2024年5月18日(土)、二番目に訪れたのはLa Sauve、Abbaye de La Sauve-Majeureです。
ここは、12世紀に建てられたロマネスク芸術の傑作です。非常に美しい彫刻が残されています。
6月1日から9月30日は毎日10:00〜13:15と14:00〜18:00に開きます。10月1日から5月31日は火曜から日曜10:30〜13:00と14:00〜17:30に開きます。ただし、1月1日、5月1日と12月25日は閉まります。有料(€7)です。
目次
1. La Sauve へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. [A] 奉献ディスク .
5. [B] サント・マドレーヌ礼拝堂の柱頭 .
6. [C] 主後陣の柱頭 .
7. [D] サン・ニコラ礼拝堂の柱頭 .
8. [E] 南側廊の最後の柱間の柱頭 .
9. [F] 後陣 .
10. [G] チャプター・ハウス .
11. [H] 回廊 .
12. [I] 食堂 .
1. La Sauve へ
ラ・ソーヴ(La Sauve)は、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ジロンド県にある村です。ボルドー(Bordeaux、同地域圏の首府であり同県の県庁所在地)の約22km南東にあります。
受付で入場料を支払い、案内ファイルを受け取って、見学を始めます。
まず目にするのは、修道院教会の南壁と鐘楼です。
2. 概要
建物の内外に案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
修道院の設立
11世紀末、ジェラール・ド・コルビ(Gérard de Corbie)とその仲間たちは、大きな森(ラテン語で「Silva Major」)にNotre-Dame de La Sauve-Majeureを設立した。彼らは、修道士は修道院の壁の中で肉体労働、知的労働、精神労働に専念すべきであるという、6世紀に聖ベネディクトが定めた教えを忠実に実践することを望んだ。聖職者の独立を謳ったグレゴリオ宗教改革の影響を受け、修道士たちは外部権力からの解放を目指した。アキテーヌ公ウィリアム8世とボルドー大司教ジョセリン・ド・パルテネは彼らの願いに応え、新しい修道院に対する権利を放棄した。ローマ教皇公使は、この修道院に教皇からの特別な保護を与えた。
12世紀の発展
多くの寄付と有力な後援者のおかげで、La Sauve-Majeureは急速な発展を遂げた。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路に位置し、多くの巡礼者がここに立ち寄った。12世紀末には、アキテーヌで最も強力な修道院となった。その共同体は80人から90人の修道士で構成されていた。ドルドーニュ川とガロンヌ川に挟まれたこの修道院の管轄下にあった多くの宗教施設は、スペイン、フランス北部、遠くはイングランドにまで及んだ。1197年に列聖された創始者ジェラール・ド・コルビ(Gérard de Corbie)の墓には、盛んな巡礼が行われた。聖人の庇護と修道士たちの祈りによって、多くの高位聖職者や貴族たちがこの地に埋葬されることを希望した。13世紀まで、修道院はアンジュー、アキテーヌ、イングランドを支配していたプランタジネット家の特別な配慮を受けた。
修道院周辺の村
ラ・ソーヴ・マジュール村は修道士たちの主導で発展した。アキテーヌ公爵から与えられた特権により、入植者は修道院の保護下に置かれた。その特権とは、逃亡者の追跡が禁止されている避難区域のことである。新しい住人は、修道士に与えられた土地の開発に貢献した。11世紀末に最初の村が建設され、1150年頃に2番目の村が建設され、14世紀初頭まで、修道院の村は、毎週市が立ち、年に数回の市が開かれる、まさに小さな町であった。
長い衰退(14~16世紀)
14世紀以降、ローマ教皇の介入が共同体の運営に大きな混乱をもたらし、財政状況は悪化した。しかし、修道院は何よりもフランス王とイングランド王の対立の犠牲となった。百年戦争の終結時(1453年)、状況は劇的だった。疫病は共同体を壊滅させ、建物はほとんど廃墟と化し、多くの領地が休耕地となった。しかし、修道院長たちの活力によって、共同体は時間的にも精神的にも再建することができた。特に、土地を再び耕作できるようにすることには細心の注意が払われた。こうした努力は、フランス国王に修道院長を任命する権限を与える制度の導入や、南西部で特に激しかった宗教戦争によって阻まれた。
サン・モール会による改革(16~17世紀)
