ボルドー(Bordeaux)<1>

2024年春🌸の旅行の始まりです。私は羽田空港🇯🇵を出発したあとパリ🇫🇷で一泊し、4月25日(木)13:00頃に Bordeaux に着きました。

最初の目的地は Bordeaux、聖セヴェリヌス教会(Basilique Saint-Seurin)です。

ここは、玄関間の彫刻が素晴らしいです。地下聖堂も必見です。

2024年、教会は火曜から日曜の8:30〜19:30に開いていました。

Bordeaux では、2か所に行きました。以下のように2回に分けて書きます。
<1> Basilique Saint-Seurin(4月25日に行きました)
<2> Église Sainte-Croix(4月26日に行きました)

目次

1. Bordeaux へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 内観(玄関間) .
5. 内観(地下聖堂) .

1. Bordeaux へ

今回のフライトもANAでパリ発の東京往復便(往は2023年9月パリ➡️東京、復は2024年4月東京➡️パリ)にしました。

夫は仕事の都合で私より2日遅れで渡仏します。夫が4月27日にボルドー(Bordeaux)に来るまでの2日間、私は1人でロマネスク巡りをします。

ボルドー(Bordeaux)は、フランスの南西部の中心都市。ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏の首府であり、ジロンド県の県庁所在地です。

私は空港で借りたレンタカーを駐車場に停め、Basilique Saint-Seurin へと歩きました。

北西側外観

ボルドー(Bordeaux)は大きな町ですが、ここは隣に広場があって落ち着いた雰囲気です。

2. 概要

教会の中にリーフレットがありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

なぜバシリカなのか?
キリスト教にとって重要な聖遺物がある、あるいは、巡礼の目的地であるなどの理由で、ローマ教皇が特定のカトリック教会に与える名誉称号である。この教会は1873年に「バシリカ」となった。

歴史
5世紀、聖ステファノに捧げられた教会がこの近くにあった。周囲にはガロ・ローマ時代の墓地があった。この墓地には、キリスト教共同体の2人の司教、セヴェリヌス(仏:Seurin)とアマンドゥス(仏:Amand)が埋葬されていた。彼らの墓は、やがて人々の崇敬の対象となった。6世紀には、地下墓地の跡地に葬儀用礼拝堂が建てられた。聖人たちの遺体のそばで眠ることは名誉なことであった。聖セヴェリヌス(仏:Saint-Seurin)への巡礼が発展した。11世紀以降、より大きな教会が建てられた。

革命までの参事会教会
サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう多くの巡礼者は、必ずこの教会に立ち寄った。律修司祭の参事会(collège)が設立され、律修司祭ら(chanoines)が1日7回、決められた時間に時の典礼を祝った。建設はこの時代を通して続けられた。
12世紀と13世紀:現在の主な建物の建築。
13世紀:南扉口。ヴォールト。
14世紀:Notre-Dame de Bonne-Nouvelle礼拝室。
15世紀:Notre-Dame de la Rose礼拝室。
16世紀: サン・テティエンヌ礼拝堂。南ポーチ。鐘楼に加えられた斜めの塔。
17世紀:地下聖堂の増築。
1698年:ヴォールトの大部分が崩壊。1700年にバシリカの一部が3メートル埋められる。
18世紀:トリビューンと大オルガン。

この後も、リーフレットを引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

リーフレットによる平面図です。東が上です。

リーフレットより

A: 西ポーチ
B: 5世紀、11世紀、12世紀の柱頭を持つ玄関間。
J: 聖セヴェリヌス(仏:Saint-Seurin)の石棺
O: 地下聖堂(5世紀の石棺)

4. 内観(玄関間)

「A: 西ポーチ」から入ると、そこは「B: 5世紀、11世紀、12世紀の柱頭を持つ玄関間」です。

西ポーチの向こうに見える玄関間

わお。

玄関間

美しい彫刻がいっぱいです。

玄関間南側の柱頭

こちらはアブラハム?

