2022年12月12日(月)、最初の目的地はRavenna。まず、<1> Basilica di San Vitale を訪れます。
ここは、モザイクに息をのみます。
「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」として1996年からユネスコの世界遺産に登録されている八つの建築物の一つです。八つの中でも特に荘厳で、この町を代表する Basilica です。
クリスマスと新年を除く毎日、朝から晩まで開いています。有料です。ウェブサイト(Opera di Religione della Diocesi di Ravenna)にて、以下の五つに入場できるチケット(€ 10.5)をオンライン購入できます。(2023年現在)
<1> Basilica di San Vitale
<2> Mausoleo di Galla Placidia*
<3> Battistero Neoniano*
<4> Museo Arcivescovile (Cappella di Sant’Andrea)
<5> Basilica di Sant’Apollinare Nuovo
* <2>と<3> には追加入場料(€ 2)がかかり、予約が必要です。
目次
Ravenna へ .
概要 .
平面図 .
南塔、北塔 .
柱の大理石 .
床(pavimento) .
柱頭 .
モザイク .
アルファベットは、主にイタリア語ですが、ラテン語やギリシャ語などもあります。(現地で何と書かれているのかをお伝えしたい。)
Ravenna へ
私は宿から北東に約37km、36分ほど運転して、世界遺産の町に着きました。10:30頃のことです。
私は Basilica の北側にある有料公共駐車場(Parcheggio Giustiniano)に車を停めました。
サン・ヴィターレ通り(San Vitale)とガッラ・プラチディア通り(via Galla Placidia)が交差するところに、入場門があります。
この門を入ると、<1> Basilica di San Vitale と<2> Mausoleo di Galla Placidia があります。
概要
教会の外に案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
伝説によれば、兵士で殉教者の Vitale が井戸に生き埋めにされた場所に建てられた。
5世紀にはすでに聖人に捧げる小礼拝堂(sacello)が建てられ、1911年に発見されたその遺骨は、Basilica 内に残されている。
Andrea Agnello は、9世紀前半の『liber Pontificalis』の中で、現在の Basilica は525年に司教 Ecclesio の依頼で建設されたとしている。まだラヴェンナがテオデリックに統治されていた頃である。
テオドリック(454年 – 526年)は、コンスタンチノープル育ちのゴート人で、イタリア王となり、東ゴート族の王国を建国した人物です。ラヴェンナは東ゴート王国の首都でした。東ゴート王国は、東ローマ帝国と同盟して、西ローマ帝国の皇帝廃止後に、イタリアのほぼ全域を支配下におきました。
そして547年か548年に大司教(arcivescovo)の Massimiano によって奉献された。東ゴート族との悲惨な戦争の末にビザンチン帝国がイタリア全土を支配していた時期である。
建築の資金提供者は、おそらくGiuliano Argentarioで、Andrea Agnello によると26,000 の solidi d’oro を使ったという。
最近の研究では、Basilica の建設は、540年に将軍 Belisario がラヴェンナを占領した後、ラヴェンナとコンスタンティノープルの交易が再開され、石材(柱や柱頭など)が海路で運ばれてきたとされる。ユスティニアヌス帝の支配下での西方の凱旋を宣言するためにつくられたものである。
この後も、案内板を引用するときは太字で書きます。
平面図
案内板に平面図がありました。北東が上です。
中央のドームを取り囲むように、ドラム(tamburo)と呼ばれる太鼓状に張り出した部分がある。2階建ての周歩廊(deambulatorio)となっており、上階はマトロネウム(matroneo)、つまり初期のキリスト教建築で女性用に作られた場所である。
後陣は東向きで、内陣を挟んで二つの礼拝堂がある。聖餐式準備室(prothesis)と聖具保管室(diaconicon)という、ビザンチン様式の教会建築である。
後陣の反対側には、周縁の角のような不思議な斜めの位置に、鉗子のような形をした玄関間(nartece)がある。これは、教会の本来の入り口であった。
