サン=ロマン=ル=ピュイ(Saint-Romain-le-Puy)<1>

2022年8月31日(水)、最初に訪れたのはSaint-Romain-le-Puy。Prieuré de Saint-Romain-le-Puy です。

ここは、玄武岩の山頂に建つ旧小修道院です。カロリング期(5世紀から8世紀)にさかのぼる建物には、彫刻や壁画が数多く残ります。

見どころが多いので、以下のように2回に分けて書きます。
<1>概要と外観
<2>内観

Saint-Romain-le-Puy へ

夫と私は宿から北西に36分ほど車を運転して、山の上の城のような小修道院を目指しました。

Prieuré de Saint-Romain-le-Puy(遠景)

途中から、駐車場に車を停めて、徒歩で坂を登ります。

Prieuré de Saint-Romain-le-Puy(東側外観)

着きました。11時頃のことです。

Prieuré de Saint-Romain-le-Puy(南側外観)

眺めの良いこと、この上なし。

Prieuré de Saint-Romain-le-Puy の概要

受付で€3を払うと、案内ファイルが貸し出されました。一部を抜粋して太字で和訳します。

沿革
983年 教会が設立される。
984年 教会がリヨンのエネ(Ainay)修道院に寄贈される。
1004年 アルデベルトゥス(Aldebertus)が最初の小修道院長に任命される。
1007年 ベネディクト会小修道院と城の建設。現在の教会を建設、サン=ロマン=ル=ピュイの名称が初めて登場。
1017年 ベネディクト会小修道院の工事終了。
1130 エネに従属する小修道院であるサン=ロマン=ル=ピュイについて言及した最初の公式文書
1167年 フォレ伯ギイ2世がフランス王ルイ8世との同盟を強化し、モンブリゾンをはじめとするいくつかの領主権を貢ぎ物にする。その代償として、王はサン=ロマン=ル=ピュイを含むいくつかの場所の権利を彼に与え、その権利はピュイとオーヴェルニュの境界線にまで及んだ。
1173年 リヨン大司教がロワール川以遠の権利を放棄。サン=ロマン城をフォレ伯に譲る。
1213 サン・トマ・アン・フォレ女子小修道院の設立。
1217 サン・ピエール教会(現在は廃墟となった教区教会)とサン・ピエールの村落(18軒)の建設

この後、サン=ロマン=ル=ピュイには苦難の時代が続きます。14世紀半ばの黒死病、百年戦争(このとき城壁や要塞が強化されました)、16世紀の宗教戦争(略奪され、聖遺物が消失、Saint Pierreが破壊されました)、18世紀のフランス革命(小修道院は農場にされ、石材は略奪され続けました。)

19世紀になって、ようやく廃虚化がくいとめられました。町役場が、建物の維持を条件に、所有者から借りています。1982年、町役場と若者のグループによって小修道院文化協会が設立され、アルデベルトゥス(Aldebertus)と名付けられました。コンサートや展覧会を通して、この地の保存、認識、発展のために活動しています。

Prieuré de Saint-Romain-le-Puy の聖堂

14世紀の初めにサン=ロマン=ル=ピュイには五つの聖堂があったようです。
-Saint Romain d’Antioche(小修道院付属教会)
-Saint Jean sous Terre(地下聖堂)
-Saint Marie(回廊の小礼拝堂、現在は消失)
-Saint Pierre(教区教会、現在は廃墟)
-Saint Martin(現存の教区教会)←山のふもと。

山頂にあった Prieuré de Saint-Romain-le-Puy の中で、今も残っているのは、Saint Romain d’Antioche(小修道院付属教会)と、その中の Saint Jean sous Terre(地下聖堂)の二つ。

それら二つの平面図をみます。

平面図

案内ファイルに平面図がありましたが、現地で買った本の断面図と平面図を載せます。こちらの方が分かりやすそうなので。

現地で買った本の断面図と平面図(断面図は東が右、平面図は東が上。)

現地で買った本は、これです。

Le Prieuré de Saint-Romain-le-Puy

外観を見学します。

廃虚と後陣

Saint Romain d’Antioche(小修道院付属教会)の南には、Saint Pierre(教区教会)が廃虚になっています。

Saint Romain d’Antioche(小修道院付属教会)の後陣をみます。

後陣

後陣は11世紀から12世紀につくられました。

Prieuré de Saint-Romain-le-Puy(東側外観)

軒下のフリーズにある碑文は、字を見分けることも難しいんですが、19世紀末にこれを読んだという人に言わせると、以下のように書いてあるそう。

HEC EST ECCLESIA IN HONORE […]EL[…]CECCI IDIFFIC HORE DEI

「この教会は世の救い主に敬意を表して建てられたものである。 この教会は世界の救世主をたたえ、……神に敬意を表して建てられた教会である」

ふーん、そうなの。

注目したいのは、下の方にある装飾。

向かって右端から、斜め十字、向かい合うライオン、六つ枝の模様。

その隣に、「アルデベルトゥス(Aldebertus)」の碑文。1004年に任命された最初の小修道院長です。

その左隣に木のような模様と、幾何学模様があって、

さらに左隣が「アダムとエバ」、飲む2羽の鳥、「楽園からの追放」ですかね。

面白いのは、鳥たちが柱にくくりつけられていること。本には、聖なる飲み物にふさわしくない者たちが近づけないことを示していると書いてあって、なるほどと思いました。

鳥たちの両隣に「アダムとエバ」と「楽園からの追放」が描かれているのも意味がありそうです。なんてったって、教会に言わせたら、私たちゃアダムとエバの子孫たちですから。聖なる場所にふさわしくない者たちへの警告ってことですかね。

その隣は、幾何学模様みたいなのが続いて、

鉤十字までで、彫刻パネルの下の網目模様は終わり。

代わりに、同列に出てきます。

鉤十字の左隣に、ピタゴラスのテトラキス(10個の石を1+2+3+4となるように並べた三角形)、左端にライオン。数には以下のような意味があるそうです。
1:モナド、存在の統一、調和。
2:二元、多様性、分割、分離。
3:三元、その法則は、ピタゴラス学派にとって真の鍵。
4:四元、完全数、他のものの根、神の不可解な数。

何がなんやら、分かりませんが、、、。

装飾は十字やライオンで始まってライオンで終わっています。ピタゴラスのテトラキスも含めて、神聖な場所を守るものなのかなと思います。

Prieuré de Saint-Romain-le-Puy(東側外観)

網目模様といえば、よく似たのがサン=ジュスト=サン=ランベール(Saint-Just-Saint-Rambert)にありました。ここから15kmほどですから、近いです。

また、私は行ってませんが、Chapelle du Châtelet や Église de Saint-Victor-sur-Loire にも、扉口のティンパヌムに網目模様があるようです。

この網目模様、それ自体に神聖な場所を守る意味が込められているのかも知れません。

次回、教会の中を見学します。

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