サクラ・ディ・サン・ミケーレ(Sacra di San Michele)

2023年8月1日(火)、最初に訪れたのは Sacra di San Michele です。

ここは、驚きのパノラマ、死者の階段、黄道十二宮門、後陣窓の浮き彫りが素晴らしいです。私は見られませんでしたが、初期礼拝堂も見どころです。

自由見学は毎日9:30〜17:30。有料(€8)です。(2023年8月現在の情報です。)

目次

1. Sacra di San Michele へ 
 1-1. 修道士の墓(Sepolcro dei Monaci).
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 東側外観 .
5. 死者の階段(Scalone dei Morti) .
6. 黄道十二宮門(Portale dello Zodiaco) .
7. 初期礼拝堂(Cappelle Primitive) .
8. 後陣窓の浮き彫り .
9. 驚きのパノラマ .

1. Sacra di San Michele へ

私は Airbnb から北西に約91km、70分ほど運転して、山の中腹の駐車場に着きました。12:00頃のことです。ここから歩いて1.2km、26分ほど、標高差約146メートルを登ります。

南東側遠景

Sacra di San Michele への道はたくさんあります。下に示した道は比較的大きくて舗装されている道です。分かりやすいし、安心して歩くことができます。

Googleマップより

Sacra di San Michele の教会などの建物から200メートルくらい手前(南西)に、ロマネスク様式の廃墟があります。

修道士の墓(Sepolcro dei Monaci)です。

南側外観

西側は基礎部分だけが、東側は三つの後陣が、残っています。

1-1. 修道士の墓(Sepolcro dei Monaci)

案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

修道士の墓(Sepolcro dei Monaci)
11世紀後半~12世紀
中央の八角形のプランは、キリストの遺体が安置され復活した場所(=アナスタシス)に建てられた建物、アナスタシスのロトンダに由来する。

初期キリスト教時代には、殉教地や聖人の埋葬地(=マルティリア)の近くに同様の建物が建てられた。類型は、聖墳墓に捧げられた教会や洗礼堂(洗礼を受けた人々がキリストのうちに新しい命への復活を見出す場所)でも繰り返されている。

1989年から92年にかけて修復された。

八角形と書いてありますが、正方形と半円形を交互に並べたような形なんです。面白い。

Googleマップの航空写真

三つの後陣を内側から見ます。左が半円形、中央が正方形、右が半円形です。

東を向く

三つの後陣を外側からみます。

Sepolcro dei Monaci 東側外観

盲アーチと付け柱が美しいです。

Sepolcro dei Monaci の見学はこれで終わり。

私は北東に200メートルくらい歩いて受付に行き、入場料を支払いました。Sacra di San Michele の教会などを見学します。

2. 概要

教会の中にQRコードと案内掲示がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

Sacra di San Michele は、トリノから40km離れた Pirchiriano 山の頂上に983年から987年にかけて建てられた古い修道院である。

後述しますが、現在の教会の下に Cappelle Primitive(初期礼拝堂)があり、4世紀に遡ります。

ピエモンテ州を象徴するモニュメントとして知られ、作家ウンベルト・エーコのベストセラー『薔薇の名前』に着想を与えた場所でもある。塔の頂上からは、ピエモンテの首都とSusa渓谷の息を呑むようなパノラマを眺めることができる。キリスト教の信仰と人々を守る大天使ミカエル信仰に捧げられた Sacra di San Michele は、フランスの Mont Saint-Michel からプーリアの Monte Sant’Angelo まで続く、全長2000kmを超える巡礼路の一部である。

この後も、QRコードと案内掲示を引用するときは太字で書きます。

3. 平面図

教会の外に地球生物学的測量として掲示してあった平面図です。東が右です。

教会の外に掲示してあった平面図

では、見学しましょう。

4. 東側外観

入場門を通ると、巨大な大天使ミカエル像(2005年)とファサード、その上に後陣があります。

ファサード(高さ41メートル)の堅固さは、土台を形成するブロックの鋼鉄のような灰色によって強調され、緑がかった教会の曲線とのコントラストをなしている、
中央後陣には、印象的な小アーチのギャラリー(「Loggia dei Viretti」)があり、これはロマネスク様式の後陣ロッジアの現存する最高の例のひとつである。

