2022年12月7日(水)の最後、二番目の目的地はSutri。Concattedrale di Santa Maria Assuntaです。
ここは、地下聖堂が素晴らしいです。上部教会の身廊にあるコズマ一族(Cosmati) による床モザイクも良いです。
私は、Sutriのあと、ロンチリオーネ(Ronciglione)に行きましたが、行き違いがあって教会の中に入ることができませんでした。Ronciglioneについては12月19日(月)に再訪して教会の中を見学しましたから、12月19日(月)の記録として書きます。
目次
Sutri へ .
概要 .
平面図 .
外観:ファサード、鐘楼 .
内観:全体、コズマ一族による床モザイク .
内観:地下聖堂 .
脚注(1) コズマ一族(Cosmati) .
アルファベットは、基本的に全てイタリア語です。
Sutri へ
私はタルクイニア(Tarquinia)から東に約50km、50分ほど運転して、丘の下の駐車場に車を停めました。13:40頃のことです。
丘の上の教会を目指して歩き、13:45頃に着きました。
概要
教会の中と外に案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
<Sutri>
Sutriは、チミーナの森(Selva Cimina)とサバティーニ山脈(Monti Sabatini)を隔てる渓谷沿いに位置し、カッシア通り(via Cassia)を見下ろす凝灰岩質の高台にそびえている。北と西のエトルリア、東のアグロ・ファリスコ(agro Falisco)、南のローマの間の地理的な緩衝地帯であり、その戦略的な立地が、運命を変えてきた重要な理由である。
紀元前4世紀初頭にすでにローマに服属していたエトルリアへとローマが進出する橋頭堡となり、紀元前1世紀末まで続いた戦乱の中で、エトルリア人と繰り返し争う軍事拠点となった。
帝国末期にローマ世界を襲った政治的、社会的、経済的危機はSutriにも及んだが、その退廃はカッシア通り沿いという立地条件によって一部緩和された。
中世初期、Sutriは軍事的、戦略的な重要性を取り戻した。
728年、ロンゴバルドに占領されたSutriは、リウトプランド王によって教皇グレゴリウス2世に寄贈された。教皇領として、Sutriは、教皇の任命権争いや宗教改革の際に、政治的・宗教的に密接に関連する出来事の舞台となった。ローマの門に位置するこの町では、王や皇帝が教皇やその使節と会うために立ち寄った。
15世紀から16世紀にかけて、この町は、権力を争うローマの貴族たちの争いの風潮の影響を受け、その猛威に繰り返し襲われ、荒廃と破壊を被った。この時期から衰退が止まらなくなり、戦略的な役割を失うことになった。
<大聖堂>
教会の起源は、キリスト教初期(4世紀)にさかのぼり、大聖堂として奉献されたのは10世紀の最初の10年間である。
1170年、司教アダルベルト(Adalberto)によって修復され、その後1207年、教皇インノケンティウス3世によって増築が奉献された。当時の大聖堂は、三身廊、三後陣であったと考えられる。身廊と側廊の間は異教の神殿に由来する柱で仕切られ、屋根はトラス式であった。中世の古い聖堂のうち、地下聖堂、身廊の床、それに対応する扉口が残っている。
1745年の「大修復」によって、ロマネスク様式の聖堂はバロック様式に生まれ変わった。最後に、1889年から1891年にかけて、地下聖堂に通じる階段などの工事を実施した。
この後も、案内板を引用するときは太字で書きます。
平面図
案内板に平面図がありました。南が上です。
さっそく見学です。
外観:ファサード、鐘楼
18世紀バロック様式のファサードと、ロマネスク様式の鐘楼。
鐘楼の下部の2階は12〜13世紀、上部の2階は13世紀中頃に建てられたものである。
内観:全体、コズマ一族による床モザイク
18世紀バロック様式の内観。
床には見事なモザイクがあります。
12世紀の床モザイク。Jacopo di Lorenzo の工房が手がけたとされる。
ヤコポ(Jacopo di Lorenzo)はコズマ一族(Cosmati)(1)の第2世代。Cosmaの父です。
これほどに発色が美しい素材を大量に手にいれることができる工房は、その技術が認められていたのかなと思います。
