カステッラルクアート(Castell’Arquato)<1>

2019年12月の旅行五日目、二番目に目指すは Castell’Arquato 。ヴィゴロ・マルケーゼ(Vigolo Marchese)から南東に約7km、車で約12分の道のりです。Castell’Arquatoでの目的は参事会教会(Collegiata di Santa Maria Assunta)、回廊と博物館(Chiostro e Museo della Collegiata)そして昼食です。

今回と次回の二回に分けて書きます。今回は主に村の歴史と回廊と博物館と昼食、次回は主に参事会教会についてです。

私は、アルダ川のほとりにある Piazza S. Carlo の無料駐車場に車を停め、歩いて、村の中心部に至るスフォルツァ・カオルツィオ通り(Via Sforza Caolzio)の坂道を登りました。

通りを橋のように横切る建物は、ストラディヴァリ宮(Palazzo Stradivari)。

Castell’Arquatoは「イタリアの最も美しい村」の一つで、中世の町並みが魅力的です。

村は、アルダ渓谷(Val d’Arda)の高台に位置し、そこは谷底のアルダ川や道を見渡すことができる立地です。

博物館で買った案内を和訳しつつ、村の歴史をまとめました。

Castell’Arquatoの歴史

村の起源は、アウグストゥスの帝政ローマ時代にさかのぼります。当時、この場所は農業地区の主要都市であり、城砦によって守られていたことから、その地理的重要性が確認できます。

村の名前は、この場所を治めていた Caius Torquatus に由来すると考えられており、Castro Arquato、Castelquadrato、Castell’Alquadro、Castel Torquato などの名称が記録されています。

蛮族の侵攻は、この村にも及びました。

750年頃、その混沌の中から、歴史家からマーニョ(Magno)と呼ばれる、おそらくロンゴバルド出身の有力な地方領主が現れました。彼は都市計画を適用し、屋根瓦のある石造りの家や、美しい参事会教会を含む、宗教的な建物を建てました。跡継ぎのいなかった彼はピアチェンツァの司教に管轄する全領土を残し、その後継者たちが400年以上の長きにわたってこの地を守りました。

スフォルツァ・カオルツィオ通り(Via Sforza Caolzio)を左折し、マーニョ通り(Via Magno)へ。正面の建物はヴィスコンティ要塞(Rocca Viscontea)。

村は1220年に自由共同体となり、ピアチェンツァ司教に700リラを支払って、マーニョが残した土地と品物を手に入れます。この時代から約100年間は、4つの地区の市民で構成される市民会議による共同体民主主義を享受し、社会的・慈善的な活動が行われました。

13世紀末頃から、コンドッティエーリ(伊:condottieri、傭兵や傭兵隊長)が活躍し、身分を超えて君主となった僭主が台頭する時代となり、村も、その時代の波にまきこまれます。

1290年に教皇派であるスコッティ家のアルベルト・スコッティ(Alberto Scotti)が村を占領し、1292年には、のちに裁判所として使用される館(palazzo del duca)を建設しました。

その後、アルベルト・スコッティは、ミラノで最も有力な皇帝派であるヴィスコンティ家と戦い、村の城砦に立てこもって数ヶ月間抵抗しましたが、1317年にガレアッツォ・ヴィスコンティ(Galeazzo Visconti)に敗北し、1年後に幽閉先で死亡しました。

村はヴィスコンティ家の領地となり、1345年に、ルキーノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)は、村の戦略的重要性を認識し、参事院教会の隣に、強力な要塞を建設しました。

マーニョ通り(Via Magno)を進み、左手にヴィスコンティ要塞(Rocca Viscontea)、正面に参事会教会を望む。

1466年にフランチェスコ・スフォルツァ(Francesco Sforza)が亡くなると、未亡人のビアンカ・ヴィスコンティ(Bianca Visconti)は、サンタ・フィオラ伯である義弟ボジオ・スフォルツァ(Bosio Sforza)に、Castell’Arquatoの領地を与えました。

