2023年9月9日(土)の最後、三番目に訪れたのは Casale Monferrato。サンテヴァージオ大聖堂(Cattedrale di Sant’Evasio)です。
ここは、床モザイクが素晴らしいです。いわくつきの十字架もあります。
2023年、大聖堂の一部は下に示した時間に開いていました。
<平日>夏期8:00〜12:00と15:00〜19:00、冬期8:00〜12:00と14:30〜18:30
<祝日>夏期9:00〜13:00と16:00〜20:00、冬期9:00〜13:00と15:00〜19:00
※ただし、床モザイクなどが展示されている博物館については、予約が必要で、3月〜7月と9月〜12月の土日15:00〜18:00に開いていました。
目次
1. Casale Monferrato へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 内観(十字架) .
5. 博物館(床モザイク) .
1. Casale Monferrato へ
カザーレ・モンフェッラート(Casale Monferrato)は、ピエモンテ州にあり、ポー(Po)川の右岸、アレッサンドリアの北西約29kmに位置します。
周りじゅう、建物がいっぱいです。
2. 概要
大聖堂の中に案内掲示がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
この教会の創建は、ロンゴバルド王リウトプランド(744年没)の時代にまで遡ることができるとされている。リウトプランドは、3世紀末頃にエヴァージオが殉教し、埋葬された場所であるサン・ロレンツォ教会の上に、聖人を讃える大きなバシリカを建てることを望んだ。
1107年、カサーレを通過した教皇パスカリス2世が、当時まだ建設中であったこの建物を奉献したと言われている。資料の中で言及されている歴史的エピソードから、教会の最も古い部分は11世紀末から12世紀にかけてのもので、1215年にカサーレが破壊された後、大幅に改築・拡張されたと考えられる。
1474年、カサーレ教区の設立に伴い、教会は大聖堂に昇格した。教会は、ロマネスク様式の壁構造を残しながらも、特にバロック時代に行われた改築や増築の影響を受けた。1764年、当初の建築に守護聖人に捧げられた礼拝堂が加えられた。
1857年から1860年にかけて建築家エドアルド・アルボリオ・メッラ(Edoardo Arborio Mella)によって大聖堂が修復された。この修復の際、12世紀半ばに遡るロマネスク様式の床モザイクの断片が発見され、現在では後陣の周歩廊(聖具室への廊下)の壁に貼られている。
この後も、案内掲示を引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
大聖堂の中にあったリーフレットに平面図がありました。東が上です。
桃色:冒頭で示した時間に開く部分
黄色:準備中
青色:予約により訪問可能な聖具室(博物館)
12世紀半ばの床モザイクは、「29」と示されている周歩廊のうち、南側部分に展示されています。
4. 内観(十字架)
ファサードから中に入ります。
ファサードを入ってすぐの空間は、広々とした玄関間になっています。
身廊に行きます。
現代的で豪華です。
Zodiaque によると「聖堂はもともと膨大な数の彫刻を誇っていたが、そのほとんどは残念ながら教会内部と玄関間の両方で消失してしまったか、ほぼ判読できなくなってしまった。最も深刻な損失は、間違いなく、メッラ(Mella)による修復の際に完全に置き換えられてしまった、身廊の柱頭である。」
オリジナルの彫刻も、ごく一部に残っていますが、割愛します。
内陣に行きます。
内陣には、12世紀の石棺から作られた祭壇や、古代のファサードの装飾を再利用して作られた説教壇も改修されている。
Zodiaque によると「内陣はもともと高い位置にあり、その下には地下聖堂があったが、メッラ(Mella)による修復中に埋められ、非難された。」
地下聖堂があったんですねえ。
十字架をみます。
12世紀、銀と銅の箔で覆われた木製彫刻
この十字架は、この地域の中世美術の最も重要な作品のひとつであり、クリストゥス・トライアンファンス、すなわち死に勝利したキリストを表現した数少ない例のひとつである。伝承によると、この作品はアレッサンドリア大聖堂のために制作されたもので、1215年にアレッサンドリア人によって盗まれたサンテヴァージオ(Sant’Evasio)の遺骸を取り戻すために、1403年にアレッサンドリアに入った指揮官、ファチーノ・カーネ(Facino Cane)によって盗まれた。
いわくつき、ですな。
5. 博物館(床モザイク)
床モザイクをみます。内陣の右(南)にある、周歩廊の壁に掲示してあります。
案内掲示によると、ポー渓谷のモザイク画家による12世紀半ばの作品で、白、黒、多色テッセラが使用されています。1859-1861年、大聖堂の内陣の床から建築家エドアルド・アルボリオ・メッラ(Edoardo Arborio Mella)によって周歩廊に移されました。
博物館の方によると、修復の際に発見されたモザイクのパネルは15枚で、そのうち保存状態の良い10枚が移されました。失われた床モザイクには「ラザロの復活」を描いたものなどが含まれ、メッラ(Mella)によるスケッチが残っています。
貴重な10枚のパネルです。
案内掲示によると、こちらの「決闘」のパネルはメッラ(Mella)によって周歩廊のリウトプランド通り(via Liutoprando)に面した扉口の前の壁に移されました。2003年の修復の際に現在の南側の位置に移されています。
メッラ(Mella)が特別な扱いをしたパネル。
こちらは、勇壮な騎士たちが長い槍を持っています。
旧約聖書『創世記』14章の場面だと思います。
8: そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アドマの王、ツェボイムの王、ベラすなわちツォアルの王は兵を繰り出し、シディムの谷で彼らと戦おうと陣を敷いた。
9: エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアル、シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨクの四人の王に対して、これら五人の王が戦いを挑んだのである。
10: シディムの谷には至るところに天然アスファルトの穴があった。ソドムとゴモラの王は逃げるとき、その穴に落ちた。残りの王は山へ逃れた。
11: ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、
12: ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。
13: 逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。アブラムは当時、アモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいた。
14: アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。
15: 夜、彼と僕たちは分かれて敵を襲い、ダマスコの北のホバまで追跡した。
16: アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻した。
信仰心あついアブラムが勝利しました。
ちなみに、アブラムは、のちに神から言われてアブラハムと名乗るようになります(『創世記』17章)。
こちらは、怖い場面です。
旧約聖書続編『マカバイ記一』7章の場面だと思います。
マカバイと呼ばれるユダが「あなたの聖所をあしざまにののしったニカノルをその悪行に従って裁いてください。」と祈ったところ、敵将であるニカノル自身がこの戦闘で真っ先に倒れました。
47: ユダの軍は、戦利品や分捕り品を集め、ニカノルの首と、かつて不遜な態度で差し出した右手を切り落として運び、エルサレムのそばでさらし物にした。
48: 節民は非常に喜び、この日を大いなる喜びの日として祝った
49: そして、毎年アダルの月の十三日を記念日としたのである。
50: しばらくの間ではあったが、ユダの地には平和が訪れた。
かなり旧約聖書続編に忠実に描かれていることがわかります。
サンテヴァージオ大聖堂(Cattedrale di Sant’Evasio)。床モザイクが素晴らしいです。いわくつきの十字架もあります。
・
・
・