2024年5月18日(土)の最後、四番目に訪れたのはBlasimon、サン=モーリス修道院(Abbaye Saint-Maurice)です。
ここは、ロマネスク様式の扉口の周囲にある彫刻は、ジロンド地方の歴史における、この時代の最高傑作です。
目次
1. Blasimon へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観(修道院建物) .
5. 内観 .
6. 外観(ファサード) .
1. Blasimon へ
ブラジモン(Blasimon)は、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ジロンド県にある村です。ボルドー(Bordeaux、同地域圏の首府であり同県の県庁所在地)の約41km東にあります。
ブラジモン(Blasimon)の集落からは離れていて、ここは田園に囲まれています。
2. 概要
教会の中に小冊子がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
現存しない初期の修道院
721年が、しばしば修道院が設立された年として伝えられてきた。この年を裏付ける信頼できる史料はない。しかし、あり得ない話ではない。ブラジモンでは、考古学的発掘調査によって、ガロ・ローマ時代の「ヴィラ」の存在が明らかになっている。私たちの修道院の守護聖人である聖マウリティウス(Saint Maurice)は殉教者である。3世紀にガリアに派遣されたローマ軍の一員であった彼は、キリスト教徒を迫害することになっていたが、自らもキリスト教に改宗したため、皇帝マクシミアヌスに従うことを拒否し、彼を支持した兵士たちとともに虐殺された。聖マウリティウスが修道院の守護聖人に選ばれたことは、このガロ・ローマ時代の背景を思い起こさせる。フランス南西部への修道院拡大の第一波は7世紀から8世紀にかけて起こったので、ブラジモン(Blasimon)がその一部であったことは不可能ではない。
980年、ベネディクト会修道院の設立
980年頃に新たな修道院が創設されたことは、文献や考古学的・論理的研究により、より歴史的に裏付けられている。アキテーヌ公と、フォルス・アルシウス(Fors Arsius)という名前の最初の修道院長によるものである。この修道院は、ベネディクト派の修道士たちによって850年頃に設立されたサン・ジャン・ダンジェリー修道院(abbaye de Saint Jean d’Angély)の付属修道院であった。ブラジモン(Blasimon)の修道士たちは、聖ベネディクトの規則に従っていた。
拡大期
新しい修道院は、封建社会の枠組みの中で拡大期を迎えた。ユーグ・カペー(Hugues Capet)によって創設された新王朝は、その権力をパリ地方以外に拡大するのに長い時間を要した。地方の領主は権力を共有し、しばしば争った。ブラジモン(Blasimon)では、領主の役割を果たしたのは修道院長であった。修道院長は、南のソーヴテール(Sauveterre)から北のドルドーニュに近いサント・フロランス(Sainte Florence)までの一帯に修道院、製粉所や領地を広げていった。
ブラジモンの修道士たちは、修道院を再建することで成功を現実のものにしようと考えた。1160年から1180年にかけて大規模なプロジェクトが開始された。まず、ファサードと西側の最初の柱間の工事が始まった。建築様式は、特に信者たちに教えを説くために使用された彫刻や建物の規模、特に高さの点で、その計画の野心的な意図を明らかにしている。修道院の建物も、回廊の東側にあるチャプター・ハウスの側に再建された。
この壮大な計画は、翌世紀には放棄された。修道士たちは、古い壁の基礎の上に側壁を再建しただけだった。後陣は三つの開口部を持つ単純な平らな壁に簡素化された。その一方で、修道院教会をゴシック様式のヴォールトで覆い、柱頭の彫刻を簡略化した。そして、水はけの悪い地面のためにすでに弱くなっていた側壁を、大きな控え壁で固めなければならなかった。
その後も宗教戦争、修道院に住まないまま収入を得る修道院長が続いたことなどによって、フランス革命よりも前に、修道院は廃墟状態となっていました。
聖マウリティウス(Saint Maurice)から聖ニコラウス(Saint Nicolas)へ
教区は長い間、修道院内の聖ニコラウス(Saint Nicolas)に捧げられた祭壇を使用していたが、それが修道士たちとの間に軋轢を生むこともあった。1777年、教区司祭が修道院の聖マウリティウス(Saint Maurice)教会を正式に所有し、聖ニコラウス(Saint Nicolas)を守護聖人とする教区教会となった。
このため、地図には「サン=ニコラ教会(Église Saint Nicolas)」と載っています。
古い建物に情熱を傾ける芸術家レオ・ドルーアン(Léo Drouyn)の働きにより、修道院の建物の破壊は食い止められ、19世紀半ばに彼が見つけたままの状態で保存されている。
この後は、教会の外にあった案内板を引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
案内板による平面図です。東が左です。
緑色:11世紀〜13世紀
桃色:12世紀
黄色:13世紀
青色:近代
4. 外観(修道院建物)
回廊の東側にある修道院建物の一部は、12世紀のロマネスク様式です。
一番北側の部分です。
アーチ装飾が美しいです。
5. 内観
教会の中に入ります。
第一柱間は、12世紀に建てられたロマネスク様式です。
窓の装飾が凝っています。その模様は、4. 外観(修道院建物) のアーチ装飾に似ています。
6. 外観(ファサード)
最後に、ファサードをみます。
ロマネスク様式の扉口の周囲にある彫刻は、ジロンド地方の歴史における、この時代の最高傑作である。
西扉口の装飾に圧倒されます。
西扉口のアーチをみます。一番内側のアーチには「神の子羊と天使たち」、二番目と三番目のアーチには植物などの模様、四番目のアーチには「悪徳に対する美徳の勝利」、五番目のアーチには植物などの模様、その外側には「狩猟」、が描かれていると思います。
「賢いおとめと愚かなおとめ」(『マタイによる福音書』25章)と「12ヶ月と黄道十二宮」が描かれていませんが、、、
「神の子羊と天使たち」と「悪徳に対する美徳の勝利」が描かれていることや、描かれている天使や美徳の姿が、サントンジュ(Saintonge)地方のオルネー(Aulnay)やフェニウー(Fenioux)に似ています。
こちらの美徳は特に美しい姿をしています。
スラリと長い両足、衣服のひだ。宮廷で舞踊を披露しているよう。
Abbaye Saint-Maurice。ロマネスク様式の扉口の周囲にある彫刻は、ジロンド地方の歴史における、この時代の最高傑作です。
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