バーリ(Bari)<1>

2024年8月6日(火)、最初に訪れたのはBari、Basilica Cattedrale Metropolitana Primaziale San Sabino (Cattedrale di S. Maria)です。

ここは、1世紀から12世紀の構造を持つ地下構造物(succorpo)に驚きます。地上の大聖堂では、後陣や南翼廊の窓装飾が素晴らしいです。

2024年8月、大聖堂は毎日8:00〜21:00に開いていました。大聖堂の中は有料です。大聖堂だけのチケットは€7、博物館との混合入館料は€9でした。

Bari では、3か所に行きました。以下のように3回に分けて書きます。
<1> Basilica Cattedrale Metropolitana Primaziale San Sabino (Cattedrale di S. Maria)
<2> Museo Diocesano & Museo della Cattedrale
<3> Basilica San Nicola

目次

1. Bari へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観 .
5. 内観(大聖堂) .
6. 内観(地下聖堂) .
7. 内観(地下構造物(succorpo)) .

1. Bari へ

バーリ(Bari)は、プーリア州バーリ県の県都であり州都です。アドリア海に面した港湾都市で、首都ローマの約374km南東にあります。

西側外観

大聖堂は町の歴史的中心地にあります。

入場券は、掲示されているQRコードからオンラインで、または、大聖堂の右(南)隣にある売り場(青い矢印の場所)で買えます。

入場券売り場

2. 概要

地下構造物(succorpo)の中に案内掲示がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

大聖堂の建設:11世紀から12世紀の年表

1025年: コンスタンチノープルによりバーリは大司教座に昇格され、ローマにより承認された。最初の司教はビザンツィオ(Bisanzio)であった。
1034年:ビザンツィオ(Bisanzio)が初期キリスト教時代の教会を含むエピスコピウムを取り壊す。

新しい建物の建築が開始された1034年まで、初期キリスト教時代の建物が使われていました。このことは、フレスコ画の断片が示しています。

1035年:ビザンツィオ(Bisanzio)がコンスタンティノープルに召還され、そこで死去する。
1044年~1061年:ニコラ(Nicola)大司教が、前任者が未完成のまま残した建築物の建設を命じる。
1064年:完成した大聖堂で司教会議が開催される。
1071年:ノルマン人がバーリを征服。司教座は事実上空席となる。

1080年:プーリア公ロベルト・イル・グイスカルド・ダルタヴィッラの命により、ラポッラ(Rapolla)司教ウルソーネ(Ursone)がバーリ=カノーザ大司教区に異動となる。新しい大司教は、上級聖職者たちに、古い大聖堂と聖遺物に関する情報を求めた。彼は「古い大聖堂や聖遺物は現在告解所のある場所に築かれた」と告げられた。

1087年:聖地巡礼に出発しようとしていたウルソーネ(Ursone)は、聖ニコラウスの聖遺物が到着したことを知る。彼はすぐにバーリに戻り、聖遺物をベネディクト会の修道院長エリア(Elia)に託した。同時に、ウルソーネ(Ursone)は、この目的のためにルッジェーロ・ボルサ公から与えられたビザンチン政権が管理していた場所に、聖ニコラウスを称える教会の建設を進める。

1089年:ウルソーネ(Ursone)死去。教皇ウルバヌス2世が、建設中の新しい教会の地下聖堂に聖ニコラウスの遺骨を厳かに安置し、エリア(Elia)をバーリ=カノーザ大司教に叙任する。

1090年〜1091年:エリア(Elia)はウルソーネ(Ursone)が開始した調査を継続し、告解所の祭壇の下で、サビヌス、すなわち6世紀のカノーザの司教であった聖人の遺物を発見した。おそらく9世紀に司教がカノーザからバーリにその遺物を移していた。この出来事は、カノーザとバーリとの関係を揺るがすものとなった。ジョヴァンニ・アルチディアコノ(Giovanni Arcidiacono)が語った発見についての証言は、次々と碑文に刻まれた。

1105年:エリア(Elia)死去、空位となる。一方、聖ニコラウス教会(Basilica di S. Nicola)は、クティのオニサンティ(Ognissanti di Cuti)修道院長エウスタツィオ(Eustazio)が管理した。

1112年:リゾ(Riso)またはリゾーネ(Risone)が大司教に叙任されるが、バーリ大司教区は、小都市の派閥とノルマン人の封建領主の間の内部紛争に巻き込まれる。

1117年:リゾ(Riso)大司教、殺害される。

1127年:プーリア公グリエルモ(Guglielmo)が死去。シチリア王ルッジェーロ2世の権力紛争が勃発。

1130年:ルッジェーロ2世がパレルモで戴冠。これにより、2人の教皇(アナクレトゥス2世とインノケンティウス2世)が対立し荒廃するローマ教会と、まだ誰もが認める王を持たない南イタリア王国の両方にとって、危機的時代が始まる。

1132年:ルッジェーロは反旗を翻したバーリを征服し、リーダーであったグリモアルドを追放したが、誓約を交わしたバーリの町は温存した。2人の司教がバーリの教会を統治する混沌とした状況は、1151年にジョヴァンニ5世(Giovanni V)が大司教に選出されて解決した。

1156年2月:司教ジョヴァンニ5世(Giovanni V)が告解所を再建し、三つの祭壇を置き、内陣を高くして舗装し直すなど、礼拝にふさわしい場所となる。

1156年8月:シチリア王グリエルモ1世(Guglielmo I)により、バーリの町と教会は厳しい処罰を受ける。人々は家を追われ、近くの町に避難せざるを得なくなり、大聖堂は略奪された可能性が高いが、何年もの間、廃墟のまま放置された。