1660年、修道院は1621年に設立されたサン・モール会(Congrégation de Saint-Maur)の一部となった。彼らは10人ほどの修道士からなる共同体を中心に精神生活を改革し、この地に現在の地形を与える工事を行った。大きな回廊に接する中世の建物は保存され、老朽化が激しかった他の建物は取り壊された。修道院のスペースは縮小され、新しい囲いの壁が築かれた。共同体は改革されたが、(国王によって任命された)修道院長はほとんど修道院に住まなかった。彼らは単に収入を集めるだけであった。
修道院の終焉
1790年、修道士たちはLa Sauve-Majeureを去った。修道院の土地は、他の聖職者の財産と同様に国有財産となり、翌年競売にかけられた。1793年から1795年の間、修道院の建物は反革命活動の容疑者の監獄として使われた。その後、役場が敷地の一部を占め、残りは農民に託された。1809年、修道院教会のヴォールトが崩落した。1818年、建物は売却され、石造りが取り壊され始めた。わずか数年で、修道院は現在のような姿になった。
終焉の修道院
1837年から1910年まで、修道院跡地は教育目的で使用された。1910年、建物は火災に見舞われ、取り壊しが計画された。しかし、取り壊し費用によって修道院は救われた。修道院は1960年に国によって買い取られ、1998年にはサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路の一部として、ユネスコの世界遺産に登録された。現在は国立モニュメント・センター(Centre des monuments nationaux)が管理している。
この後は、受付で借りた案内ファイルを引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
案内ファイルによる平面図です。東が上です。
三身廊、翼廊と交差部を経て、五つの後陣があります。
[A] 奉献ディスク
[B] サント・マドレーヌ礼拝堂の柱頭
[C] 主後陣の柱頭
[D] サン・ニコラ礼拝堂の柱頭
[E] 南側廊の最後の柱間の柱頭
[F] 後陣
[G] チャプター・ハウス
[H] 回廊
[I] 食堂
では、案内ファイルに従って、見学します。
4. [A] 奉献ディスク
西に来ると、建物を見通すことができます。
1231年、最後の大規模な建築運動の終わりに、大修道院教会が盛大に奉献された。その際、教会の壁と柱に12個の大きな石のディスクがはめ込まれた。それぞれの石は、使徒が左手に小さな教会を持ち、右手に自分のアトリビュートや拷問道具を持っている姿で飾られていた。六つが現存している。
奉献ディスクを三つご紹介します。
ディスク1:月桂樹の葉の上に立つ聖マタイ
ディスク2:竜を倒す聖ユダ
ディスク3:王冠をかぶった人物を踏む聖バルトロマイ
5. [B] サント・マドレーヌ礼拝堂の柱頭
サント・マドレーヌ礼拝堂の柱頭をみます。
サント・マドレーヌ礼拝堂は、主後陣の左(北)隣にあります。
入り口アーチ北側には「アダムとエバ」(『創世記』3章)が描かれています。
入り口アーチ南側の像は、サン・ニコラ礼拝堂に対称に置かれている柱頭にちなんで、「獅子の穴の中に投げ込まれたダニエルを陥れようとした者」とされている。
『ダニエル書』6章25節
王は命令を下して、ダニエルを陥れようとした者たちを引き出させ、妻子もろとも獅子の洞窟に投げ込ませた。穴の底にも達しないうちに、獅子は彼らに飛びかかり、骨までもかみ砕いた。
サント・マドレーヌ礼拝堂内部の柱頭をみます。
サント・マドレーヌ礼拝堂の内部の柱頭は、似たものがサン=カンタン=ド=バロン(Saint-Quentin-de-Baron)にあります。
礼拝堂北側では、人魚(セイレーン)たちが、太めの尾をピチピチさせています。
人魚(セイレーン)たちの向かい側である南側では、2人の若い男性が何かにからまっています。
「オデュッセウス」
2人の男性たちは、セイレーンに向かい合っていることから、しばしば「オデュッセウス」に例えられる。ホメロスの『オデュッセイア』の有名なエピソードを指している。オデュッセウスはセイレーンの歌声を聞きたかったので、致命的な誘惑を避けるために、自分を船のマストに縛り付けた。
主祭壇があるクワイヤとサント・マドレーヌ礼拝堂との間にも、柱頭があります。
「二つの体を持つライオンたち」
西隣にある、より大きい柱頭には、幻想的な生き物たちが描かれています。
「神話的な戦い」
バジリスクは、鶏の体と蛇の尾を持つ怪物で、そのまなざしは灰にする。有翼の蛇がバシリスクの喉を襲っている。象徴的に、これらの怪物や戦いのイメージはすべて、サタンの力、サタンが引き起こす心の傷、サタンが人類にもたらす危険の表象である。
6. [C] 主後陣の柱頭
主後陣をみます。
主後陣は、サント・マドレーヌ礼拝堂とサン・ニコラ礼拝堂との間にあります。
サント・マドレーヌ礼拝堂と主祭壇の間にある柱頭です。
すでに述べた柱頭の反対側にも、同様に古代の着想の源が見られるが、象徴的な意味は少し異なる。ここでは、2頭のケンタウロスの戦いが悪を象徴している。
