2023年4月29日(土)の最後、五番目の訪問地は Santillana del Mar。まず、Museo Diocesano Regina Coeli に行きます。
“La escultura del Románico internacional: El Maestro de Piasca” (1)をみることが主な目的です。Piascaの親方の約30点のオリジナル作品が展示されていて、素晴らしいです。そして、掲示してある案内もとても良いです。
有料(€2)です。2023年4月は、火曜から日曜の10:00~13:30と16:00~19:30に開いていました。
Santillana del Mar では2か所を見学しました。以下のように2回に分けて書きます。
<1> Museo Diocesano Regina Coeli
<2> Colegiata de Santa Juliana
目次
Santillana del Mar へ .
カンタブリアのキリスト教改宗 .
リエバナの最初の修道院 .
リエバナのベアトゥス .
ベアトゥスとロマネスク美術 .
12世紀後半のカスティーリャにおけるロマネスク彫刻 .
脚注(1)“La escultura del Románico internacional: El Maestro de Piasca” .
Santillana del Mar へ
私はサン・ビセンテ・デ・ラ・バルケラ(San Vicente de la Barquera)から東に約37km、30分ほど運転して、中世のおもかげを残す町に着きました。16:30頃のことです。
有名なアルタミラ洞窟が2kmほど行ったところにあることも混雑に拍車をかけているのでしょうか。。。
博物館の周りはたくさんの観光客でごった返していて、駐車場はほぼ満車でした。なんとか空きを見つけて車を停め、博物館に向かいます。
受付で入館料を支払い、さっそく、展示へ。
展示してある作品が素晴らしいです。例えば、こちら。
アブラハムの犠牲(旧約聖書の『創世記』22章)の場面だと思います。
躍動的で、大迫力です。
そして、掲示してある案内もとても良いと思いました。
歴史の大きな流れを通して、カンタブリアのロマネスクとピアスカ(Piasca)の親方について知ることができたからです。
案内について、自動翻訳(DeepL)に助けてもらいながら、私が一部を抜粋して太字で和訳します。
なお、色々な場所に掲示してあった案内を、私の判断で、古い時代から順にご紹介します。
カンタブリアのキリスト教改宗
カンタブリア地方にキリスト教が伝来した時代を知るための資料は、ほとんど残されていない。フリオブリガ(Julióbriga)で発見されたガラスの破片は、クリスモン(ギリシャ文字のXとPをキリストの頭文字に重ね合わせたもの)であり、4世紀末と年代を特定できる最初の遺物である。
聖エメテリウス(San Emeterio)や聖セレドニウス(San Celedonio)など、スペインで多くの殉教者を出したローマ軍の兵士たちが、新しい宗教を伝えたのかもしれない。
しかし、聖ミジャン(San Millán)のバルデレディブル(Valderredible)での伝道を確認する文書資料が残るのは、6世紀になってからである。
同じ頃、修道士トリビオ・デ・パレンシア(Toribio de Palencia)がリエバナ(Liébana)に到着した。
レコンキスタとカンタブリアの再定住が始まった8世紀には、洞窟庵を結ぶ現象が南部地域で起こった。スペインのイスラム地域から逃れてきた小さなイスパノ=西ゴートの修道会の共同体と考えられる。
リエバナの最初の修道院
レコンキスタが始まるとすぐに、リエバナ(Liébana)には険しい山々の庇護のもと、スペインのイスラム圏からやってきた修道士たちによって設立された小さな修道院が数多く現れ始めた。小さな教会や共同住居が建てられた。家族経営の修道院もあった。やがてそれらは他の修道院に吸収され、ピアスカ(Piasca)やサント・トリビオ(Santo Toribio)といった大きな修道院が出現し、地域全体を支配するようになった。これらの修道院は、司教の権威の下、あるいは聖イシドロ(San Isidoro)や聖フルクトゥオス(San Fructuoso)の規則の下、メンバー間の協定によって統治されていた。