ヴィスコンティ要塞(Rocca Viscontea)の北側外観。眼下に広がるのは北東を流れるアルダ川とその渓谷。

16世紀に、サンタ・フィオラ伯の後継者であるボジオ2世は、教皇パウルス3世の娘であるコスタンツァ・ファルネーゼ(Costanza Farnese)と結婚し、Castell’Arquato をファルネーゼ家の管轄下に置きました。

18世紀には建物の多くがバロック様式に改築されてしまいましたが、20世紀初めの改築で元の形になおされました。

こうした歴史が、この村に中世の町並みが残っている背景です。

中心部を通って回廊と博物館(Chiostro e Museo della Collegiata)へ

ムニチピオ広場(Piazza del Municipio)にて。参事会教会の南東外観。

ムニチピオ広場(Piazza del Municipio)を北に進み、振り返ります。

右が参事会教会の北東外観、左がヴィスコンティ要塞(Rocca Viscontea)の北側外観

参事会教会の北側にはポルティコ付きの華やかな扉口があります。

参事会教会の北扉口

参事会教会の西側へ進みます。

一般的には西扉口を豪華に装飾するのですが、こちらでは違います。広場に面した北扉口が豪華なのに対して、西扉口は簡素です。

右が参事会教会の西外観、

回廊と博物館(Chiostro e Museo della Collegiata)へ

上の写真の向かって右の建物が、入り口です。

回廊と博物館(Chiostro e Museo della Collegiata)の入り口

扉の張り紙には開館時間、見学料、展示内容が書いてありました。

扉の向こうには受付があり、受付で見学料を支払って案内本を一つ買いました。

受付の場所が、もう、回廊なんです。

回廊は1300年頃のもの。

回廊(1300年頃)

1300年頃というと、アルベルト・スコッティ(Alberto Scotti)が村を占領した頃です。彼は、1317年にヴィスコンティ家に敗北するまでにこの場所に来ることがあったでしょうか。

中庭に立ってみました。

回廊(1300年頃)、中庭から南を向く

上の写真で左手に見える扉が、博物館の入り口です。博物館内は写真撮影禁止でした。

博物館の入り口

博物館内には、ビザンチンの刺繍、装飾写本、フレスコ画や木彫作品、教皇パウルス3世のモッゼッタ(伊:mozzetta、高位聖職者が着用する小さなフードのついた短いケープ)などがあります。

案内本の写真から、ビザンチンの刺繍をご紹介。

ビザンチンの刺繍(案内本の写真から)

1315年にピアチェンツァで亡くなったアクイレイア総大司教オットーボノ・ロバリオ・デ・フェリチアーニ(Ottobono Robario de’ Feliciani)が、ガレアッツォ・ヴィスコンティの脅威から逃れるためにこの地に避難し、死の直前に参事院教会に遺贈したもの。イエスが使徒たちに聖体のパンを配る様子が描かれています。

相当に手のこんだ作りで、絹の刺繍の鮮やかな色合いが印象的です。

Chiostro e Museo della Collegiata、美しい村の波乱の歴史を思いながら見学しました。

昼食

開店時刻にさっそく入店したのが、こちらの店。

Ristorante Stradivarius
Via Sforza Caolzio, 36, 29014 Castell’Arquato

Ristorante Stradivarius 外観

こちらは美味しくてサービスも最高の店です。

店内は落ち着いた雰囲気。

Ristorante Stradivarius 店内

開店と同時に入店したので、一番乗りでしたが、食事をしていると徐々に店内は満席に近くなりました。

外を眺められる席につきました。

私が食べたのは、仔牛のフィレ肉の白ワイン煮込みポルチーニ茸と黒トリュフを添えて(Medaglioni di filetto di vitello al profumo di vino bianco accompagnato da funghi porcini e scaglie di Tartufo nero)。

仔牛のフィレ肉の白ワイン煮込みポルチーニ茸と黒トリュフを添えて

デザートは、プロフィットロール(profiteroles)にしました。チョコレートが濃厚でうまうま。

プロフィットロール

メインもデザートも、舌がとろけるおいしさでした。

次回は参事会教会(Collegiata di Santa Maria Assunta)を見ます。

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