2023年9月11日(月)、唯一訪れたのは San Fruttuoso。サン・フルットゥオーゾ修道院(Abbazia di San Fruttuoso)です。
ここは、下部回廊(Chiostro Inferiore)に残る細い柱と柱頭彫刻が美しいです。
2023年は以下の日程で開いていました。有料(€8)です。
3月と10月は、毎日10:00~15:45
4月、5月と9月後半は、毎日10:00~16:45
6月から9月中ばまでは、毎日10:00~17:45
1月、2月、11月と12月は、火曜日から日曜日と祝日の月曜日10:00~15:45
目次
1. San Fruttuoso へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 修道士の教会(Chiesa monastica) .
5. 修道院(Abbazia) .
6. 上部回廊(Chiostro Superiore) .
7. 下部回廊(Chiostro Inferiore) .
1. San Fruttuoso へ
サン・フルットゥオーゾ(San Fruttuoso)は、リグーリア州にある猫の額ほどの小さな入り江で、ジェノバの約10km南東に位置します。
船、または、歩いて(ポルトフィーノから約2時間など)アクセスします。
私はカモーリ(Camogli)から船で往復しました。船は、ポルトフィーノやサンタ・マルゲリータからも出ています。
夫と私は、カモーリ(Camogli)に着くと有料駐車場に車を停め、クルーズ・ターミナルにあるチケット売り場(赤い四角で示したブース)で乗船券を買いました。
船は、上の写真の中で白い船が停まっている桟橋から出ます。夏は、9:00から17:00まで、60分おきに出航していました。
カモーリ(Camogli)からサン・フルットゥオーゾ(San Fruttuoso)までの乗船時間は約30分間。
美しい浜辺には大勢の海水浴客、飲食店には冷たい飲み物や料理を楽しむ人々が溢れていました。
でも、私の目的はロマネスク。
2. 概要
教会の中にリーフレットがありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
修道院がキリスト教の殉教者である聖フルットゥオーゾ(Fruttuoso)とその助祭アウグリウス(Augurio)、エウロギウス(Eulogio)に捧げられたのは、歴史と伝説に根ざしている:司教フルットゥオーゾは、259年にスペインのタラゴナで殉教し、その遺骸は、アラブによる征服(711~714年)の際に、同じくタラゴナの司教であった聖プロスペロ(Prospero)によって、モンテ・ディ・ポルトフィーノ(Monte di Portofino)のふもとにある Capite Montis と呼ばれる入り江に移された。伝説によると、殉教者フルットゥオーゾ自身が、夢の中で弟子たちに自分の遺骸を安置する場所を示したという。
修道院に関する最初の文献は、977年に遡る。新しい千年紀になると、修道院は完全に再建され、高い鐘楼を持つ教会、その脇にある修道院、そして隣接する小さな回廊から構成された。新しい修道院は寄付によって潤い、ポルトフィーノの岬とポー渓谷にその所有地を広げた。
13世紀になっても、修道院は精神的、政治的、経済的に高い権威を保っていた。14世紀になると、ほど近いチェルヴァーラ(Cervara)修道院に押される形で衰退が始まったが、何よりも、市町村の自治権の確立、宗教紛争、オスマン・トルコや蛮族の海賊の侵入など、政治情勢の変化により、その勢いは弱まっていった。
15世紀半ば、修道士が退去した後、修道院はコメンダムとなった。16世紀以降、この複合施設をドリア(Doria)家が手に入れ、ほぼ3世紀にわたって庇護権を保持した。アンドレア・ドリア(Andrea Doria)は、ジェノヴァの教会にあった先祖の墓をサン・フルットゥオーゾに移させた。修道院は、1983年に全施設がFAIに寄贈されるまで、ドリア家の保護下にあった。
FAI(イタリア環境基金:Fondo Ambiente Italiano)は非営利財団であり、賢明な民間人、企業、団体の支援によって運営されている。1975年の設立以来、英国のナショナル・トラストに影響を受け、INTO(国際ナショナル・トラスト組織)に加盟している。
この後も、リーフレットを引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
リーフレットに平面図がありました。東が右です。
1 チケット売り場、チャプターハウス、ドリア家霊廟(Biglietteria, Sala Capitolare, Tombe dei Doria)
2 下部回廊と上部回廊(Chiostro Inferiore e Superiore)
3 修道院(Abbazia)
4 庭園(Giardino)
5 教会庭(Sagrato della Chiesa)
6「公的」教会入口(Ingresso Chiesa “pubblica”)
この後は、現地に置いてあった案内シートを引用するときに太字で書きます。
4. 修道士の教会(Chiesa monastica)
