2023年8月27日(日)の最後、四番目に訪れたのは Barzanò。サン・サルヴァトーレ教会(Chiesa di San Salvatore)です。
ここは、とても奇妙な教会です。洗礼を行う権限を持つ教会(Pieve)じゃないのに巨大な洗礼盤が身廊の真ん中にあります。そして、ドームの天井には、祈る方向とは逆の向きにキリストが描かれ、普通なら四福音書記者の象徴が描かれるような場所に鷲が4羽描かれています。
私は事前に役場(comune)に連絡して訪問を予約しました。有料(€10)でした。
目次
1. Barzanò へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観 .
5. 内観 .
1. Barzanò へ
バルザノ(Barzanò)は、ミラノから北東に約32km、レッコ(Lecco)から南西に約15kmの位置にある町です。
教会の前では、役場(comune)から連絡を受けたひとりの紳士が、教会の鍵を開けて私を待っていました。
その紳士は終始笑顔で、詳しく説明をしてくれました。その上、私に一冊の大きな本をくれました。
パオラ・バッサーニ監修による『バルザノのカノニカ・ディ・サン・サルヴァトーレ』(a cura di Paola Bassani, La Canonica di San Salvatore a Barzanò, Missaglia (LC) 2013)です。
この本は、豊富な図版と大学における美術史研究の最も高度な成果を包含し、また、10年以上にわたって実施された保存修復プロジェクト、考古学的発掘調査、建築現場調査のデータに基づいて、この建物の変遷に関する最新の解釈を提示しています。
あんまりにも立派な本なので、私は「何ページか写真を撮らせてもらえるだけで十分です」と言って断りましたが、紳士は私に本を下さるとのこと。私は、とまどいましたが、ご好意をありがたく受けることにしました。
私は帰国してからこの本を読みました。この紳士の蔵書だったのだろうと思います。二、三箇所に鉛筆でチェックマークがあります。なるほど、なるほど、とうなずきながらこの本を読む優しい紳士の様子を想像して、私はあたたかい気持ちになりました。
私は、貴重な本に感謝しながら、このページを書いています。
2. 概要
教会の外に案内掲示がありましたが、本(P. Bassani, La Canonica di San Salvatore a Barzanò, Missaglia (LC) 2013)がもっと参考になります。私が和訳して太字で要約します。
中世初期に起源を持つ教会です。最近の考古学的調査で、5~6世紀の大きな石棺など数多くの発見がありました。バルザノ(Barzanò)領を所有する重要な一族の存在と、特権的な位置にある墓の発見によって、葬儀を目的とした私的な礼拝堂として建設されたと考えることができます。
それまで、聖人にのみ許された特権であった教会内への埋葬は、まず君主の間に広まり、7世紀から8世紀にかけては、ロンゴバルド王アストルフォから Barzanò 領を受け取ったトレヴィッラ(Torrevilla)伯爵やロトフォール(Rotofort)伯爵のような貴族の間にも広まりました。ここ Barzanò の丘の急斜面に建てられた小礼拝堂(oratorio)には、地下に聖遺物を納めた祭壇、その上に内陣、そして墓を納めた小さな部屋がありました。
1015年、Barzanò 領はコモ司教の所有となりました。でも、司教が個人的に支配していたのではなく、ミラノの貴族一族にそのすべての権利が継承あるいは簒奪されていた、そして、パタリア派で指導的役割を担っていた司祭リプランド(Liprando、1064-1113年)にサン・サルヴァトーレが寄贈された、という仮説を立てることができます。
パタリア派は、11世紀半ばにミラノで生まれました。その頃、聖職者の多くが結婚したり、シモニー(聖職売買、つまり収賄)の罪を犯したりしていたのです。そうした中、パタリア派は、清貧と貞潔という福音主義の理想を再確認しようと決意。彼らは、世俗の司祭でありつつも修道的共同生活を営む律修司祭(canonici)による共同体(canonica)を設立し、説教、秘跡の管理など特定の任務を遂行しました。
11世紀末に、パタリア派を支援していたポルタ・オリエンターレ(Porta Orientale)家によって司祭 Liprando に寄贈され、canonica が設立された可能性があります。そして、canonica の必要性を満たすよう、私的な oratorio だった建物を増改築(第一柱間の増築、中央広間へのビザンチン様式のドームの挿入、地下聖堂の開口、内陣の西側への拡張など)したと思われます。
パタリア派は「神聖な真理とキリストの霊によって啓発された司祭は、み言葉を広め、諸国民に宣教し、イエスの示唆した生き方を模範として生きる使命がある」と考えていました。
この教会がパタリア派の共同体に遡るという仮説は、教区教会(pieve)ではない教会に洗礼盤があること、そして救世主キリストの姿を中心とした絵画的サイクルが作られていることによって、さらに裏付けられるように思われます。
この後も、本(P. Bassani, La Canonica di San Salvatore a Barzanò, Missaglia (LC) 2013)の内容を要約して書くときは太字で書きます。
3. 平面図
現地には平面図が見当たりませんでした。本(P. Bassani, La Canonica di San Salvatore a Barzanò, Missaglia (LC) 2013)による平面図と断面図です。
平面図
緑色:8〜9世紀、鐘楼:9〜10世紀、赤色:1015年〜11世紀末、桃色:11世紀末〜12世紀初め、扉口:1231年、聖具室:16世紀半ば
断面図
4. 外観
丘の急斜面に建てられています。
西扉口は、いくつかの要素を再利用して、1231年につくられました。
これ、羊ですか?