しかし、2羽のグリフォンは、肯定的である。グリフォンは聖杯の守護者であり、古代東洋で広く用いられた表現である。主祭壇の近くに位置するこの表現は、そこで毎日祝われていた聖体の神秘を意味している。
後陣中央窓の柱頭です。
北側には大天使聖ミカエル、南側には預言者ダニエルが描かれています。
北側: 2匹のドラゴンを倒す聖ミカエル
聖域の中心にあり、悪魔に対する勝利を連想させる。聖ミカエルは2本の槍を両手に1本ずつ持ち、左右対称の2頭のドラゴンに突き刺している。
南側:「バビロニアの巨大な竜を殺すダニエル」
珍しい主題だが、ランド地方の二つの教会(Saint-SardosとSaint-Girons d’Hagetmau)にも見られる。
『ダニエル書補遺 ベルと竜』0章
23: さて、一匹の巨大な竜がいた。バビロニア人たちは、これをあがめていた。
24: 王はダニエルに言った。「この竜が生ける神ではない、といかにお前でも言えまい。これを礼拝せよ。」
25: ダニエルは王に言った。「わたしは、わたしの神である主を礼拝します。その方こそ生ける神だからです。
26: 王様、お許しをいただければ、剣も棍棒も用いずに、この竜を殺してみせましょう。」王は「許す」と言った。
27: そこで、ダニエルは、ピッチと油脂と毛髪とを取り、一緒に煮て、だんごを作り、竜の口に入れた。竜はそれを呑み込むやいなや体が裂けた。ダニエルは言った。「御覧ください。これが、あなたがたがあがめていたものです。」
竜がだんごを食べています。仏教では、竜がくわえるのは願いを叶えてくれる「如意宝珠」。でも、ここでは、竜の体が裂けるだんごです。
サン・ニコラ礼拝堂と主後陣の間にある柱頭です。
この柱頭を飾る植物は、松ぼっくりかブドウの房である。これら二つの要素は、結局のところ非常によく似た象徴性を持っている。松ぼっくりは復活の象徴であり、特にローマのサン・ピエトロ大聖堂のアトリウムの中央にある「生命の源」を飾る松ぼっくりにちなんでいる。葡萄の房は、聖体拝領の際に主祭壇で繰り返されるキリストの犠牲を想起させる
7. [D] サン・ニコラ礼拝堂の柱頭
サン・ニコラ礼拝堂をみます。
サン・ニコラ礼拝堂は、主後陣の右(南)隣にあります。
入り口アーチ北側には「獅子の穴の中のダニエル」(『ダニエル書』6章)が描かれています。
キリスト教徒にとって、ダニエルの姿はキリストを想起させる。ダニエルのライオンの巣穴での滞在は、キリストが十字架刑の後、地獄に下ったことになぞらえられる。イエスがサタンに勝利したように、彼は野獣に勝利する。
入り口アーチ南側には「サムソンの物語」(『士師記』14章と16章)が描かれています。
サムソンの物語
この柱頭は、サムソンの物語における三つのエピソードを表している。サムソンは、キリストの姿にもなぞらえられる。ガザの門を運ぶことは、磔刑の前に十字架を運ぶことを想起させる。ライオンとの戦いは、悪の力に対するキリストの勝利を予告する。デリラは、エバと比較され、エバと同様に誘惑者であり、堕落の発端となった人物である。彼女がサムソンに与えた屈辱は、逮捕されたキリストが受けた屈辱にも例えられる。
エピソード1:「ガザの門を運ぶサムソン」(『士師記』16章)
1: サムソンはガザに行き、一人の遊女がいるのを見て、彼女のもとに入った。
2: ガザの人々は、「サムソンが来た」との知らせを受けると、一晩中彼を取り囲み、町の門で待ち伏せ、「夜明けまで待って、彼を殺してしまおう」と言って、一晩中声をひそめていた。
3: サムソンは夜中まで寝ていたが、夜中に起きて、町の門の扉と両脇の門柱をつかみ、かんぬきもろとも引き抜いて、肩に担い、ヘブロンを望む山の上に運び上げた。
エピソード2:「獅子を裂くサムソン」(『士師記』14章)
エピソード3:「サムソンの髪を切るデリラ」(『士師記』16章)
サン・ニコラ礼拝堂と主祭壇の間にある柱頭です。
「イエスの誘惑」(『マタイによる福音書』4章、『マルコによる福音書』1章、『ルカによる福音書』4章)が描かれています。
イエスの顔はいたるところで失われているが、十字架のついたニンブスがイエスを認識させている。キリスト教徒にとって、サタンが与えた三つの誘惑は、それに抵抗するキリストの神性を証明するものである。三つの誘惑とは、砂漠での誘惑、山頂での誘惑、エルサレム神殿の頂上での誘惑である。
8. [E] 南側廊の最後の柱間の柱頭
南側廊の最後の柱間(赤い矢印の場所)の柱頭をみます。
「ラ・ソーヴ・マジュールの親方(Maître de La Sauve-Majeure)」とその仲間たち
