アリアテ(Agliate)

2023年7月30日(日)、最初に訪れたのは Agliate。Basilica dei SS Pietro e Paolo です。

ここは、後陣の外観と地下聖堂が素晴らしいです。

教会は日曜から金曜8:00〜17:30、土曜8:00〜19:30に開きます。洗礼堂は祝日8:00〜17:30に開きます(2023年7月現在の情報です)。

目次

1. Agliate へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 東側外観(後陣) .
5. 身廊 .
6. 内陣 .
7. 地下聖堂 .
8. 洗礼堂 .

1. Agliate へ

私は Airbnb から北に約6km、12分ほど運転して、大きな村に着きました。車は墓地(Cimitero di Agliate)の駐車場に停めました。8:15頃のことです。

西側外観

朝いちばんに訪れる教会は、いつも、ひときわ私の心にさわやかに映ります。

2. 概要

教会の外にQRコードがありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

ローマ時代の農村地区(Pagi)の所在地であったこの場所の重要性は、その立地にある。Brianza 中心部と Monza、Milano、そして Como を結ぶ道路の合流地点であり、Lambro 川にかかる浅瀬(現在の橋は中世から存在した)に近いのである。

この地におけるキリスト教共同体の誕生は、教区教会の誕生と重なる。それは、教会がローマ帝国の管轄組織を受け入れたことによって誕生した。Pagi が選ばれたのである。

迫害の時代が終わりを告げた紀元313年までには、キリスト教の伝播はそれほど困難ではなくなった。しかし、田舎では、キリスト教はなかなか広まらなかった。住民のほとんどが新しい教団に消極的で、宗教的、家族的、社会的伝統に固執していたからである。そのため、教区は田舎の人々を伝道する中心地として誕生した。

5世紀以降、キリスト教が田園地帯に定着し始めたのは、聖アンブロシウスの働きかけによるものであった。その後、ローマ帝国が滅亡し、ゴート族やロンゴバルド族といった蛮族が到来すると、Pagi の秩序は急速に衰退し、キリスト教小教区の重要性が高まった。

Agliate の教区教会の設立と最初の洗礼堂の設立は、6世紀に遡るというのが学者の一致した見解である。アンブロシウス派の厳格な戒めによれば、教区教会と洗礼堂は別々の建物でなければならなかった。そして、最初の司祭が任命されたこの場所で、洗礼の秘跡が執り行われたのである。

この後も、QRコードのウェブサイトを引用するときは太字で書きます。

3. 平面図

現地には平面図が見当たりませんでした。ゾディアック(Zodiaque)la nuit des temps の『Lombardie romane』による平面図です。東が上です。

ゾディアック(Zodiaque)より

では、見学しましょう。

4. 東側外観(後陣)

最初に東側に行きます。

わお。

東側外観

盲アーチではなく、アーチの下には窪みがあり、行儀よく並んでいます。

5. 身廊

教会の中に入ります。三身廊、三後陣です。

南側廊の壁には、修復作業や考古学的発掘作業によって発見された遺物が展示されています。

左から中世の測量標識、アルビノ(Albino)という読師に捧げられた初期キリスト教時代の碑文が刻まれた石碑、紀元2世紀末のSextilii夫妻に捧げられた碑文が刻まれた板碑、解釈の定かでない碑文が刻まれた墓碑である。

南側廊
中世の測量標識
初期キリスト教時代の石碑
紀元2世紀末の板碑
墓碑
墓碑

また、ローマ時代の資材が再利用されています。

これらの資材の多くは、現在の建物だけでなく、それ以前の教会の建築資材としても再利用されており、その名残は、1990年の考古学的発掘調査で発見された身廊の床を通して見ることができる。

入って右側の最初の柱の基部には、ユピテルに捧げられた碑文が刻まれた祭壇全体と、以前の教会の古い壁の痕跡が見える。

南側廊にて北東を向く

反対側には、柱として再利用された、背教者ユリアヌス帝(紀元361年)に遡るローマ時代の石柱があり、おそらくComoから2マイル目を指しているのであろう。三つの碑文が刻まれている。一つは柱の内側に大きく書かれたユリアヌス帝にちなんだ碑文、もう二つは、マクシムス帝とその息子フラウィウス・ヴィクトル帝に捧げられた碑文である。(383年から388年と384年から388年)。