この場所を通って、二つの階段状の塔にアクセスし、マトロネウム(matroneo)に行くことができた。南塔は、10世紀末に円形の鐘楼になった。1371年と15世紀前半に修復されたが、1688年4月11日の地震で倒壊し、再建された。
さっそく見学です。
南塔、北塔
冒頭の写真にある門から来ると、南扉口があります。
特徴的な八角形の建物には、南側と北側に塔があります。
上の写真に写っているのは南塔です。1688年4月11日の地震で倒壊し、再建されました。
北側に行きます。
北塔は南塔より低いです。マトロネウム(matroneo)に行くのにちょうど良い高さです。
南側に戻って、Basilica の中に入ります。
柱の大理石
南扉口から入ると、右側に内陣があるんですが、そちらは角度が鋭角なので、まず目に入るのは左側です。
柱の根元に、あまり見ない装飾があります。
大理石をスライスして開き、模様が対称になるようにはりつけてあるようです。
床の装飾も凝っていて、すごいです。
床(pavimento)
床の一部は立入禁止になっていて、そこには、繊細な装飾があります。
また、5世紀の聖堂を飾っていた pavimento が展示してあります。
色使いが見事で、すごく、美しいです。
柱頭
古典的な植物模様もありますが、凝った浮き彫りもあります。
びっくりです。
モザイク
聖域のモザイクをみます。息をのむ迫力です。
内陣と後陣のモザイク装飾は、Massimianoの司教時代(546-556)に集中的に行われた。
547年または548年5月17日にバシリカを奉献したのは彼であった。
ビザンチンに敗れたばかりの東ゴート族に対する、明確な反アリウス派のメッセージである。
ゲルマン系諸民族(東ゴート族、ロンゴバルド族など)は当初、アリウス派でした。
アリウス派は、イエスにおいて受肉したロゴスを、神の被造物と考えます。ロゴスである子なる神の本質と、父なる神の本質を、異なるものと考えるのです。この考えは多神信仰につながる上、父なる神は被造物(イエス)が生まれて初めて父になります(神が変化しちゃう)。
これに対して、いわゆる正統派は、ロゴスである子なる神イエスは完全に永遠に神であるとします。
見学に話を戻します。
モザイクについては ウェブサイト(Opera di Religione della Diocesi di Ravenna) が詳しいので、ここからはウェブサイトを参考にします。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
勝利アーチの内側には、最上部にイエス、その両側に12使徒、さらに san Gervasio と san Protasio(san Vitaleの息子たちと考えられている)が描かれている。
祭壇の周りには、壁に沿って旧約聖書の場面が描かれており、パン=キリストの聖体と犠牲というテーマを象徴的に想起させる。
一方は、アブラハムとその妻に息子の誕生を告げた3人の天使に対するアブラハムのもてなし、そして息子イサクの犠牲である。
反対側は、アベルとメルキゼデクの犠牲(捧げ物)である。
また、皇后テオドラと皇帝ユスティニアヌスは、それぞれの捧げ物を持って聖なる祝祭に参加する。2人(ちなみにラヴェンナを訪れたことはない)は、それぞれ黄金の聖杯と盃を持っている。地上の捧げ物は、聖体の捧げ物と対照的である。
皇帝ユスティニアヌスが直接任命した大司教(arcivescovo)のMassimianoが堂々と描き込まれています。
終末論的な頂上は、十字ヴォールトの中心に立つ神の仔羊によって表される。
天蓋の神の出現は、図像計画全体の宗教的・教義的支点を表しており、紫と金(ビザンチン帝国の色)を身にまとい、十字ニンブスに縁取られた髭のない皇帝キリストが天球上に座り、手に律法の巻物と殉教の冠を持ち、san Vitale に手渡す。彼はベールをかぶった手で受け取っている。
ミカエルとガブリエルの2人の大天使がおり、Ecclesioが神殿の模型を差し出している。
Ecclesioはラヴェンナの司教です。
物語や教義的な場面の次に、東洋的な起源を持ち、ヘレニズム・ローマの伝統につながる自然主義的な表現で描かれた、動植物の形態の豊かさに、訪問者は目を奪われることであろう。しかし、同時に、この土地の環境とも密接な関係がある。ここでは、復活を暗示する孔雀のような東方キリスト教で頻繁に使われるシンボルに加えて、ラヴェンナ近郊の松林や渓谷に生息する鳥や茂みを見ることができる。
放つかがやきが強烈なのに、印象がやわらかいのは、動植物の描き方が優しいからかもしれません。
Basilica di San Vitale。モザイクに息をのみます。
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