柱頭の彫刻の細部を分析することで、匿名の石工たちの中から何人かの「手」を特定することができた。後陣の柱頭のほとんどすべてが、「ラ・ソーヴ・マジュールの親方(Maître de La Sauve-Majeure)」の作品である。彼の弟子であることは間違いないが、彼と並んで、2人の第二の親方がこの地で活躍していた。南側廊の柱頭の作者はこの2人だと考えられている。この3人の親方たちによって形成された中核グループに、他の石工たちも加わったに違いない。彼らの作品は、サントンジュ地方の彫刻家たちのものに近い。
「アブラハムによる息子イサクの犠牲」(『創世記』22章)
キリスト教徒にとって、アブラハムは聖書の偉大な家長の最初の人物であり、とりわけ神との契約を結んだ人物である。ここでの彼の姿は、最後の預言者である洗礼者ヨハネの姿とも重なる。サラへのイサクの誕生の告知は受胎告知を予感させる。イサクの犠牲は、キリストの犠牲である磔刑を想起させる。
「洗礼者ヨハネの殉教」(『マタイによる福音書』14章、『マルコによる福音書』6章)
洗礼者ヨハネはキリスト以前の最後の預言者とされ、キリストの到来を予告している。ヘロディアは悪霊を、サロメは誘惑者であり堕落の発端となった者を想起させる。
『マルコによる福音書』6章
17: 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
18: ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
19: そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
20: なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
21: ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
22: ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
23: 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
24: 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
25: 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
26: 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
27: そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
28: 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
このヘロディアの娘というのが、サロメ。体を大きく反らせてすこぶる大胆に踊ってたり、洗礼者ヨハネの首が乗る盆を持ってたり、、、しょっちゅう劇的に描かれます。
9. [F] 後陣
後陣をみます。
これらの彫刻の中で最も注目に値するのは、後陣の三つの大きな窓を覆うアーチの柱頭である。
後陣中央窓の柱頭
コーニスを支える持ち送りは、石工の並外れた創意工夫を物語っている。寄託されたものの一部は、現在ニューヨークのクロイスターズ博物館に保管されており、他のものは修道院の博物館(musée lapidaire de l’abbaye)に展示されている。
南小後陣の持ち送り
幻想的で、写本挿絵から抜け出てきたよう。
10. [G] チャプター・ハウス
修道士たちが修道院長の権威のもとに集まり、聖ベネディクトの規則の一章(チャプター)の朗読を聞く場所である。修道士たちは、重要な決定について議論し、前の修道院長の死去(または退位)に伴って新しい修道院長を選出する。また、自分の過ちを告白し、懺悔を受ける場でもある。その上には修道士たちの宿舎があり、階段は聖具室の壁に開口していた。
チャプター・ハウスは、南翼廊の南に造られた聖具室に隣接していました。今は柱、壁や床の一部が残っています。
11. [H] 回廊
元来、回廊は修道士と信徒を隔てるものであったが、四つの屋根付きギャラリーに囲まれた空間となった。そこは祈りと瞑想の場であり、修道生活の孤独が表現される場所であった。回廊は教会の南側まで続いており、教会の壁には、肋骨のついたヴォールトの端とその土台が残っている。
12. [I] 食堂
食堂は、修道士たちが平等と兄弟愛の精神で共に食事をする場所であった。1910年の火災で被害を受けたが、13世紀に建てられた南壁の3つの窓が残っている。食堂には六つの柱間があり、尖頭アーチがあった。
写真手前が[G] チャプター・ハウス、奥が[I] 食堂です。
Abbaye de La Sauve-Majeure。12世紀に建てられたロマネスク芸術の傑作です。非常に美しい彫刻が残されています。
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