フォルノヴォ・ディ・ターロ(Fornovo di Taro)<2>

Fornovo di Taro、続きです。

唯一、もともとのファサード(façade)が見られるのは扉口(Portal)です。

二つの柱頭(capital)と、アーチにある二つの像は、古来の扉口です。扉口の横の巡礼者の彫像は、聖ペトロの持物である鍵をベルトに提げて、フランチジェーナ街道(Via Francigenaに沿って歩く巡礼者にローマへの巡礼路を示しています。

(現地で得た説明は、私が抜粋翻訳して太文字で書きます)。

気づくと巡礼者の彫像の上に鳩が一羽いました (⌒-⌒)

南側には、とても魅力的な小さい扉があります。

フランチジェーナ街道とは?について補足します。ヨーロッパ評議会から公式認定されている協会があり、そのHPに詳細な案内があります。それによると、

http://www.viefrancigene.org/en/

フランチジェーナ街道の来歴は7世紀頃、ロンゴバルド王国がイタリアの領土をめぐってビザンチン帝国と対立していた時代に遡ります。首都パヴィア(Pavia)から南部への安全な街道が戦略的に必要だったため、ビザンチンからより遠いマイナーな所をぬうようにしつつも、ルッカ(Lucca)、シエナ(Siena)といった主要な街を経由してローマへと至る経路ができました。当時はモンテ・バルドーネ街道(Via di Monte Bardone)と呼ばれていました。街道がフランチジェーナと呼ばれるようになったのは、フランク王国がロンゴバルド王国の領土の支配権を得てからの事です。当時、街道沿いの交通量が増加して商人、軍隊、巡礼者が行き来し、街道は南北ヨーロッパをつなぐ主要な接続軸となりました。巡礼は、最初の千年紀の終わり頃からさらに重要性を増しました。巡礼者はキリスト教の聖地であるエルサレム、サンティアゴ・デ・コンポステーラ、ローマを目指して行き交い、フランチジェーナ街道が中世ヨーロッパの文化統一の実現に決定的な役割を果たしたのです。そして巡礼者の旅の記録は大切な情報源になりました。特に、990年に、時のローマ法王ヨハネ15世からカンタベリの大司教(Archbishop of Canterbury)に任命され、カンタベリからローマに巡礼したシーゲリック(Sigeric)が残した旅の記録は、今でも最も権威ある情報源と認められています。このため、街道を文献学的に定義するとき、私達はよく「シーゲリックの旅程によるフランチジェーナ街道」と呼びます。

とのことです。

このFornovo di Taro の Pieve di Santa Maria Assunta も当時、巡礼者が増えたために休める場所を造って提供したって聞きました。東西南北に行き来する巡礼者がてくてく歩いて、やっとこの場所にたどりついて、彫刻を眺めていたんですかね。

次回は、少しだけシーゲリックの経路からは逸れますが、約20km北東にあるヴィコフェルティレ(Vicofertile)を訪問します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です