2018年3月の旅行五日目の最後、五番目に向かったのはセラボヌ小修道院。フランス語ではPrieuré de Serrabone、カタルーニャ語では Santa Maria de Serrabona と呼ぶそうです。
実は四番目に行ったキュクサで、もう疲れたーと感じていたんです。が、ここに着いたとたんに、疲れが吹っ飛びました。
サン・ミシェル・ド・キュクサ修道院からセラボヌ小修道院への移動は東に30kmの道のりで、車で40分くらい。途中までは大きい道ですが、残り10km地点くらいから山道で、車の外は一面、緑の山という光景が続きます。しかも、最後3kmは曲がりくねった細い山道を、えんやこら、と登ります。
小修道院の表示が見えて(やっと着いた、やれやれ)と思って車を停めて歩き出すと、しばらく駐車場が続きます。けっこう細長いのね、この駐車場。そして小修道院の真ん前にも大きい駐車場がありました。きっと季節が違うと、たくさんの人が来るんでしょう。私が行った時は他にお客さんは無く、駐車場はガラガラでした。
最初に目に入るのは、これ。建物の北側です。
こぢんまりして、好きなタイプです。この時点で気持ちが上がりました。
向かって右、建物の西側に入口があり、入口側にまわると、こうです。
入ると、受付には女性が三人いました。集まって何やら楽しそうにおしゃべりしていましたが、その内の一人が手続きしてくれました。ここでも入場料を払うときpassを使って割引してもらい、ラミネート加工の案内シートの英語版を借りました。
小修道院の概要を書きます。
名前の「Serrabona」はカタルーニャ語で「良い山」という意味だそう。来歴は10世紀から11世紀に遡り、1069年には文書に記録されています。
1082年に、地元の領主(lord)とコンフランの子爵(Viscount)の支援のもとでアウグスティヌス修道会が確立しました。
グレゴリウス改革(教皇グレゴリウス7世(在位1073年〜1085年)が推進したカトリック教会の改革で、叙任権の世俗権力からの奪還と聖職者の綱紀粛正が二本柱でした)の時代であり、創設者とエルヌ司教(Bishop)との間で対立が生まれました。エルヌ司教は小修道院長(Prior)の任命は自分だけの特権と考えていましたが、資産を提供して財政を支援している創設者たちは納得しなかったからです。
結局、アウグスティヌス修道会が自分たちのリーダーを選ぶという妥協案に達しました。その後、修道会は修道士としての共同生活だけでなく教区教会としての活動も推し進め、それが12世紀前半の拡張工事につながりました。
最初、教会は一身廊のみで建設されましたが、12世紀前半の拡張工事で回廊やドミトリーが造られて美しい彫刻が施されました。ラミネート加工の案内シートにあったフロアプランです
①受付
②回廊(cloister)
③翼廊(transept)
④後陣(apse)と小アプス(apsidiole)
⑤身廊(nave)
⑥側廊(side nave)
⑦扉口(portal)
⑧ギャラリー(gallery)
⑨鐘楼(bell tower)
当初の建設部分が濃い色、12世紀前半の拡張部分が斜線の薄い色で表示されています。
14世紀になると経済危機と人口減少で規律が守られなくなります。1592年にはスペイン内の全てのアウグスティヌス会小修道院(priory)が閉鎖され、その一年後、小修道院はカタルーニャのソルソナ(Solsona)教区の管轄になり、1896年まで続きました。
1819年に身廊の一部が崩壊します。
1834年にフランス考古学者のメリメ(Mérimée)が小修道院を訪れ、その後、最初の「歴史的モニュメント」の一つになりました。修復が促進されて保護され、それは20世紀に入ってからも続いています。
はー。保存されて良かった!
さて、順路に従って進むと、最初に回廊があります。
写真がとらえている範囲は12世紀前半に増築された部分。緑がかった灰色の壁石と柱のピンク大理石が、素晴らしいコントラストになっています。緑がかった灰色の石は地元の片岩で、ピンクはコンフランの大理石だそうです。
回廊は建物の南側に位置していて、回廊の北側(上の写真で言うと左側)の壁にはフレスコ画と墓があります。
この壁は身廊と回廊を隔てている壁で、最初期(11世紀)のもの。片岩の粗石を素朴に積んであることがわかります。回廊と同じ地元の石ですが、技術の違いなのか、12世紀に造られた壁は石が大きめに切り出してあって、洗練された仕上がりです。
回廊に、階段があります。
昇っちゃいました。
テラスみたいになっていました。南側に窓があって向こうが見えそう。
窓からのぞくと、小修道院の南側にはオークの森が広がっていました。この森はカニグー山の麓です。
回廊の柱頭彫刻の詳細は、次回。
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