オルモス・デ・オハダ(Olmos de Ojeda)

2024年9月11日(水)、二番目に訪れたのはOlmos de Ojeda、サンタ・エウフェミア・デ・コスエロス教会(Iglesia de Santa Eufemia de Cozuelos)です。

ここは、傑出した彫刻があります。パレンシアのロマネスク様式の移り変わりを見ることができます。

2024年、教会は金曜から日曜の11:30〜14:00に開いていました。有料(€4)でした。(夏の間は、事前に連絡すると月曜から木曜にも訪問できました。)

目次

1. Olmos de Ojeda へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. プレ・ロマネスク建築 .
5. ロマネスク建築の第1段階 .
6. ロマネスク建築の第2段階 .
7. ロマネスク建築の第3段階 .

1. Olmos de Ojeda へ

オルモス・デ・オハダ(Olmos de Ojeda)は、カスティーリャ・イ・レオン州パレンシア県にある村で、県都パレンシアの約80km北にあります。

パレンシアで最も美しいロマネスク様式の建物が密集しているオハダ(Ojeda)地域の中心部です。

教会は現在、宗教施設ではありません。Finca Santa Eufemia という名の結婚式場です。

私有ですが、見学できます。

西側外観

2. 概要

教会の中に案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

10世紀半ばまでに、最初の修道院が建てられました。

この教会は、この地に最初の修道院が設立されて以来、修道院生活の中心であり、建物には、現存しない10世紀のプレ・ロマネスク様式の最初の建物の遺構の一部が含まれている。
この最初の修道院は、10世紀半ばにはすでに設立されており、オヘダ(Ojeda)で最初の、そして最も重要な修道院のひとつであったという文献的証拠がある。
この修道院は、修道院長を長とする男子共同体であり、オヘダ、ボエド、バルダヴィアの谷に不動産を持ち、また、いくつかの教会や修道院がこの修道院に依存していた。
この修道院は、おそらくモサラベの独立した修道院で、王家の領土に建てられ、当初は聖コスマと聖ダミアノに捧げられていたが、後に聖エウフェミアが加わり、最終的には聖エウフェミアが支配的になった。

12世紀初頭に、ロマネスク建築の第1段階で、後陣が建てられました。

1100年、カスティーリャ王アルフォンソ6世が、すべての領地をブルゴス司教に譲渡することを決定した。この頃、この修道院の領地は拡大し、収入も増加していた。そのため、既存の教会よりも大きく、より重要で、より収容力のある新しい教会の建設という大工事を行うことが可能になった。新教会の後陣部分が完成し、そこで祝祭が行えるようになった時点で、ロマネスク以前の教会は取り壊された。新教会のロマネスク建築の第1段階は、12世紀初頭のことであり、現在の主祭室を構成する三つの後陣を建立した。サンティアゴ巡礼路やカンタブリアのロマネスクから建築や彫刻の影響を受け、職人たちがチームを組んで取り組んだ。

12世紀半ばに、ロマネスク建築の第2段階で、後陣の天井と屋根、交差部と翼廊が建てられました。

1136年、修道院は王室から多額の寄付を受け、工事を継続することができた。この第2段階では、後陣のヴォールトが完成し、屋根が葺かれ、交差部と翼廊(その北と南の破風の一部は、ロマネスク以前の教会の石材で閉じられた)の工事が始まった。交差部のドームとそれを支える柱頭は、この頃、アギラール(Aguilar)、モアルベス(Moarves)、プラダノス(Prádanos)でも働いていた工房と様式的に関連している。

12世紀末に、男子修道院から女子修道院に変わりました。

1186年12月4日、カスティーリャ王アルフォンソ8世とブルゴス司教は、この修道院をサン・ペドロ・デ・セルバトス(San Pedro de Cervatos)と交換し、その2日後、この修道院をサンティアゴ騎士団に引き渡した。

