2024年5月15日(水)の最後、四番目に訪れたのはSaint-Maurin、Abbaye de Saint-Maurinです。
ここは、廃墟となったクワイヤに、静謐で優美な柱頭彫刻が残っています。
目次
1. Saint-Maurin へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観(南側) .
5. 内観(クワイヤ) .
1. Saint-Maurin へ
サン=モラン(Saint-Maurin)は、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ロット=エ=ガロンヌ県にある村です。ギュイエンヌ地方にあり、ボルドー(Bordeaux)の約136km南東にあります。
教会は、廃墟です。
上の写真で左に写っている小さな祭室は、かつての北小後陣(平面図における「A2」のあたり)です。
2. 概要
教会の外に案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
最初の教会は8世紀に、最初の修道院は1000年頃に存在したと言われている。1082年、修道院はクリュニーに所属し、その後モワサック修道院(abbaye de Moissac)に付属した。
百年戦争の間、村と修道院が略奪された。数人の修道士と修道院長はなんとか逃げ延び、近くの町に避難した。宗教戦争の間、修道院は焼き払われた。
現在、交差部にある建物は、19世紀末に建てられたものである。売却されるまで村の学校として使われ、1980年代にはパン屋として使われた。
この後も、案内板を引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
案内板による平面図です。東が右です。
赤色:現存部分
4. 外観(南側)
南に行きます。
今日、私たちは南翼廊と聖ベネディクトに捧げられた南小後陣を見ることができるが、これは1097年1月3日に奉献されたもので、南壁に刻まれた碑文がそれを証明している。これは修道院の最も古い部分である。南翼廊の上部には鐘楼があり、これはクリュニー修道院付属教会では珍しい特徴である。
5. 内観(クワイヤ)
東に行きます。
12世紀の建物では、聖マウリヌス(saint Maurin)の生涯を描いた美しい柱頭で飾られたクワイヤと、北小後陣がある。
下の写真で右に写っているのが、最初の写真で左に写っていた北小後陣です。
主後陣は、東壁が崩落しています。そのため、クワイヤ(平面図における「A」)がむきだしです。
そのクワイヤは、大量の鳩の棲家になっています。
柱頭を三つご紹介します。
柱頭1
ライオンに乗る男たち
柱頭2
聖マウリヌス(saint Maurin)の斬首
向かって左には処刑人の馬が、中央には処刑人と剣で武装した聖マウリヌス(saint Maurin)が、向かって右には天使が、描かれています。
柱頭3
聖マウリヌス(saint Maurin)のケファロフォレ
ケファロフォレは、自分の首を自分で持つ聖人像です。
ケファロフォレとは、ギリシャ語のképhalê(頭)とphorein(運ぶ)に由来するもので、首を切られた人物が立ち上がり、自分の首を手に取り歩きだすエピソードである。その姿そのものをケファロフォレと呼ぶ。
聖マウリヌス(saint Maurin)は、ロット=エ=ガロンヌ県のアジャン(Agen)で生まれ、ジェール県のレクトゥール(Lectoure)で斬首されたカトリックと正教会の聖人である。6世紀にアジェネ(Agenais)地方を伝道した。
カプアの司教であった聖ゲルマヌス(saint Germain、516-540年)から聖典と俗典の教えを受け、「レビテ」(司祭)の地位に引き上げられた。7年後、アジャン(Agen)に戻り、そこで熱烈な歓迎を受けた。その後、この地方を巡り、人々に説教と伝道を行った。
レクトゥール(Lectoure)に到着した彼は、彼の地の首長がキリスト教の説教者に対して出した禁止令に反抗した。彼は逮捕され、何度も拷問を受けたが、耐え抜き、斬首された。彼の遺体は、後に修道院とサン・モラン村が建設された場所に埋葬された。
伝説によると、聖マウリヌス(saint Maurin)は斬首された後、自分の首を拾い上げ、後に修道院となる場所まで歩いたという。
向かって左では、天使が聖マウリヌス(saint Maurin)を指さしており、アーチの下にいる男性に何かを伝えているようです。
向かって右では、聖マウリヌス(saint Maurin)が自分の首を自分で持って歩いており、その先にひざまずく女性がいます。
静謐で優美です。
Abbaye de Saint-Maurin。廃墟となったクワイヤに、静謐で優美な柱頭彫刻が残っています。
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