内観:地下聖堂
内陣の下に地下聖堂があります。
地下聖堂におりる階段に照明スイッチ(有料)があり、€1硬貨を入れると5分くらい地下聖堂内を照らしてくれるようなのですが、私が行ったときは、硬貨が詰まっていました。
仕方なく、照明なしで撮影しました。
柱頭も柱も、形も色もさまざまで、再利用されたものが使われています。
ロンゴバルド時代のものも、古代ローマ時代のものもありそうです。
柱頭は、ほとんどが植物模様です。
以下のように案内板に書いてありましたが、残念ながらどれのことかわかりませんでした。
うち、一つだけ具象作品があり、もう一つは「GRMVHALDUS PRB ACCOLA」と刻まれている。
ちなみに、帰国後に投光器を買いました。持ち運びのしやすい小さいものを二種類。2023年春の旅行でたいへん役に立ちました。
Concattedrale di Santa Maria Assunta。地下聖堂が素晴らしいです。上部教会の身廊にあるコズマ一族(Cosmati) による床モザイクも良いです。
(1) コズマ一族(Cosmati).↩️
手元の小学館の伊和辞典によると、Cosmati: コズマ一族(12-14世紀、主として大理石装飾技術、モザイク技術に長じ、ローマを中心に活躍した)とあります。
つまり、コズマーティってかなり限定的なんです。
調べてみると、コズマ一族(Cosmati) は、主に4世代が活躍していました。
第1世代
テバルドの子、ロレンツォ(Lorenzo di Tebaldo)
第2世代
ロレンツォの子、ヤコポ(Jacopo di Lorenzo)
第3世代
ヤコポの子、コズマ(Cosma di Jacopo di Lorenzo)
第4世代
コズマの子、ルカ(Luca di Cosma)
コズマの子、ヤコポ(Jacopo di Cosma)
(ちなみに、ロレンツォ(Lorenzo di Tebaldo)の父テバルド(Tebaldo)も大理石職人でしたが、活躍したとは見なされていないようです。)
コズマ一族(Cosmati) の名前の由来はコズマ(Cosma)です。
「ローマの大理石職人たちが、しばしば誤ってCosmatiと総称される」と、Luca Creti 博士が2002年の短い論文『I «COSMATI» A ROMA E NEL LAZIO』で言っています。
同論文には、いくつかの一族の家系図が載っています。例えば:
famiglia di Paolo
famiglia di Rainerius
famiglia di Lorenzo(コズマ一族のことです)
famiglia dei Vassalletto
famiglia di Pietro Mellini
コズマ一族(Cosmati)ではない大理石職人がいっぱいいて、その職人たちもモザイク装飾を引き受け、同じような色大理石を使った幾何学模様の優れたモザイクを数多く残しています。
実は、彼らの作品は誤ってCosmatiと総称されるだけでなく、「コズマふうの(cosmatesco)」という形容詞で紹介されることも多くて、まぎらわしいのです。
私のブログでは、コズマ一族(Cosmati)の作品とはっきりわかるときだけ、コズマーティ(Cosmati)の言葉を使います。
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コズマーティ様式とは「様式の特性につけられた名称」と云うよりは「コズマさん一家の得意な?良くやる?様式」(と、それに似たスタイル)という処から名付けられたなまえなのですね、やっとスッキリ理解出来た様に感じました。有難う御座います。
読んでくださりありがとうございます。はい、おっしゃる通り、「コズマーティ様式」とは「コズマさん一家様式」だと思います。
ちなみに、金沢百枝先生の『ロマネスク美術革命』にローマのモザイク床装飾についてこうあります:「コズマーティと呼ばれる一族の工房が一手に引き受けたので、色大理石をつかった十二世紀の幾何学模様はコズマーティ装飾と呼ばれる。」
でも、コズマさん一家の他にも複数の一家がいて、彼らの工房もモザイク装飾を引き受けていました。それらがコズマーティ装飾と総称されると、まぎらわしいかもしれません。コズマさん一家が手がけた作品のように聞こえるけれど、そうではありませんから。