2022年12月2日(金)、三番目の目的地はCastiglione a Casauria。Abbazia di San Clementeです。
ここは、西側(ファサード)、説教壇、燭台、地下聖堂、祭壇が良いです。古物博物館(antiquarium)も興味深いです。
月曜を除く、火曜から日曜の9:00〜13:30に開いています(2022年現在)。
目次
Castiglione a Casauria へ .
概要 .
平面図と断面図 .
外観:西側(ファサード) .
古物博物館(antiquarium) .
内観:全体、説教壇と燭台 .
内観:地下聖堂 .
内観:祭壇 .
アルファベットは、基本的に全てイタリア語です。
Castiglione a Casauria へ
私はピアネッラ(Pianella)から南西に約36km、33分ほど運転して、ひとけの少ない大きな建物の前に着きました。11時半頃のことです。
概要
建物の外に案内板が、建物の中にリーフレットや案内掲示がありました。私がそれらの一部を抜粋して太字で和訳します。
古代ローマ時代の聖域の近くにあり、幾人かの学者は、礼拝所は風をもたらす神ユピテルに捧げられた神殿カサ・ウリイ(Casa Urii)の跡に建てられたため、そこから「カザウリア」という名前が付けられたと考えている。
修道院を備えた教会が、871年に皇帝ルドヴィコ2世によって創設され、当初は三位一体に捧げられた。翌872年、教皇ハドリアヌス2世は、教皇であり殉教者でもあった聖クレメンスの遺骨を修道院に寄贈した。
ちなみに、11月30日に見学したロショーロ・デイ・マルシ(Rosciolo dei Marsi)、12月1日に見学したカペストラーノ(Capestrano)、翌12月3日に見学するグアルディア・ヴォマーノ(Guardia Vomano)は全てこちらのCasauriaを姉とする妹修道院です。
ローマから離れたこの地で、初代教会時代(1世紀頃)の教皇の遺骨を祭壇に納めることができるのは、そりゃあもう、たいへんな栄誉だったらしい。
皇帝の寄進により、すぐに修道院は大きな力を持つようになったが、920年にサラセン人に略奪され、再びその領地と力を取り戻した矢先、1076年から1097年にかけて、ノルマン人伯ウゴ・マルモツェット(Ugo Malmozzetto)によって再び、何度も略奪されることになった。
12世紀、修道院は最盛期を迎えた。1105年、グリモアルド(Grimoaldo)大修道院長は改修と再献納を行い、1152年からはレオナーテ(Leonate)大修道院長が大規模な改築を行い、その後継者であるイオレ(Iole)大修道院長はレオナーテによる工事を忠実に継承している。
14世紀以降、緩やかで止むことのない衰退が始まり、1348年の大地震で教会と修道院は壊滅的な打撃を受けた。教会は1448年に部分的に修復されたが、修道院の一つの棟が修復されたのは、1700年になってからである。また、教会は1891年、1915年の地震後、そして1970年代と1980年代など、何度も修復が行われた。
この後も、案内板や案内掲示を引用するときは太字で書きます。
平面図と断面図
案内板にあった平面図。東が上です。
断面図。東が右です。
さっそく、見学します。
外観:西側(ファサード)
門を通ると、まず圧倒されるのが、西側(ファサード)。
三つのアーチがあります。中央だけが半円アーチで、両脇は尖頭アーチです。
西扉口の装飾の豪華なこと。
パリの国立図書館に保存されている『カザウリア年代記(Chronicon Casauriense)』や、西扉口中央のまぐさにある浮き彫りから、修道院には1000年以上の歴史があることがわかる。
871年、ローマで教皇ハドリアヌス2世が皇帝ルドヴィコ2世に聖クレメンスの聖遺物を託した。聖遺物は祠に納められ、修道士チェルソ(Celso)らによって修道院が建設される予定だったペスカーラ(Pescara)川の島にロバで運ばれた。
初代大修道院長ロマーノ(Romano)は、皇帝から笏を受け取る。
フランクの軍人シセナンド(Sisenando)と司教ペンネ・グリマルド(Penne Grimaldo)が伯爵エリナルド(Erinaldo)の同意を得て皇帝にこの地の領有権を与えており、笏はその領有権を象徴している。
ブロンズ製の扉は、レオナーテ(Leonate)の後継者であるイオレ(Iole)大修道院長の執権下で制作されたものである。
扉の金具には、鋭い歯。
ポルティコには、美しい柱頭彫刻が並びます。
立派な大修道院です。
古物博物館(antiquarium)
ポルティコの南端に、古物博物館(antiquarium)があります。
2013年に開設された小さなもの。
主にピエール・ルイジ・カローレ(Pier Luigi Calore、1865-1935)が愛情を持ってこの地域で収集し、できるだけ多くの記憶を保存する目的で分類された考古学的・歴史的な資料が置かれています。
案内掲示によると、Pier Luigi Caloreは、廃墟化していたこの修道院の改修に努力した地元の芸術家だそう。
私が興味を持ったのは、一番奥の中央に置かれた像。
石像も興味深いものであり、世俗的テーマを表す古い彫刻から彫られたものの可能性があるが、その解釈については依然として議論されている。
女性の膝の上の子供。手足がやわらかそうで、傾いた両肩に動きがあって、とても印象的です。
教会の中に入ります。
内観:全体、説教壇と燭台
三身廊、三後陣。
まず目に入るのが、大きくて立派な説教壇。
おそらく1176年頃、レオナーテ(Leonate)大修道院長の呼びかけで作られたもので、殉教と永遠の命の象徴であるヤシの木で飾られた柱頭を持つ。説教者が説教の内容と一致した生活習慣を身につけるよう促す碑文が刻まれている。
説教壇の隣には、燭台があります。
身廊の左側には、優雅な燭台がある。四隅にライオンの頭がついた祭壇の形をした台座(4世紀後半から5世紀前半)があり、異教の神殿にあったものの再利用と思われる。
内観:地下聖堂
側廊の東端から9世紀に建設された地下聖堂におりられます。
平面図にある通り、地下聖堂は、それぞれ九つの柱間からなる二つの横長の身廊に分かれています。
地下聖堂は、再利用っぽい柱や柱頭があって、幻想的な空間です。
内観:祭壇
地上に戻って、内陣をみます。
豪華なチボリウムはおそらく15世紀のもの。
祭壇は、初期キリスト教時代の石棺(4世紀後半から5世紀前半)が使われており、前面が五つの区画に分かれている。偶数番目の区画には起伏のある溝があり、奇数番目の区画には衛兵の間の聖ペトロ、中央には聖ペトロと聖パウロの間のイエス、右側には否定の場面が描かれている。
Abbazia di San Clemente。西側(ファサード)、説教壇、燭台、地下聖堂、祭壇が良いです。古物博物館(antiquarium)も興味深いです。
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