ベネディクト会の修道士たちは、12世紀前半にこの土台の大工事を行い、その上に五つのアプスを持つ大きな教会を建てた。

東側外観

圧倒的な威容です。

5. 死者の階段(Scalone dei Morti)

迫力のある空間が続きます。

死者の階段(Scalone dei Morti)は、入り口階から幅の広い急な階段で行くことができ、その建設は12世紀半ばに遡るようである。最初の数段を登りきると、高さ18メートルを超える柱が上の教会の床を支えているのが左手に見える。

死者の階段(Scalone dei Morti)

右側には岩の露頭が現れ、反対側の壁に隠れて見えなくなる。中央のニッチには、1936年まで多くの修道士の骸骨が保管されていたため、「死者の階段」と呼ばれている。

死者の階段(Scalone dei Morti)

この「アトリウム」はかつて、修道院の名士、修道院長、修道院の功労者の埋葬に多く使われていた。大理石で飾られた墓もあれば、漆喰で塗られた墓もあった。現在残っているのは、そのうちの五つだけである。

6. 黄道十二宮門(Portale dello Zodiaco)

死者の階段の頂上に着くと、ピアチェンツァ出身の有名な親方、Nicolaoによって彫刻されたロマネスク様式の作品である「黄道十二宮門(Portale dello Zodiaco)」(1128年〜1130年)を通る。

黄道十二宮門(Portale dello Zodiaco)

死者の階段の面に16個の星座の印が彫刻されていることから、黄道十二宮門(Portale dello Zodiaco)と呼ばれています。

黄道十二宮門(Portale dello Zodiaco)

歴史的観点から最も重要なのは、右側縁の中央で、ウサギ狩りの場面の角に、ラテン語で書かれた二つの詩があり、作者の署名で終わっている。

どこかにNicolaoって書いてあると思って探したのですが、私は見つけられませんでした。

柱頭も素晴らしいです。

こちらの柱頭は「カインとアベル」(旧約聖書『創世記』4章)だと思います。

『創世記』4章
5: カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
6: 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
7: もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。

カインの背後に描かれているのは「罪」かもしれません。

カインとアベル(旧約聖書『創世記』4章)の柱頭

こちらの柱頭は、髪を引っ張り合う人たちだと思います。

髪を引っ張り合う人たちの柱頭

こちらの柱頭は「建物を崩落させるサムソン」(旧約聖書『士師記』16章)だと思います。

サムソンは、母の胎内にいたときから神にささげられていたナジル人(「ナジルびと」は特別の誓願を立て主に献身する人)でありながら、禁忌をやぶってばかりでした。怪力を持て余して暴れては、死体に触れたり、異教徒と結婚したり、、、もう、やりたい放題。そんなサムソンの最期は、彼らしく壮絶なものでした。

『士師記』16章
27: 建物の中は男女でいっぱいであり、ペリシテの領主たちも皆、これに加わっていた。屋上にも三千人もの男女がいて、見せ物にされたサムソンを見ていた。
28: サムソンは主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。」
29: それからサムソンは、建物を支えている真ん中の二本を探りあて、一方に右手を、他方に左手をつけて柱にもたれかかった。
30: そこでサムソンは、「わたしの命はペリシテ人と共に絶えればよい」と言って、力を込めて押した。建物は領主たちだけでなく、そこにいたすべての民の上に崩れ落ちた。彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった。
建物を崩落させるサムソン(旧約聖書『士師記』16章)の柱頭

こちらの柱頭は、4匹の蛇と2人の女性だと思います。

4匹の蛇と2人の女性の柱頭

こちらの柱頭は、4羽の鷹だと思います。

4羽の鷹の柱頭

こちらの柱頭は、ライオンだと思います。

ライオンの柱頭

こちらの柱頭は、3匹のトリトンだと思います。

3匹のトリトンの柱頭

柱の台座も凝っています。3頭のライオンの台座の他、2頭のグリフォンが男性の頭をつつく台座があります。

2頭のグリフォンが男性の頭をつつく台座

7. 初期礼拝堂(Cappelle Primitive)

