2024年7月30日(火)、最初に訪れたのはSan Vincenzo al Volturno、Cripta di Epifanioです。
ここは、プレロマネスクの壁画(9世紀)が素晴らしいです。
地下聖堂(Cripta di Epifanio)は、記念碑的建物群(Complesso monumentale di San Vincenzo al Volturno)の中にあります。
2024年、地下聖堂(Cripta di Epifanio)は、火曜から日曜の8:45〜14:20にガイドツアーで見学できました。予約はメッセージ専用WhatsApp番号を通じて行いました。有料(地下聖堂ガイドツアー€10+記念碑的建物群€5)でした。
地下聖堂(Cripta di Epifanio)の内部では撮影禁止です。
目次
1. San Vincenzo al Volturno へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. Cripta di Epifanio .
1. San Vincenzo al Volturno へ
サン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴォルトゥルノ(San Vincenzo al Volturno)は、モリーゼ州イゼルニア県にある修道院です。モリーゼ州の州都であるカンポバッソ(Campobasso)の約48km西にあります。
記念碑的建物群(Complesso monumentale di San Vincenzo al Volturno)は、ヴォルトゥルノ(Volturno)川の源流に接していて、そのせせらぎの左岸にあります。
記念碑的建物群(Complesso monumentale di San Vincenzo al Volturno)に入るには、赤い矢印で示した事務所で、管理人に料金を支払います。
地下聖堂(Cripta di Epifanio)のガイドツアー料金は、別途、ガイドに支払います。(ガイドは時間になると事務所に来ます。)

地下聖堂だけを訪問したい場合も、地下聖堂のガイドツアー料に加えて、記念碑的建物群への入場料が必要です。
ガイドツアーが始まると、記念碑的建物群(Complesso monumentale di San Vincenzo al Volturno)に移動します。
2. 概要
事務所で小冊子やリーフレットをもらいました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
ヴルトゥルネンシス年代記(Chronicon Vulturnense)
年代記は12世紀前半にさかのぼり、修道士ジョヴァンニが他の修道士たちの協力を得て執筆した。年代記は、サン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴルトゥルノ修道院(Abbazia di San Vincenzo al Volturno)が創設されてから、12世紀に現在の場所である川の右岸に移転するまでの歴史を再構成した文書である。ヴァティカン図書館に保存されている。

この年代期のおかげで、修道院の歴史がわかっています。
サン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴルトゥルノ修道院(Abbazia di San Vincenzo al Volturno)は、703年にベネヴェントの貴族出身の3人の若い修道士(Paldo、Taso と Tato)によって創設された。最初の80年間は、ベネヴェントのロンゴバルド公国の保護の下で発展し、その後、フランク・カロリング朝帝国の庇護の下で成長を続け、ヨーロッパ屈指のベネディクト会修道院となった。カロリング朝の南の国境に位置していたことから、カール大帝の庇護を受け、免罪特権や修道院長の自由選挙権などの特権を得た(787年)。カロリング朝時代には、ヨシュア(Joshua、792年-817年)、タラリクス(Talaricus、817年-823年)、エピファニウス(Epyphanius、824年-842年)の修道院長たちが、修道院の整備と装飾を完成させ 、ヴォルトゥルノ(Volturno)川左岸の修道院都市へと変貌を遂げた。今日でも、サン・ヴィンチェンツォ・マッジョーレ教会(Basilica di San Vincenzo Maggiore)の堂々たる遺跡やエピファニウス地下聖堂(Cripta di Epifanio)の素晴らしいフレスコ画を鑑賞することができる。
その富ゆえに、881年10月10日、ナポリ公アタナシウス2世によって派遣されたサラセン人が修道院を襲撃し、修道院の様々な建造物を破壊し、修道士たちのほとんどが死亡したことで、その隆盛は止まった。
ガイドによると、約900人の修道士が殺されたそうです。
共同体の復興は少なくとも11世紀まで続いたが、当時の困難、すなわち、共同体の数が大幅に減少したこと、政治的・経済的状況がカロリング朝時代よりも不利になったこと、新しい土地の征服に熱心なノルマン人が到来したこと、その結果、修道院の土地所有が制限されたことなどに直面し、中断された。そのため、大きすぎて費用のかかる修道院を放棄し、ヴォルトゥルノ川の対岸に、より小さく防御力の高い修道院を建てることにした。
12世紀の修道院
教皇パスカリス2世によって1115年に奉献された教会を持つ12世紀の新しい修道院は、ヴォルトゥルノ川の右岸にある広大なネクロポリスの上に建てられている。1960年代に部分的に再建され、14世紀の聖歌隊席、ロマネスク様式のレイアウト、オプス・セクティレ(opus sectile)の床、印象的な「巡礼者のポルティコ」などが保存されている。1699年以来、モンテカッシーノ修道院(Abbazia di Montecassino)に属し、現在はサンタンジェロ・イン・ポンターノ出身の修道女のベネディクト会共同体が活動している。
モンテカッシーノ修道院(Abbazia di Montecassino)は、ここから約28km南西にあります。どちらのベネディクト会修道院も、隆盛を誇った長い歴史があります。また、718年頃、サン・ヴィンチェンツォ・アル・ヴルトゥルノ修道院(Abbazia di San Vincenzo al Volturno)がモンテカッシーノ修道院(Abbazia di Montecassino)の再興を助けるなど、ふたつの修道院のつながりにも長い歴史があります。
こちらの地図に「ABBAZIA DI XII SECOLO」と示されているのが、12世紀に建てられた修道院です。