1169年:新王グリエルモ2世(善良王)から赦しを得た後、司教ジョヴァンニ5世(Giovanni V)が死去。

1170年:後継者ライナルド(Rainaldo)が、大聖堂の再建を開始。

1178年:新しい教会が、聖ニコラウス教会のように鐘楼が東のファサードを遮る形で建てられた。この2度目の改築プロジェクトの痕跡は、上部構造にも見られる。

この後も、案内掲示を引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

案内掲示による平面図です。東が右です。

<地下構造物(succorpo)>

案内掲示より

<地下構造物(succorpo)、地下聖堂および大聖堂>

案内掲示より

4. 外観

東に行きます。

東側外観

窓装飾が楽しいです。

東側外観:後陣窓

細かい。

東側外観:後陣窓

南翼廊にも、似た形の窓が並んでいます。

南東側外観

かっこいい。

南側外観:南翼廊窓

5. 内観(上部大聖堂)

大聖堂の中に入ります。

身廊にて東を向く

1034年から1066年にかけて、この建物の主任親方(protomagister)務めたのは、プーリアの偉大な彫刻家であり建築家でもあったアケプトゥス(Acceptus)で、五つの扉口のコーニス、修復工事中に発見された様々な柱頭、そしてアンドレア2世の命によって作られた(1955年に再建された)説教壇の作者である。

アケプトゥス(Acceptus)は、モンテ・サンタンジェロの説教壇も手がけました。その断片はラピダリウム博物館(Museo Lapidario)に保管されています。また、カノーザ(Canosa)でも説教壇を作りました。

説教壇

6. 内観(地下聖堂)

地下聖堂に行きます。

一部の柱と柱頭は、改築前の姿を見ることができます。

地下聖堂にて北東を向く

7. 内観(地下構造物(succorpo))

地下構造物(succorpo)のエリアに行きます。

地下にある既存の古い構造物(succorpo)が最初に発見されたのは19世紀末のことであった。これらの調査は、納骨堂として使用されていたエリアを調べることによって可能となった。ほとんど忘れ去られていた大聖堂の未知の部分の発見は、非常に重要なものであり、大きな関心を呼んだ。修復が決定されたが、その前に人骨を撤去する必要があった。このプロジェクトは、1966年から1975年にかけて、ようやく実施された。大量の地下水の浸入、壁の亀裂、構造の不安定化の危険にさらされていた地下構造物(succorpo)全体が清掃後、補強され、修復された。これらの作業中に、「ティモテオのモザイク(mosaico di Timoteo)」と、上部の列柱廊を支える壁、および、初期キリスト教教会の古代の壁の一部が発見された。

地下構造物(succorpo)のエリアでは、1世紀から12世紀にかけての、主に四つの構造を見られます。

青色:ローマ時代(1世紀〜4世紀)の遺構
赤色:初期キリスト教時代の遺構
緑色:1034年〜1156年の構造
斜線:1170年以降の再建

案内掲示より
案内掲示より
案内掲示より

天井が美しい。

地下構造物(succorpo)のエリアにて北西を向く
モザイク

床には、多様な年代の床モザイクの断片があります。

地下構造物(succorpo)のエリア:床モザイク

最も注目されるのは、「ティモテオ(Timoteo)のモザイク」です。

ロマネスク様式の大聖堂の基礎構造によって仕切られたこの部屋には、碑文に登場する人物の名にちなんで「ティモテオ(Timoteo)のモザイク」と呼ばれる初期キリスト教最大の床部分が保存されている。このモザイクは、石灰岩、レンガ、大理石など、さまざまな素材の小さな多色テッセラでできており、中央には鱗のモチーフが描かれた大きな領域があり、それを囲むように、水生動物と魚が交互に描かれた枠がある。さらにその周囲には、植物と花のモチーフが描かれたフレームがある。一定の間隔で欠けている部分は、初期キリスト教の教会を三つの身廊に分けていた柱の土台の跡であり、井戸は、おそらく教会に先立って存在していた構造物である。東側は、ラテン語の碑文で縁取られている。この碑文は、アンドレア司教の在任中に、誓願を果たすために床モザイクの一部を作ったティモテオという人物を称えるものである。

BEATA ECCLESIA VARINA GAUDET IN SUO ANTISTITE ANDREA/ CUM SUIS CLERUS PARITER EXULTAT TIMOTHEUS CUM SUIS QUI ADIUTUS DIVINO/ BENEFICIO AD LAUDEM SANCTE DEI PLEBIS PRAESENTIS AULE DE DONIS/ ElUSVOTUM PERSOLBENS TUTIUS OPERE ORNATUM EXPLEBIT.

「バーリの祝福された教会は、司教アンドレアと聖職者たち、そして信者たちとともに喜ぶ。ティモテオは、神の助けを借りて誓いを果たし、神聖な神の民を称えるために、自身の才能と熟練した職人技を活かしてこの部屋の装飾を完成させた。」

このモザイク画は6世紀中頃のもので、それ以前の断片的な遺構の上に重ねられている。

ティモテオのモザイク(mosaico di Timoteo)6世紀中頃
フレスコ画

フレスコ画の断片も残っています。

初期キリスト教/初期中世時代の北側の壁に描かれたフレスコ画(上部が欠損)には、司教の服装をした人物が描かれている。このフレスコ画は10世紀後半から11世紀初頭のものである。

残存する断片は、初期キリスト教時代の建造物の壁に保存されており、中世初期にもここが頻繁に使用されていたことを証明するものであるため、歴史的に非常に重要である。

フレスコ画、10世紀後半から11世紀初頭

Basilica Cattedrale Metropolitana Primaziale San Sabino (Cattedrale di S. Maria)。1世紀から12世紀の構造を持つ地下構造物(succorpo)に驚きます。地上の大聖堂では、後陣や南翼廊の窓装飾が素晴らしいです。

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