2023年7月30日(日)、二番目に訪れたのは Cosio。Abbazia di San Pietro in Vallate です。
ここは、山の中の修道院跡で、廃墟です。後陣の外観が素晴らしいです。
目次
1. Cosio へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 南側外観 .
5. 内観 .
6. 東側外観(後陣) . .
1. Cosio へ
私はアリアテ(Agliate)から北に約78km、53分ほど運転して、山間の村に着きました。車は Via Chiesa と Via Grande の交差点にある駐車場に停めました。10:15頃のことです。
私は修道院跡のすぐ近くまで車で行くつもりだったのですが、道が狭くなっている箇所があったのです。
狭い道が続くのだったら運転しにくいと思って引き返しました。でも、狭かったのは、ここ1か所だけでした。車で行って大丈夫だったなと思いました。
私は、Via Biellaの登り坂を東に500メートルほどてくてくと歩きました。
着きました。
案内板が三つありました。でも、草が生い茂っていて、それぞれが数メートル離れた三つの案内板に近づくのがひと苦労でした。
蛇や虫がいるかもしれないので、できれば草むらは歩きたくないのですが、仕方ありません。
建物の基礎部分が少し残っているので、なるべく基礎部分の石の上を歩いて、どうにか案内板に近寄りました。
2. 概要
ひと苦労の末にたどりついた、三つの案内板による概要です。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
Como 湖の北端、Alto Lario、Valchiavenna と Valtellina の他の地域との接点であるこの土地は、ミラノのSant’Ambrogio 修道院のような有力な教会組織や、中世に Cosio 城に居を構えた Como の Vicedomini 家のような有力な一族による、争いの対象となっていた。
中世初期には、Isola Comacina の一族がこの地域に広大な土地を持っていた。
1078年3月、Isola Comacina の Otto と Boniza 夫妻が Cluny に九つの領地を寄贈した。
第一の所有地は、畑、栗林、牧草地、森で構成されており、Cluny 派の教会と修道院の建設が進められた。
«ubi edificium est inceptum in honore sanctorum apostolorum Petri et Pauli et sancti Maioli, et ad opus ecclesie Cluniacensis»
現在、この修道院が捧げられているのは聖ペトロである。しかし、もともとは聖パウロや、Cluny 第4代修道院長であり彼の死後(994年)すぐに聖人と認められた聖マヨルスにも関連づけられていた。
修道士らの存在は、Cosio と Valtellina 下部の領土の発展に刺激を与えた。しかし、14世紀に修道士たちが去った後、修道院群は徐々に衰退していった。
19世紀から20世紀にかけて、この絵のように美しい Valtellina の一角への関心が再燃し、修道院跡とその周辺一帯の保存計画が持ち上がった。
1914年~1916年、Antonio Giussani がこの一帯を買い取り、主に主後陣の修復を行う。1938年に彼が亡くなると、遺言により Cosio 市に譲渡される。
1978-79年 – 最初の考古学的発掘調査が行われる。
1980年 – 最初の全体的な修復が行われる。
1997-2002 – 修復作業が完了。
この後も、案内板を引用するときは太字で書きます。
3. 平面図
現地には平面図が見当たりませんでした。ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『LOMBARDIA ROMANICA VOL II』による平面図です。東が上です。
濃い色の部分が現在も残っています。
4. 南側外観
現在残っているのは、身廊の南側の壁、半円形の後陣、鐘楼だけ。
石造りの2身廊の教会です。
5. 内観
南扉口から身廊へ行きます。
身廊の屋根は、とうの昔に崩落しました。
内陣、後陣のアーチが美しいです。
鐘楼の基礎部分はトンネルになっています。昔は鐘楼の東に半円形の北小後陣があったようなのですが、今はありません。
6. 東側外観(後陣)
鐘楼のトンネルを通って、東側に行きます。
後陣の軒下には、盲アーチ、ノコギリの歯状の帯、狼の歯状の帯が重なっています。
実に美しい姿です。
Abbazia di San Pietro in Vallate。山の中の修道院跡です。後陣の外観が素晴らしいです。
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