黄道十二宮門(Portale dello Zodiaco)を通ると、いったん屋根のない部分に出ます。そして、南扉口から教会に入ります。

教会に入ると、身廊に階段があります。

初期礼拝堂(Cappelle Primitive)へと続く階段です。

身廊にて東を向く

残念ながら、見学不可でした。

でも、中の様子は、QRコードからYouTubeで見ることができました。

教会内に掲示してあった初期礼拝堂(Cappelle Primitive)の平面図です。東が上です。

Cappelle Primitive(初期礼拝堂)の平面図

A – 4世紀初頭、ミラノ勅令(313年)の後に建てられた第1礼拝堂。
B – ロンバルド様式の第2礼拝堂。
C – 12世紀初頭(1100-1125年)、第5教会の右側の柱のための台座の建設により、礼拝堂の後陣が犠牲になった。
D – 10世紀初頭(900年)、元ラヴェンナ大司教の San Giovanni Vincenzo によって建てられた第3礼拝堂。

4世紀初頭には礼拝堂があったんですねえ。

山頂っていう特殊な立地が信仰の場所になった理由のひとつかもしれません。

8. 後陣窓の浮き彫り

後陣をみます。

身廊にて東を向く

ロマネスク・ゴシック様式の教会は数世紀にわたって建設され、改修された。
最初の様式はロマネスク様式で、聖ミカエルの祝日(9月29日)に太陽が昇る正確な場所を向いている後陣や、最初のアーチ、関連する窓や柱に見られる;第二の様式は、次の二つのアーチと桟橋、尖ったアーチの過渡期のロマネスク様式である;そして第三の様式は、中央後陣の大きな窓と側廊の二つの窓の装飾に見られるピアチェンツァ派のゴシック様式である。

聖ミカエルの祝日に太陽が昇る方向を正確に向くように建てるの、簡単じゃなさそうです。

教会の建設が開始された年代を特定するのは難しいが、Stefano 大修道院長(1148年〜1170年)の依頼によるものと推測されている。

後陣中央の窓には預言者(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル)と「受胎告知」(ルカによる福音書1章28節)が描かれています。

後陣中央の窓

向かって左に天使ガブリエル、右にマリアが描かれています。

マリアのとまどう表情が印象的です。

天使ガブリエル
マリア

9. 驚きのパノラマ

教会を出て、北へ行きます。

そこには、驚くようなパノラマが広がっています。

北のパノラマ

手前の廃墟は、新修道院跡です。

山の北西側には、長さ約50メートルにわたって、柱、壁、アーチ、鉄柵などの印象的な遺跡がある。これらはいわゆる新修道院跡で、12世紀から14世紀にかけて修道院共同体が最大限に拡大していた時代に建てられた。この堂々たる5階建ての建物には、北に向かって新しい建物が増築され、いわゆる「美しきアルダの塔」で終わっていたが、地震や戦争、放置によって荒廃してしまった。

悲しい伝説があります。

「美しきアルダの塔」(Torre della Bell’Alda)は、山の絶壁に張り出した塔で、その名は同名の主人公に由来する。

伝説によると、村の少女 Alda は、戦争の災いを防ぐために Sacra に祈りにやってきた。不運にも少女は敵兵の奇襲を受け、その攻撃から逃れようとするが、他に逃げ道がなく、聖ミカエルと聖母マリアの助けを求めて渓谷に身を投げる。彼女は断崖絶壁の下に無傷で着地し、生き延びた。残念なことに、この天からの恩恵は彼女によって悪用された。虚栄心と金銭欲から、彼女は二度目の跳躍ができると想像し、信じられない村人たちにもう一度跳躍を繰り返すことを申し出た。しかし、彼女はその時、前回の奇跡的な救いの現場で、恐ろしい死に方をしたのである。

哀れな Alda。虚栄心と金銭欲から跳んだって、救われないでしょう。

Sacra di San Michele。驚きのパノラマ、死者の階段、黄道十二宮門、後陣窓の浮き彫りが素晴らしいです。私は見られませんでしたが、初期礼拝堂も見どころです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です