代は、María José Peñas の評価を一貫して裏付けるものではない。
セゴビアのロマネスク様式の教会のほとんどが12世紀以前の建築様式であることから、その多くが想定される西ゴート様式やモサラベ様式の特徴を備えているという認識がある。それらは11世紀の建造物の名残であり、おそらくは12世紀の活気あふれる建築活動の時期に建て替えられたのであろう。
そして、この教会の身廊は、11世紀に遡るのではないかと我々は考えている。
この後も、Románico Digital を引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
Románico Digital による平面図です。東が右です。

4. 内観
私は教会の中に入っていません。
Románico Digital による写真と概要です。
この教会の内部は16世紀に改装された。

5. 外観(西側)
西に行きます。
教会の南側と西側にポルティコがあります。
西ポルティコには三つのアーチとひとつの入口があります。

ポルティコに覆われている身廊の西扉口は、馬蹄形です。
レンガ造りの西側ファサードは、床から始まるアルフィス(装飾的な長方形の枠)で囲まれた馬蹄形アーチがあり、この身廊がモサラベ様式であるという説を後押ししている。アーチが乗るインポストは装飾されており、サモラ(Zamora)様式を彷彿させるが、斧で加工された跡がはっきりと残っており、ロマネスク様式に近い印象を与えている。

6. 外観(南側)
南に行きます。

南ポルティコには八つのアーチとひとつの入口があります。

サン・エステバン(San Esteban)の場合と同様に、その後期の特徴(いくつかの柱頭がすでにゴシック様式を呈している)にはサン・ミジャン(San Millán)やサン・マルティン(San Martín)などの影響が見られ、一般的には、ドゥラトン(Duratón)の柱廊工房の遠い響きが感じられる。
最も顕著な例としては、植物が絡み合い、その上で草を食む2匹の子牛が描かれた二つの柱頭であり、そのうちのひとつには人物像が添えられている。

このモチーフは、ドゥラトン(Duratón)のポルティコでも見られ、サン・ファン・デ・ロス・カバリェロス(San Juan de los Caballeros)やサン・エステバン(San Esteban)でも、バリエーションを変えながら繰り返されている。
7. 外観(東側)
東に行きます。
三後陣があり、主後陣に窓が三つあります。

主後陣の三つの窓に合わせて六つの柱頭があります。
六つの柱頭を南(左)から順にみます。
柱頭1は「受胎告知」(『ルカによる福音書』1章)だと思います。
本を読むマリアのもとに天使ガブリエルが訪れた様子かなと思います。マリアが座る椅子が2頭のネコ科の動物で飾られているようで、興味深いです。
柱頭2は、巻毛の人物と、聖句を持つ禿頭の人物かなと思います。

柱頭3は、殉教の場面だと思います。
司教冠を被った聖職者が兵士の手によって殺される場面を描いている。第三の人物である侍祭が、その場面を恐怖の表情で見ている。両手を上げて手のひらを見せる被害者と、剣で聖職者の頭を打つ執行人の間に、布で覆われた祭壇があり、その上に十字架がある。
Gonzalo de Berceo などが収集した伝承によると、おそらくこの場面は、聖ラウレンティウスの師である教皇シクストゥス2世の斬首による殉教を示しているのであろう。

柱頭4は殉教の場面だと思います。
反対側の柱頭には、もう一つの凄惨な拷問の場面が描かれており、 これは聖ラウレンティウスの殉教の物語の一部であると考えられ、ネコ科の動物たちの像で装飾された椅子に座ったラウレンティウスが、祈りを捧げるような仕草で手を合わせ、二人の執行人によって拷問される。執行人たちはそれぞれの手に持った熊手で聖人の腹を二つに開いており、その残虐性によって、聖人の穏やかな表情と対照をなしている。

柱頭5は聖ラウレンティウス(San Lorenzo)の殉教だと思います。
ヤコブス・デ・ウォラギネが書いた『黄金伝説』によると、聖ラウレンティウスはスペイン生まれの3世紀の殉教者です。生きながら鉄格子の上で火あぶりされて、執行人に「こちら側は焼けたから、もうひっくり返してもよい。」と伝えたといわれています。
また、『黄金伝説』によると、聖ラウレンティウスの受難は、他の殉教者たちの受難とくらべても格別にありがたいものとみなされます。その第一の理由は、彼が受けた拷問がとくべつに苛酷なものであったためです。剣で首を刎ねられる者は、ひとおもいに死にますが、聖ラウレンティウスはもっと時間のかかる、あの手この手の拷問にかけられて、はてしない死の苦しみを味わいました。また、火のなかを歩かされた少年聖人たちは素足で火を踏み消しましたが、聖ラウレンティウスはわき腹から流れおちる血で火を消しました。
もしかすると、柱頭3(剣で首を刎ねられる他の殉教者)や柱頭4(わき腹を開かれる聖ラウレンティウス)は、『黄金伝説』が言う第一の理由を強調しているのかもしれません。

柱頭6は「アブラハムによる息子イサクの犠牲」(『創世記』22章)だと思います。
祭壇の薪の上にイサクが縛られています。アブラハムは息子イサクの髪をつかんでいます。アブラハムは刃物を取って息子を屠ろうとし、天使がそれを止めています。上部には、イサクの代わりに焼き尽くすいけにえとなる雄羊が彫られています。

Iglesia Parroquial de San Lorenzo。ポルティコと後陣の外観が素晴らしいです。
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