これらの修道院は、9世紀から10世紀にかけて、アストゥリアス地方のサンティリャーナ(Santillana)やトラスミエーラ(Trasmiera)の東に広がった最初の再定住の種となり、小さな村々を生み出し、その多くは今日まで残っている。
リエバナのベアトゥス
8世紀半ばに生きたSan Martín de Turieno(現在の Santo Toribio)修道院の修道士。776年(第2版は784年)、『ヨハネの黙示録』を説明するために『黙示録の注解』を著した。この著作のために、修道士は東方教父やローマ教父の他の書物も引用しており、レバノンの修道院が偉大な蔵書を持っていたことを示している。
その時代、ベアトゥスは、仲間のエテリウスとともに、異端である「養子説」が引き起こした論争に介入した。キリストは神の(実子ではなく)「養子」にすぎないと主張する異端に対して、カトリックの正統性を擁護したことで、大きな名声を得た。その過程にはカール大帝も関与しており、カール大帝はラティスボンで公会議を招集し、そこで異端派に対する修道士の立場が承認された。この瞬間から、カンタブリアは国際的に知られるようになったと言える。
ベアトゥスは、アストゥリアス王シロ(Silo)の助言者でありアドシンダ(Adosinda)王妃の告解者でもあったことによる歴史的重要性に加え、彼の著書が、彼のテキストとともに、挿絵を含むようになったことで、美術史にその名を残すことになった。
ベアトゥスは、パレンシアのバルカバド(Valcabado)修道院(Saldaña近郊)に埋葬されたようだが、その2世紀後(970年)、修道士オべコ(Oveco)が、ベアトゥスの作品の現存する最古の彩色写本のひとつを制作した。
この「リエバナのベアトゥス(BEATO DE LIÉBANA)」と題する案内は、こちら↓の展示に添えてありました。
博物館の展示には、ベアトゥス写本のファクシミリが置いてありました。色鮮やかできれいです。
ベアトゥスとロマネスク美術
ロマネスク様式は、西ヨーロッパにとって、ゲルマン民族の侵入によって失われた技法と、彫刻と絵画の図像学の回復を意味し、イコン論争を乗り越え、初期キリスト教美術の具象的主題を復活させた。
ベアトゥスは、教会の柱頭を彫刻し、壁画を描く芸術家たちのモデルとなった。象徴的・教義的な内容とその美的表現は、地上の誘惑から逃れるために超越的なしるしを切望していた中世の精神性に非常に適していた。黙示録の挿絵のテーマは、ロマネスク時代(11~12世紀)の宗教性の論拠となり、いくつかのテーマはゴシック時代の到来によっても存続した。善と悪の闘争、審判者キリストの思想、報い、誘惑、罰は、中世のすべての神学の基礎である。
パントクラトール(玉座に座る全能のキリスト)は、テトラモルフ(4人の福音者を象徴的に表したもの)に囲まれて、教会のファサードに、太陽が沈む西の方角を向いて置かれている。それは最後の審判であり、楽器を演奏する24人の長老たちが集まり、時には報われた者たちがいる天国と、レヴィアタンに貪られた呪われた者たちがいる地獄が表現されることで完結する。レヴィアタンに貪られる地獄を表現することもある。
また後陣には、東方で起こる再臨、パルシアの際に雲に乗ったパントクラトールが描かれる。その他にも、天使、怪物、殉教者、鳩、子羊、そして額縁の縁取りやコーニスなど、多くの黙示録的なテーマがロマネスクの図像プログラムを構成していた。
その後、ゴシック時代になると、マリア信仰の高まりとともに、太陽を身にまとい、その足元に月がある女性像、すなわち無原罪の御宿りが登場する。
12世紀後半のカスティーリャにおけるロマネスク彫刻
12世紀後半、カスティーリャでは、それ以前の時代には見られなかった記念碑的彫刻が急増した。(ただし、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの 「巡礼路における国際的なロマネスク」が形成された前世紀(1065-1075年)を除く。すなわち、ハカ(Jaca)、シロス(Silos)、フロミスタ(Frómista)、サン・イシドロ(San Isidoro)、サンティアゴ・デ・コンポステーラの最初の親方たちの時代である。)