サンティアゴ騎士団は、メンバーの誰もが自由に結婚できる唯一の修道会だった。このため、その規則には夫婦間の貞潔の誓いが定められている。この誓いにより、遠征中、待降節と四旬節の期間中そしてメンバーの死去の際に、メンバーの妻や娘を保護・支援することが義務づけられている。そのため、紛争地域から離れ、頻繁に行き来する連絡路に近い後衛に女子修道院を設立する必要があった。1186年にサンティアゴ騎士団の女子修道院として設立されたこの修道院が、その最初である。

一時は男子修道院も存在していたが、12世紀末から、この修道院は女性だけの修道院となり、最大30人の修道女の共同体と、騎士団の妻、娘、未亡人、小さな孤児など、定かでない数の世俗的な修道共同体が常設され、彼らは修道院の壁の中で過ごした。

修道院は、13世紀に最盛期を迎えますが、16世紀に困難に見舞われてトレドに移転します。

時が経つにつれ、修道院は寄付や商取引を通じて所有地を増やし、13世紀半ばの最盛期には、修道院周辺の約800平方キロメートルを直接支配するまでになった。

13世紀半ばにこの修道院で修道士となり、修道院に多額の寄付をした、レオン王アルフォンソ9世の娘ドーニャ・サンチャ・アルフォンソの存在は重要である。彼女の美しい墓は、修道女たちのクワイヤの中央にあり、敬意を表して、現在も教会内、聖堂の北側にある。

16世紀初頭、騎士団の活動の中心がタホ河の南に移り、修道院が大きな困難と経済的衰退に見舞われた時、カスティーリャ女王イサベル1世は、この修道女共同体をトレドに移すよう命じ、トレドのサンタ・フェ修道院(convento de Santa Fé)に移住させた。その後、この修道院は放置されていたが、19世紀初頭、サンティアゴ騎士団は、この修道院を修道会の新しい場所に近いトレドのアルベルキージャ(Alberquilla)の土地と交換した。

これにより、19世紀以降、この修道院の土地建物は私有となっています。

この後は、Románico Digital を引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

Románico Digital による平面図です。東が右です。

Románico Digital より

案内板はロマネスク様式の二つの建築段階について述べていますが、Románico Digital はその後に第3の建築段階があったと述べています。

この教会には、三つの彫刻の段階が見られる。第1の工房は12世紀初頭に後陣の装飾を手がけ、第2の工房は1160年代から1170年代にかけてアギラール修道院(Monasterio de Aguilar)の教会の後陣やモアルベス(Moarves)の扉口に関連する交差部と翼廊を手がけた。最後に、サン・アンドレス・デ・アロヨ(San Andrés de Arroyo)で訓練された第3の工房が、交差部の西側から身廊まで、今は失われた回廊の装飾にも参加しながら、建築工事を完成させた。この最後の段階は、この教会がすでにサンティアゴ騎士団の管理下にあった1200年以降に行われたものである。

建築段階の順に、彫刻や建物をみます。

4. プレ・ロマネスク建築

建物北側の増築部分に、ラピダリウムがあります。

ラピダリウムには、プレ・ロマネスク建築に用いられたとされる彫刻が保管されています。

プレ・ロマネスク様式の彫刻

10世紀から11世紀頃の作品だと思います。

プレ・ロマネスク様式の柱頭
プレ・ロマネスク様式の柱頭

5. ロマネスク建築の第1段階

ロマネスク建築の第1段階(12世紀初頭)では、後陣と内陣が建てられました。

これらの彫刻は、カンタブリア州との関連性を強く感じます。

ロマネスク建築の第1段階:外観

ラピダリウムの北隣にある扉を Finca Santa Eufemia の人に開けてもらうと、後陣を外側から見ることができます。

主後陣には三つの窓があります。

窓の柱頭には、翼を広げた鷲、植物、4頭のライオン、男性の顔と絡まる植物、向かい合うライオンと4人の人物の顔、4頭のライオン、などが彫られていると思います。

東側外観

翼を広げた鷲の図像は、カンタブリア州のそれを思い出します。例えば、プハヨ(Pujayo)、サン・ファン・デ・ライセド(San Juan de Raicedo)、ボルミル(Bolmir)です。