エピファニウスの地下聖堂(Cripta di Epifanio)を含む、それまでの修道院施設や教会は、ヴォルトゥルノ川の左岸にありました。廃墟となり忘れられていましたが、19世紀に再発見されました。
最初の発見は1832年、地元の農夫が偶然、9世紀にさかのぼる絵画が描かれた地下室を発見し、後にエピファニウスの地下聖堂として知られるようになった。発掘調査が始まったのは、それから150年後の1980年、イギリスの考古学者リチャード・ホッジス(Richard Hodges)が率いるミッションによって、ヴォルトゥルノ川の左岸に中世初期の大規模な修道院都市が存在することが明らかにされてからである。
発掘調査は今も続けられています。
今日に至るまでの考古学的調査によって、ベネディクト会修道院の多くの秘密が明らかにされ続けており、ヨーロッパ中世におけるその重要な役割を理解するのに役立っている。発見された数多くの遺物は、その職人たちの高度な専門性と多種多様性を示している。彫刻、絵画、大理石、鍛冶、建築、鐘鋳造、宝石、骨や象牙。高度に洗練されていたのは、七宝焼き、ミルフィオリ技法、中近東由来の黄金色のパティーヌの使用、色とりどりのステンドグラスのガラス職人たちであった。
エピファニウスの地下聖堂(Cripta di Epifanio)
修道院長エピファニウスの名に因む記念碑的建造物は、「北の教会」における9世紀のフレスコ画の地下聖堂である。現在は非常に有名であるが、もともとはこの時代に修道院の北部に建てられた数多くの新しい建造物のうちのひとつに過ぎなかった。地下聖堂と上部の聖域は同時に建設された。地下聖堂は、修道院の有力な後援者のための葬祭礼拝堂として構想されたようである。彼の墓は、地下聖堂の様子を教会の身廊から見渡せるように設けられた、小さな窓の下に置かれたに違いない。
この後も、小冊子やリーフレットを引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
小冊子によるエピファニウスの地下聖堂(Cripta di Epifanio)の平面図です。東が下です。

1がアクセス階段です。10と11との間に窓があり、身廊からのぞくことができます。
1 – アクセス
2 – 冥府降下のキリスト
3 – 殉教者たち
4 – 幼子を戴く戴冠の聖母
5 – パントクラトル(全能者)のキリスト
6 – 戴冠の聖母
7 – 聖大天使(キリスト)
8 – キリストの足元にひれ伏す人物
9 – 大天使たち
10 – 大天使ガブリエル
11 – 聖母
12 – 聖母の懐妊
13 – 洗礼
14 – 磔刑とエピファニウス大修道院長
15 – エルサレム
16 – 墓所のマリアたち
17 – 復活のキリスト
18・19 – 聖ラウレンティウスと聖ステファノ
20 – 聖ラウレンティウスの殉教
21 – 聖ステファノの殉教
22 – 祈る助祭
23 – 神の手
4. Cripta di Epifanio
地下聖堂(Cripta di Epifanio)のある教会に来ました。
赤い矢印がアクセス階段、青い矢印が身廊から地下聖堂をのぞくことのできる窓です。