我々は、これは動物や幻想的な生き物の図像に反対していたシトー派の芸術と聖ベルナルドの著作の出現によって引き起こされた危機の時代の、ブルゴーニュの影響によるものであると考えている。
1140年、サン・ドニ(パリ)の大修道院長は、ゴシック様式という新しい華やかで光り輝く様式で、フランス王政の新しいパンテオンの建設を開始した。
同じ年、ヴェズレーのマドレーヌ大聖堂(ブルゴーニュ)が、まだ完全にロマネスク様式でありながら、非常に華麗な装飾が施され、福音のテーマとともに、幻想的で怪物的な象徴が再び用いられている。
シトー派修道院が王の支援を受けて拡大したため、仕事が足りなくなったのか、ブルゴーニュの彫刻家たちがカスティーリャにやってきた。
おそらく最も才能に恵まれていたのは、Fruchelであろう。サン・ビセンテ・デ・アビラ(San Vicente de Ávila)で働き(1160年頃)、カスティーリャ北部にまで広がる工房を作ることに成功した。ピアスカ(Piasca)で活躍(1172年)したコバテリオ(Covaterio)は、おそらくこの工房に所属していたと思われる。
これはロマネスク時代の最後の段階であり、プロトゴシック時代の始まりの基礎を築いた。
図像の面では、古風なロマネスクのテーマ(ハルピュイア、グリフォン、アンフィスバエナ、ケンタウロスなどの空想上の動物、またはライオン、ワシ、コウノトリなどの強い象徴性を持つ実在の動物)が使われ、狩猟の場面、曲芸師、音楽家、エロティシズム、そして何よりもギルドの商売の表現など、他の新しく俗悪で当世的なテーマと混ざり合っている。
パルメットやアカンサスから派生した葉が螺旋を描き、蕾や実をつけた葉が描かれている。
モールディングの幾何学的なテーマは、伝統的な市松模様のモチーフを維持しつつ、ひし形や太陽の光を表す破線(のこぎり歯や狼の歯として知られる)の新しいレパートリーを取り入れている。
ロマネスク美術の主な創作拠点はフランス・ブルゴーニュ地方にあり、そこから南西へ、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を通って広がっていった図がみえてきました。
そう言われてみると、この、振り乱した髪の様子は、ヴェズレーの彫刻を思い出します。
Museo Diocesano Regina Coeli。”La escultura del Románico internacional: El Maestro de Piasca” では、Piascaの親方の約30点のオリジナル作品が展示されていて、素晴らしいです。そして、掲示してある案内もとても良いです。
脚注(1)”La escultura del Románico internacional: El Maestro de Piasca”. ↩️
Diócesis de Santander の記事に、このように書いてあります。自動翻訳(DeepL)に助けてもらいながら、私が一部を抜粋して太字で和訳します。
2017年7月30日
いわゆるピアスカ(Piasca)の親方による「国際的ロマネスク」様式の彫刻が、7月28日(金)からサンティジャーナ・デル・マル(Santillana del Mar)教区博物館で展示される。
このロマネスク様式の展示は、サンタ・マリア・ラ・レアル・デ・ピアスカ(Santa María la Real de Piasca)旧修道院の教会にあった約30点のオリジナル作品で構成されており、6年前に劣化が見られたため解体された。劣化の原因は、1950年代から70年代にかけて行われた修復の際に使用されたセメントによるものであった。
サンティジャーナ・デル・マル(Santillana del Mar)教区博物館のエンリケ・カンプサーノ(Enrique Campuzano)館長は、「素晴らしい芸術性」を持つこの彫刻は「失われてしまう危険性」があり、そのため複製が作られ、教会の後陣に置かれていると説明した。
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