主後陣南窓の柱頭
主後陣北窓の柱頭
ロマネスク建築の第1段階:内観

カンタブリア州の彫刻を思い出すような作品は、教会内部にもあります。

交差部にて東を向く

内陣と後陣の柱頭です。

勝利アーチ北側の柱頭
勝利アーチ南側の柱頭

カンタブリア州のセルバトス(Cervatos)やサンティジャーナ・デル・マル(Santillana del Mar)の柱頭を思い出します。

後陣北側の柱頭
後陣南側の柱頭

6. ロマネスク建築の第2段階

ロマネスク建築の第2段階(1160年代から1170年代にかけて)では、交差部と翼廊が建てられました。

これらの彫刻は、パレンシアやブルゴスといった近隣との関連性を強く感じます。

ロマネスク建築の第2段階:外観
北東側外観

北翼廊の軒下に彫刻された持ち送りが残っています。また、南翼廊の窓の装飾が洗練されています。

北翼廊の持ち送り
南翼廊の窓
ロマネスク建築の第2段階:内観

交差部の柱頭が繊細です。

交差部北西側の柱頭
交差部南西側の柱頭

こちらは、「獅子を裂くサムソン」(『士師記』14章)だと思います。

交差部北西側の柱頭

獅子の頭の先には、棍棒のようなものを持った男性がいます。モアルベス(Moarves)、サンタ・エウフェミア・デ・コスエロス(Santa Eufemia de Cozuelos)、レボジェド・デ・ラ・トレ(Rebolledo de la Torre)、セスラ(Cezura)、バスコンシジョス・デル・トソ(Basconcillos del Tozo)などに見られる図像です。

また、獅子の尾は、右に立つ男性につかまれているようです。バジェスピノソ・デ・アギラル(Vallespinoso de Aguilar)やレボジェド・デ・ラ・トレ(Rebolledo de la Torre)にも、同様の図像がありました。

交差部北西側の柱頭(南面)
交差部北西側の柱頭(北面)

ロマネスク建築の第2段階の彫刻は、ラピダリウムにも残されています。失われた回廊にあった柱頭です。

前世紀初頭に回廊が破壊されたことで、パレンシア地方における後期ロマネスク期の最も豊かな彫刻の証言のひとつが消失した。いくつかの断片は、地所を囲む壁の一部や製粉工場に再利用され、他の断片は建築資材として使われた。

この作品は、侵食から守るために1992年に旧回廊の跡地からラピダリウムに移された。

「イエスの復活」(『マタイによる福音書』28章、『マルコによる福音書』16章、『ルカによる福音書』24章、『ヨハネによる福音書』20章)が彫られていると思います。

失われた回廊にあった柱頭

人物たちの上の多葉アーチはモアルベス(Moarves)、天使の翼はアギラール修道院(Monasterio de Aguilar)の彫刻を思い出します。

7. ロマネスク建築の第3段階

ロマネスク建築の第3段階(1200年以降)では、身廊と回廊が完成しました。

ロマネスク建築の第3段階:内観
身廊にて東を向く
ロマネスク建築の第3段階:外観
南側外観

ロマネスク建築の第3段階(1200年以降)を代表するのは、南扉口です。

教会とかつての回廊をつないでいたに違いない扉口は、この建物の傑出した特徴であり、サン・アンドレス・デ・アロヨ(San Andrés de Arroyo)を手がけたのと同じ彫刻家によって彫られた。

レビージャ・デ・サントゥジャン(Revilla de Santullán)の扉口や、ソリタ・デル・パラモ(Zorita del Páramo)の西扉口を思い出します。

南扉口

柱頭には、植物やハルピュイアたちが彫られています。

南扉口の柱頭
南扉口の柱頭

サンタ・エウフェミア・デ・コスエロス教会(Iglesia de Santa Eufemia de Cozuelos)。傑出した彫刻があります。パレンシアのロマネスク様式の移り変わりを見ることができます。

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