北側廊にて南東を向く

さらに注目すべきは、左側の列柱の柱頭で、おそらくネプトゥヌス神か川の神に捧げられた古代の神殿のものと思われる。

イルカがアンフォラの水を飲んでいます。そのアンフォラから、ネプトゥヌスの三叉矛が出ています。

身廊の柱頭

4本目の柱の土台は考古学的に重要なもので、ローマ時代の祭壇や台座の半分であることが判明している。

4本目の柱の土台

身廊の壁には、預言者や創世記を描いた10世紀末から11世紀初頭頃のフレスコ画がある

でも、私はうまく写真を撮ることができませんでした。

6. 内陣

内陣には、創世記と同じ頃に描かれたとされているキリストがあります。

階段の下に行くと、ヴォールトの装飾に目を奪われる。左手には開かれた書物を持ち、祝福するのではなく、正義を下すために右手を挙げる裁判者キリストが描かれている。

パントクラトール(全能者、万物の支配者)は、4人の福音書記者のシンボルに囲まれた円形の枠の中に置かれている。この装飾は創世記の装飾と同時代のものであるが、別の親方の作品である。

10世紀末から11世紀初頭頃とされているフレスコ画

後陣にはフレスコ画の跡がありますが、16世紀頃の作品のようです。

内陣への階段(身廊にて東を向く)

ちなみに、内陣の周りにはロマネスクっぽい装飾がありますが、19世紀の作品です。

説教壇、手すり、内陣に続く階段は、古い様式を模倣しているが、1894年に地方芸術局(Ufficio Regionale)によって設計された最近の作品で、U.R.の碑文が刻まれている。

内陣への階段の両脇にある二つのビフォラ(開口部が二つの窓)から地下聖堂が見えます。

7. 地下聖堂

北小内陣から地下聖堂に行きます。

ゾディアック(Zodiaque) la nuit des temps の『Lombardie romane』による地下聖堂の平面図

とても美しい地下聖堂です。

地下聖堂身廊にて東を向く

十字ヴォールトは、柱頭を持つ8本の石柱によって支えられています。

地下聖堂身廊にて北東を向く
地下聖堂身廊にて南東を向く

柱頭のひとつは白大理石製で、9〜10世紀の珍しい作品である。

この柱頭ひとつだけ、突出した存在感を放っていました。

柱頭

地下聖堂は聖ペトロの兄弟である聖アンデレに捧げられている。ここは「iemale」、すなわち冬の教会として、寒さが厳しい時に毎日の礼拝に使われた。

半地下なので室温が下がりにくいためだと思います。

また、地下聖堂は参事会員(canonici)たちが集う教会でもあった。女性は禁じられ、内陣への階段の両脇にある二つのビフォラ(開口部が二つの窓)から礼拝に参加することができた。

8. 洗礼堂

外に出ると、教会と洗礼堂との間に鐘楼があります。この鐘楼は19世紀の作品です。

19世紀後半に建てられたネオ・ロマネスク様式の鐘楼の周りには、1990年に教会内部の考古学的発掘調査で発見された、壊れた石碑がある。

洗礼堂に行きます。

洗礼堂西側外観

洗礼堂と洗礼盤の八角形の形は、聖アンブロシウスが望んだものである。

ゾディアック(Zodiaque) la nuit des temps の『Lombardie romane』による洗礼堂の平面図

水路によって水を流すタイプの浸水式の洗礼盤は、成人の洗礼のために設置されたもので、その設置の古さを物語っている。洗礼堂の片側に向かって急傾斜している土製の床は、排水孔が開いており、洗礼を受けたばかりの人が洗礼盤から出る際に滴り落ちる水が淀むのを防いでいた。

西扉口にて東を向く

勝利アーチの上には「ヨルダン川でのイエスの洗礼」が描かれていたのではないかと思います。

西扉口にて東を向く

洗礼に立ち会う天使たちだけが残されています。

天使たち

その天使たちの上に、舟に乗る聖ペトロと聖アンデレが描かれています。「奇跡のすなどり」(ルカによる福音書5章)だと思います。

聖ペトロと聖アンデレ

側面に描かれた聖人たちの姿も、同じく11世紀初頭に描かれたものである。 後陣にも当時の装飾の痕跡が残っており、鎖帷子で覆われ、槍と盾で武装した戦士の聖人がアーチの中に描かれている。

最近の修復作業により、おそらくローマ時代か後期ローマ時代の石組み構造が発見された。洗礼堂の基礎の下地にもなっている。

古代からの歴史が織り混ざって、ロマネスク建築になっているんですねえ。

Basilica dei SS Pietro e Paolo。後陣の外観と地下聖堂が素晴らしいです。

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