身廊の窓からのぞいた、地下聖堂です。身廊で撮影することは許可されています。

でも、地下聖堂の中で撮影することは禁止されています。フレスコ画の詳細な写真は、小冊子の画像をお借りします。
一連のフレスコ画は、修道院長Ambrosius Autpertと、彼の『ヨハネの黙示録』に関する研究が聖母マリアの姿に与えた深い影響に満ちている。
入口の向かいにある窓は、この空間における唯一の自然光の源である。この開口部の上には、神の手を象徴する伸びた手が描かれており、この光の超自然的な起源を示唆し、その力を強調している。
地下聖堂の暗闇を破り、死の神秘の前に立つ人間の魂を象徴するこの光は、真理の啓示を象徴している。光の筋の上には、玉座に座るキリストが万物を支配する主として描かれている。キリストは、受肉の神秘が表現されている身廊に向かう壁と、最後の審判の日を暗示する総合的かつ明白な表現で全てが終結する後陣に向かう壁の間の交差点に置かれている。キリストの生涯の象徴的な場面がいくつか描かれており、聖母がキリストが人間となり救済を告げ知らせるための媒体となった役割を強調している。
キリストの地上での経験が終わる磔刑は、キリストを信じる者が啓示を受け、それを証言する瞬間でもある。
キリストの足元に、ひざまずいている人がいます。「Dom Epyphanius Abb」と刻まれているので、エピファニウス大修道院長です。

この側面は、ローマ時代の殉教者ラウレンティウスとステファノの犠牲が描かれた向かいの壁の一連の絵画でさらに深められている。彼らの証言は、究極の自己犠牲に達し、それはすぐに神からの永遠の栄光と至福の新たな人生へと変容する。ラウレンティウスの殉教の描写では、神から遣わされた天使が彼の魂を天に導く瞬間が描かれている。

後陣の反対側では、極限の犠牲の象徴である冠を手に持った女性殉教者の行列が、主の栄光を永遠に分かち合うことを象徴している。

後陣では、終末の瞬間が簡潔かつ強烈な暗示によって表現されている。4人の大天使(ミカエル、ラファエル、ガブリエル、ウリエル)が風を止め、象徴的に地球儀に封じ込められた星の光を消し去った後、5番目の天使が西からやって来るのを証言する。その天使とは他ならぬキリスト自身であり、正義の人と呪われた人を選別するためにやって来たのだ。

聖母は中間的な位置にあり、全権を握るキリストと審判を下すキリストの間で、人類の仲介者としての役割を果たしている。地下聖堂に埋葬されていた者は、最後の審判の日、象徴的に、西から現れ自分を裁く者の姿を目の前に見ることになる。

これらのフレスコ画の様式を評価することは特に難しい。なぜなら、これらは1000年以前のイタリア絵画の一貫した様式を伝える数少ない現存する証言のひとつだからである。

しかし、研究の進展により、これらの優雅な絵画が、8世紀の成熟期におけるロンバルディアの宮廷芸術と類似していることが明らかになった。ブレシアのサン・サルバトーレ、ベネヴェントのサンタ・ソフィアや大聖堂、スポレート近郊のクリトゥンノ、ファザーノ(BR)近郊のセッパニバーレなどとの比較が提案されている。100年以上にわたり、地下聖堂はこの修道院が誇った壮麗さの唯一の証拠となっている。この地下聖堂に保存されている一連のフレスコ画は、1000年以前のイタリア絵画の数少ない現存例のひとつである。
これだけ見事なフレスコ画が残っているのに、Cripta di Epifanio は、最盛期の修道院の壮麗な建物群の端に残された、ごく一部に過ぎません。失われた部分は、どれほど荘厳だったことでしょう。
Cripta di Epifanio。プレロマネスクの壁画(9世紀)が素晴らしいです。
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