フィデンツァ(Fidenza)

2019年12月の旅行五日目、最後に目指すは Fidenza 。カステッラルクアート(Castell’Arquato)から東に約19km、車で約23分の道のりです。目的は Duomo di Fidenza 。

町の守護聖人でもある、聖ドムニヌスに捧げられた大聖堂です。(長い間、約30km東にあるパルマ司教の下にある教区教会でしたが、1601年に大聖堂になりました。)

この大聖堂を見学するとき、Fidenzaの町の歴史を知っていると、より深くあじわうことができます。簡単にご紹介します。

フィデンツァの歴史

その歴史は非常に古く、先史時代にはすでに人が住んでいたようですが、紀元前2世紀には、古代ローマ人がその戦略的位置を利用して野営地を建設しました。

当初は Valfuria と呼ばれていましたが、やがてガリア人の神 Fidio にちなんでフィデンティア(Fidentia)と呼ばれるようになり、紀元前41年には初代皇帝オクタビアヌスから「ローマの自治都市」の称号を得ました。

ローマ帝国が衰退すると何度も蛮族の侵攻を受け、4世紀にコンスタンティヌス帝が自称皇帝マクセンティウスと戦った際に破壊されました。復興は遅々として進まず、この地はボルゴ(borgo)と呼ばれるようになりました。ボルゴとは、小さい町のことです。

8世紀にはカール大帝がこの地を伯爵領に指定し、聖ドムニヌスに捧げる教会の建設に貢献します。この地は、10世紀以降、聖ドムニヌスの名前をつけてボルゴ・サン・ドンニーノと呼ばれるようになりました。

1093年、下ロートリンゲン公コンラートは、マティルデ・ディ・カノッサや教皇派の諸都市の支援を得て、父である神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世から離反します。(ハインリヒ4世は、聖職叙任権をめぐって教皇グレゴリウス7世と対立した皇帝です。いわゆるカノッサの屈辱で、1077年に皇帝はカノッサ城門において教皇に破門の解除を願い、赦しをこいました。)

コンラートは、マティルデ・ディ・カノッサとその同盟者によって選出され、1093年にイタリア王として戴冠しました。領土も収入もない王は、この地を居城とし、彼の王国の首都としました。でも、ボルゴ・サン・ドンニーノがイタリア王国の首都であった期間はたいへん短いものとなります。

1098年、皇帝ハインリヒ4世は帝国会議を開催し、コンラートのイタリア王位を剥奪し、弟のハインリヒに王位を与えます。コンラートは1101年に28歳の若さでフィレンツェで亡くなりました。

12世紀を通じて、この地を巻き込んだパルマとピアチェンツァの争いが、途切れながらも続きました。1108年に町は略奪され焼かれました。また、1152年に住民がパルマに連行され、破壊されました。さらに、1186年からほとんど途切れることなく続いた戦乱の後、1199年にはパルマがこの地を征服。1202年に締結された和約で、ボルゴ・サン・ドンニーノに対するパルマの主権が認められました。

13世紀に入ると10年ほどは比較的おだやかでした。しかし、有力な封建的一族であるパラヴィチーニ家が台頭し、皇帝の支援によって領土をピアチェンツァやパルマ、クレモナにも広げ、実質的な国家を建設します。この地は1249年に征服され、約20年間にわたってパラヴィチーニ国の一部となるのです。その後、1268年にパルマ軍がこの地を占領し、新たな破壊が行われました。城塞は破壊され、家々は焼かれ、住民は追放されました。

町は1300年に再建されましたが、1336年からはヴィスコンティ家の手に渡り、さらに要塞化が進みました。1556年にファルネーゼ家の手に渡り、1575年には新しい城壁が築かれました。1731年にブルボン家の手に移り、1802年にはブルボン・ロレーヌ家に移りました。

1927年に、古代にフィデンティア・ジュリアと呼ばれた町は、ボルゴ・サン・ドニーノと呼ばれた約1000年の時を経て、古代の名称にちなんでフィデンツァと改名されました。だから、けっこう最近のことなんです。フィデンツァという名前になったの。