この建物群には、教会が二つあります。「公的」教会(Chiesa “pubblica”)と、その内陣の下にある修道士の教会(Chiesa monastica)です。
案内シートによると、「公的」教会(Chiesa “pubblica”)には、16世紀の改築と1915年の洪水の影響で、オリジナルの構造を見ることはほぼできません。
一方、修道士の教会(Chiesa monastica)には、11世紀頃の遺物(2匹の魚を含むフリーズ彫刻、碑文、シノピアの断片、柱頭など)があります。
簡素な彫刻が心を打ちます。
5. 修道院(Abbazia)
海に面した、ゴシック・リグーリア様式の建物は、4つの不規則なアーチを持つ土台の上に2階建てで、13世紀後半に、修道院のファサードに寄り添って建てられた。修道院の厳かなファサードではなく、貴族の宮殿のファサードに似ている。その理由は、当時すでにベネディクト会と貴族ドリア家との間に親密な関係があったため、ジェノヴァの貴族の宮殿の類型に従って建てられたことにある。
最上階のホールには、修道院周辺で発掘された遺物が展示されている。これらは主に13世紀から14世紀にかけての陶器である。
トリフォラの向こうに、ティレニア海が太陽を浴びて輝いていました。
爽やかな気持ちになりました。
6. 上部回廊(Chiostro Superiore)
現在の上部回廊は、16世紀にアンドレア・ドリア(Andrea Doria)提督によって行われた修道院の改修工事の結果である。全体は古材を再利用して再建され、木造の屋根は石造の十字ヴォールトに置き換えられた。元の構造は、海側の八つの開口部を持つポリフォラだけが残っており、12世紀に遡ることができる。
回廊から見上げると、1562年に建てられたドリアの塔(Torre Doria)が見える。
回廊に入ると、2世紀後半頃のものと思われる柱頭が目に飛び込んでくる。この柱頭は、エルバ島産の花崗岩でできた古典的な柱に支えられており、軸が低くなるのを補うために、基部に中世の柱頭が逆に使われている。
山に面した中央の柱頭は、滑らかな葉状装飾(4~5世紀初頭)で、8世紀半ばに作られた八角形の柱の上に乗っている。海に面した中央の柱頭は、滑らかな葉状装飾(10~11世紀)で、2~3世紀にトルコのマルマラ海に浮かぶ島プロコンネソの採石場から産出され、螺旋状装飾が施された大理石柱の上に乗っている。
下の写真で、向かって左が山側、向かって右が海側です。
海に背を向け上を見上げると、教会の壁に埋め込まれた、ビザンチン様式(11世紀)のアンフォラ(元々はワインの運搬に使われたが、現在は鳥の巣になっている)を眺めることができる。
不規則な盲アーチが、なんとも、味わい深い。
7. 下部回廊(Chiostro Inferiore)
修道院の建物同様に、回廊も二層になっています。
下部回廊を外から眺めると、ずんぐりとした柱が並ぶ重厚な印象。
でも、内側から見ると、驚きます。
内側半分だけ、古い構造をあらわにしてあるんです。
なんと美しい。
下部回廊は、11世紀のロマネスク様式の修道院建物群の要であり、そこから教会や礼拝室に出入りすることができた。12世紀には、木造の屋根を持つ第二のロッジアが建設された。
16世紀にアンドレア・ドリア(Andrea Doria)提督が推進した改修により、下層の屋根は樽型と十字型のヴォールトに、上層のロッジアの屋根は十字ヴォールトに変更された。上部の重量が増加したため、下部の細い柱を補強する必要があった。
1930年代の修復工事により、この補強外装の半分が取り除かれ、ビザンチン様式の柱と松葉杖の柱頭が発見された。
構造上、補強を全て取り除くことはできなかったのかもしれません。
下部の回廊の柱頭は、中世ジェノヴァの西郊外に設立されたベネディクト会派、聖トマス修道院の失われた複合施設の第一回廊のものと類似している。
山側には、再利用されたと思われるフルート状の螺旋を持つ小さな白大理石の柱があり、2つの柱頭は10世紀後半から11世紀初頭のもので、細部へのこだわり、洗練された技巧による装飾が特徴的で、興味深いズーモルフィックな表現が見られる。
帝国を暗示する紋章の姿勢の鷲は、そのくちばしで蛇の頭を挟み、その蛇の体は円形模様の中に鳥を刻んでいる。
暴れ回るネコ科の動物は、批評家たちはライオンと見なしていたが、現代の再解釈では、たてがみがなく、軽いタッチで斑点が付けられた被毛のため猛獣と見なされており、中世の獣図鑑や彩色写本に描かれた豹の表現に近い。
反対側の面には、長い尾と首を後方に向けた一対の鳥が描かれており、おそらく孔雀がカンタロスから生命の水を飲んでいるのであろう。
主題の荘厳な色調と技巧の洗練は、オットー朝時代の作品と呼応している。10世紀末に、修道院は、オットー1世の未亡人アデライデ・ボルゴーニャ(Adelaide Borgogna)の宮廷の古典主義的嗜好の仲介によって、単純な修道院の建物から、同時代の北ヨーロッパ建築の最高の例に沿った最新の建造物へと改修された。
サン・フルットゥオーゾ修道院(Abbazia di San Fruttuoso)。下部回廊(Chiostro Inferiore)に残る細い柱と柱頭彫刻が美しいです。
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