玄関間北側の柱頭

「アブラハムによる息子イサクの犠牲」(『創世記』22章)の場面だと思います。

玄関間北側の柱頭

神は敬虔なアブラハムを試すため、彼に愛する独り子イサクを献げ物としてささげるよう命じます。(神って、ときどき、ひどいことする。)

『創世記』22章
9: 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
10: そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11: そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
12: 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

御使いが雄羊をたずさえています。イサクの代わりに焼き尽くす献げ物です。

隣の柱頭も、素敵です。

玄関間北側の柱頭

南側は、アバクス(柱頭の上に置かれてアーチを支える部分)に連なる帯装飾までびっしりと彫刻が施されています。

玄関間にて南東を向く

みんな違って、みんな良い。

玄関間北側の柱頭

別の角度から。

玄関間にて北西を向く

私は夢中でみつめたり、写真を撮影したりしました。

5. 内観(地下聖堂)

教会の中をみます。

祭壇の下にあるのが「J: 聖セヴェリヌス(仏:Saint-Seurin)の石棺」だと思います。

身廊にて東を向く

「O: 地下聖堂(5世紀の石棺)」に行きます。北側廊からおりられます。

地下聖堂にて南東を向く

地下聖堂に案内掲示がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

考古学者によれば、その基礎は4世紀/5世紀までさかのぼるという。

地下聖堂中央の床下にあるのは石棺(A)である。おそらく初代司教の墓があったと推定される場所の近くに埋葬されたキリスト教徒の墓であり、地下聖堂の床は石棺の上に直接つくられている。

その後、7世紀/8世紀に地下聖堂は改築された。13世紀に再び改修された。この時代の釉薬瓦(B)がある。

聖セヴェリヌス(仏:Seurin)は5世紀の司教で、ボルドーの司教聖アマンドゥス(仏:Amand)が当時ローマ帝国の属州であったアキテーヌをキリスト教化するのを助けるためにケルンからやってきた。

案内掲示に平面図がありました。

地下聖堂にあった案内掲示より

A: ネクロポリスから出土した石棺(4~5世紀)
B: 釉薬瓦(13世紀)
C: 2019年制作の聖アマンドゥス(Amand)の聖遺物箱
D: カロリング朝時代の装飾(7~8世紀)、葬祭用囲いの破片

D

1、2、3と11: 5世紀のピレネー産大理石の石棺で、複数の司教の遺骨が納められている。

11

4: 5世紀のピレネー産大理石の石棺。
5: 聖ヴェロニカ(sainte Véronique)の石棺と推定される。この聖人はキリストの顔を拭き、聖母マリアの聖遺物をアキテーヌに持ち帰ったと言われている。彼女が亡くなると、遺体はSoulacの教会に埋葬された。ノルマン人の侵攻の際、この教会の修道士たちにその聖遺物を隠すように頼んだと言われている。石棺の前には、キリスト教の祭壇となった3世紀の祭壇があり、西ゴート時代の柱頭は中世に聖水盤に姿を変えた。

5

6: 16世紀に建てられた聖フォート(Saint Fort)の慰霊碑。
7と8: 4世紀と8世紀の石棺。
9: 聖ベネディクタ(sainte Bénédicte)の石棺と推定される。その歴史は、聖マルティアル(saint Martial)と彼の癒しの杖に関連している。伝説によると、ボルドー総督であった夫がこの杖のおかげで健康を取り戻した。この奇跡に魅了されたベネディクタは、聖マルティアルから洗礼を受け、ボルドーのキリスト教化に貢献した。

この教会が崇敬され、数多くの信者や巡礼者たちをひきつけ続けた理由が、この地下聖堂にあるように思います。

聖セヴェリヌス教会(Basilique Saint-Seurin)。玄関間の彫刻が素晴らしいです。地下聖堂も必見です。

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