2022年9月18日(日)、最初に訪れたのは Gigny。Église abbatiale Saint-Taurin です。
ここは、教会の中にある彫刻と、それらとよく似た持ち送りの彫刻が良いです。
目次
Gigny へ
概要
フロアプラン
内観:全体
内観:高い場所にある彫刻
内観:少し残念なクワイヤ
外観:南側(扉口と持ち送り)
外観:北側(鐘楼基部、持ち送り)
Gigny へ
Gigny は、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏にあります。トゥルニュ(Tournus)まで57kmの道のり。Lyonからは100km以上も離れています。この日は、午後に予定していた別の教会の前に訪れることができそうだ、と考えた次第。
夫と私は宿から北東に約109km、車を93分ほど運転して、全部が大修道院村だったんだろうなと感じる村に着きました。12時頃のことです。
Église abbatiale Saint-Taurin の西には、教会を守るように建物の列が湾曲して並んでいます。
教会に行くには、建物のひとつの下をくぐり抜けます。
くぐり抜けると、えらそうなファサードが、どーん。
概要
教会の中にも外にもたくさんの案内がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
880年代、ベルノン(Bernon)がこの場所にベネディクト会共同体を設立。
909年、Bernon が、ベネディクト会クリュニー小修道院を設立。
伝承によれば、クリュニーの設立時には修道士が12人いて、Baume から6人、Gigny から6人が来たそう。当時、Gigny はすでに大修道院(abbaye)でした。
1076年、教皇グレゴリウス7世はクリュニー大修道院長ユーグ・ド・スミュール(Hugues de Semur)に Gigny の監督を委ね、1095年には Gigny の修道院としての格を下げた。
12世紀から14世紀にかけて、相次ぐ戦争、略奪、疫病にもかかわらず、修道院はかなりの人口を維持した(25人から35人の修道士)。また、21の小修道院と49の小教区教会の庇護を維持した。
1492年から1503年まで、修道院はジュリアン・デッラ・ロヴェレ枢機卿の手に渡り、彼はその後、教皇ユリウス2世となった。現在の教会ファサードの修復は彼の手によるもので、ティンパヌムの紋章がそれを物語る。
1760年、世俗化。1788年、共同体は弾圧され、教会は教区教会となった。
私が撮った写真を見ながら現地の案内を引用するときも、太字で書きます。
フロアプラン
現地にフロアプランがありました。東が上です。
濃い色の部分がロマネスク期、薄い色の部分が後代です。
内観:全体
太い柱が美しい身廊。
高い場所(天井の重みを支える付け柱の下)にある彫刻が、かなり魅力的です。
内観:高い場所にある彫刻
フロアプラン番号(7)の位置にあります。
羊とか
人とか
魅力的です。
内観:少し残念なクワイヤ
フロアプラン番号(13)
13世紀に四角い形に改築されたため、ロマネスク様式の後陣はありません。でも、通路のヴォールトや2本の八角形の柱は、小さな石で造られていて、ロマネスク様式の感じです。
フロアプラン番号(12)
内陣には、聖母子とイエスの像がありますが、これらは19世紀に作られた12世紀の彫像のコピーです。
それらのひとつはロン・ル・ソニエ考古学博物館(Musée d’archéologie de Lons-le-Saunier)に保管されています。
外観:南側(扉口と持ち送り)
南側は、南翼廊の扉口と、持ち送りがロマネスク。
フロアプラン番号(3)
南翼廊の扉口(12世紀)
フロアプラン番号(2)
南側の持ち送り。
動物や人が、わんさか。
後陣は13世紀に四角いものに改築されました。
外観:北側(鐘楼基部、持ち送り)
教会の北側は、小高くなっていて木立があり、狭い通路はありますが、南側と比べて人目につかない場所です。
鐘楼の基部を見ます。
鐘楼には、なぜか北側にだけ、盲アーチの装飾(12世紀)が残っています。
そして、北側も、持ち送りが良いんです。
教会の中の高い位置にあった、羊の彫刻によく似たものや、
幾何学模様など、ぬかりなく装飾してあります。
遠かったけど、来て、よかった。
見学の終わりに
Église abbatiale Saint-Taurin。教会の中にある彫刻と、それらとよく似た持ち送りの彫刻が良いです。
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