私には、優しい目をした羊が笑っているように見えてしょうがない。
5. 内観
教会の中に入ります。
右(南)にある階段を降りると地下聖堂です。地下聖堂は大きな柱が印象的です。ロマネスク期の要素は見当たりません。
地上に戻ります。
洗礼盤
洗礼盤をみます。
ヴェローナの赤大理石の8枚の板でできています。初期キリスト教時代のように地面に沈んでいるのではなく、床面に設置されています。周囲には八角形の花崗岩の縁取りがあって、各縁に一つずつ、八つのくぼみがあります。このくぼみには、天蓋を支えるための小柱が差し込まれていたに違いありません。
天蓋つきだったんですねえ。
洗礼堂として建築されたのではない建物に洗礼盤があるのは、珍しいことです。また、この教会はピエヴェ(Pieve)でなかったにもかかわらず、洗礼儀式が執り行われていたのです。
中世においては、洗礼儀式は今日のようにすべての小教区で行われていたわけではなく、原則的に、ピエヴェ(Pieve)、すなわち教区の長である一つの教会の特権でした。しかし、原則には例外があります。
洗礼盤は、11世紀から12世紀のもので、リプランド(Liprando)または、司教が設置した可能性があります。サン・サルヴァトーレ教会に自由に出入りできた唯一の司教は、ポルタ・オリエンターレ家の一員で、パタリアの支援者であったアルノルフォ3世(Arnolfo III)大司教でした。かつての王宮礼拝堂であり洗礼盤を持つこの教会は、その所有者に多額の収入をもたらしました。
フレスコ画をみます。11世紀から12世紀のものと考えられています。
教会に入って、そのまま西扉口を背にして見上げると、逆さまのイエスに対面します。
逆さまのイエスの周りには十二使徒。その周りの四つのペンデンティブには、四福音書記者の象徴ではなく、4羽の鷲が描かれています。
4羽の鷲については、二つの意図が論じられています。一つは政治的意図、もう一つは宗教的意図です。
<4羽の鷲:政治的意図>
皇帝ハインリヒ2世の関与を示す「皇帝の紋章」という仮説があります。
また、1146年から1211年の間に3人のミラノ大司教を輩出した「ピロヴァーノ(Pirovano)家の紋章」という仮説もあります。この研究者は、4羽の鷲が描かれた年代を12世紀半ばと考えています。
<4羽の鷲:宗教的意図>
「洗礼の秘跡による人間の再生を表す」という仮説があります。
フィシオログスは「鷲は、年をとり翼が重くなって視界がぼやけ始めると、空高く舞い上がる。そして東の方角に行くと、澄んだ清らかな水が湧き出る泉があり、その泉に3回飛び込むと、たちまち元気が出てくる。」と語ります。
泉に3回飛び込むと若返るというのは、洗礼の秘跡を暗示するもので、油と塩とキリスト教によって清められ、生まれ変わる人間を象徴します。
私は、泉に3回飛び込むとたちまち元気が出てくるというくだりが好きなので、こちらを意図して描かれたのだったら良いなと思います。
逆さまのイエス
逆さまのイエスについては、洗礼を受けた信者が見上げると、まっすぐの向きで見ることができます。キリスト者として生まれ変わり、まず、そしてまっすぐにイエスを見るんです。
イエスは、威厳のある姿です。私は長い髭が好きです。
フレスコ画は、北壁の説教と受難、南壁に描かれたイエスの幼年期、そしてドーム上の使徒たちに囲まれた祝福のキリストの勝利をテーマとしています。
Liprando と Porta Orientale 家が深い絆で結ばれ、パタリア派とも親密であったことを考えると、壁画の神学的メッセージの選択に、アルノルフォ3世(Arnolfo III)大司教が関与している可能性を考えずにはいられない。
アルノルフォ3世(Arnolfo III)と言えば、チヴァーテ(Civate)に滞在していたことでも知られます。本では、Civateを含め、数多くの壁画や写本との比較が論じられます。とても興味深いのですが、割愛します。
カロリング朝絵画とビザンチン・オットー朝美術に深く帰依する親方の作品ではあるが、サルヴァトーレ教会の絵画装飾は、パタリア派の熱狂的な宗教風土を反映し、11世紀後半のミラノの芸術環境によく適合している。
サン・サルヴァトーレ教会(Chiesa di San Salvatore)。とても奇妙な教会です。でも、パタリア派の共同体(canonica)だったという仮説が、その背景を説明してくれます。
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