ドゥオーモ・ディ・フィデンツァ

私は電車駅の近くにある有料駐車場に車を停め、歩いて向かいました。

Duomo di Fidenza、東側外観

東側には、いくつか面白い浮き彫りが埋め込まれていますが、、、

後陣の二つの浮き彫り

私が好きなのは、こちら。鹿と犬でしょうか。

後陣の下部の浮き彫り

南東の外観です。

Duomo di Fidenza、南東側外観

ファサードをみます。

Duomo di Fidenza、西側外観

ファサードには、扉口が三つあります。

向かって右の扉口

ファサードの扉口、向かって右

ファサードの扉口、中央

ファサードの扉口、中央

ファサードの扉口、向かって左

ファサードの扉口、向かって左

ファサードには、たくさん浮き彫りがあります。イエスや預言者のようなキリスト教のだけでなく、アレキサンダー大王やカール大帝までいます。教皇派と皇帝派で揺れに揺れた町の、略奪と破壊が繰り返された歴史を思うと、微妙な気持ちになります。

ファサードの浮き彫り、アレキサンダー大王

ファサードの浮き彫りの中で、特に有名なのはベネデット・アンテラミの作とされている、聖ドムニウスを描いた中央扉口のまぐさです。

聖ドムニウスを描いた中央扉口のまぐさ

伝承によれば、ドムニヌスは299年頃にこの地で殉教しました。マクシミアヌス帝の高官でしたが、キリスト教に改宗したために迫害を受け、皇帝の命令でスティローネ川のほとりで斬首されました。ドムニヌスの遺体を納めた最古の礼拝所は6世紀にさかのぼり、9世紀にバジリカに建て替えられました。

教会の中に入ります。

身廊から東を向く

三身廊のバジリカ式です。

現地にはフロアプランが見当たらなかったので、ゾディアック(Zodiaque)の『la nuit des temps』によるフロアプランを載せます。

ゾディアック(Zodiaque)の『la nuit des temps』によるフロアプラン

教会内部で私が好きなのは、地下聖堂です。

地下聖堂への入り口

私の好きそうなのが、あります。

地下聖堂にて、東を向く

聖ドムニヌスがここに眠っています。

聖ドムニヌスの眠る場所

聖ドムニヌスは切断された頭を手に持って現在の大聖堂の場所に移動したという伝説があり、図像にはその姿が描かれます。(斬首されたあとで自身の首をもって移動したと言う聖人伝は、パリの聖ディオニシウスのように、複数ありますよね。)

でも、2006年にフィデンツァ大聖堂の地下聖堂で行われた調査では、地下聖堂の遺体は首を切られていなかったことが確認され、この伝説は否定されたと聞きます。

私がこちらの地下聖堂で好きなのは、彫刻です。

柱頭彫刻、見ごたえがあります。

地下聖堂の柱頭彫刻

そして、力強く悪魔をやっつける図像があるかと思えば

地下聖堂の浮き彫り

こんな図像もあります。

地下聖堂の浮き彫り

Duomo di Fidenza、聖ドムニヌスの埋葬地と言われます。町はその歴史の中で破壊や略奪を繰り返されましたが、そのドゥオーモには、美しい彫刻が残ります。

この日(五日目、12月10日)の予定を終えて車に戻ると、時刻は16時でした。

五日目、12月10日(火)の予定
11. ヴィゴロ・マルケーゼ(Vigolo Marchese)
12. カステッラルクアート(Castell’Arquato)
13. フィデンツァ(Fidenza)

グーグルマップの画像を編集しました。赤い線の範囲がエミリア・ロマーニャ州(イタリア)。

予定では、このあとパルマ(Parma)に移動してホテルにチェックインするだけ。電車駅直結のホテルですから、道は複雑だし、混み合う中を運転することになります。となれば暗くなる前に運転を終えたい。

でも、翌日のスケジュールを過密日程にしないと言う意味では、翌日の最後に予定している訪問先に行っておけば明日が楽になります。さらに、この場所は前回(2017年5月)に中を見られなかった因縁の場所です。今日のうちに見られたら最高です。

よし、行っちゃおう。

急遽、訪問場所を一つ追加して、上の地図で19と番号がふってある場所に行くことに決めました。

次回、ヴィコフェルティレ(Vicofertile)について書きます。

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