2024年9月6日(金)の最後、六番目に訪れたのはCarrión de los Condes、サン・ソイロ修道院(Monasterio de San Zoilo)です。
ここは、教会の西扉口が素晴らしいです。その他にも、いくつかの彫刻の断片が残っています。
2024年9月、修道院は毎日10:30〜14:00と16:30〜20:00に開いていました。有料(€2.5)でした。
Carrión de los Condes では、3か所に行きました。以下のように3回に分けて書きます。
<1> Iglesia de Santa María del Camino
<2> Iglesia de Santiago
<3> Monasterio de San Zoilo
目次
1. Carrión de los Condes へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 彫刻の断片 .
5. 西扉口 .
6. 内観 .
1. Carrión de los Condes へ
カリオン・デ・ロス・コンデス(Carrión de los Condes)は、カスティーリャ・イ・レオン州パレンシア県にある町で、県都パレンシアの約35km北にあります。
修道院は、カリオン(Carrión)川の西岸にあります。
目当ての教会の西扉口は、建物の中、料金を支払って訪問するエリア内にあります。

教会は、上の写真の向かって左側の建物です。修道院の建物群の中で北東にあります。
教会を訪問するには、上の写真の白い建物から入ります。
Googleマップの航空写真に教会を青い四角、訪問者入口を赤い矢印、西扉口を黄色い丸で示しました。

2. 概要
修道院の外に案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
ベネディクト会の記録によれば、サン・ソイロ修道院(monasterio de San Zoilo)は948年以前にサン・ファン・バウティスタ(San Juan Bautista)という名で設立された。11世紀にゴメス・ディアス伯爵(conde Don Gómez Díaz)とその妻テレサ(Teresa)によって改修され、1070年から75年頃、二人の息子であるフェルナンド(Fernando)がコルドバから聖ソイロ(San Zoilo)の聖遺物を移した。1076年、すでに未亡人となっていたテレサ(Teresa)は、ロマネスク美術とグレゴリオ改革を推進した強力なクリュニー会に修道院を寄贈した。
1835年の教会財産没収令後ベネディクト会修道士たちは修道院を去り、その後1959年までイエズス会が占拠した。現在、内部では以前のロマネスク様式の教会の一部、ゴシック・ルネサンス様式の素晴らしい回廊、バロック様式の増築部分を見学できる。また、文化遺産に指定された非常に興味深いアンダルシア織物や、数人のカリオン伯爵の墓も見学可能だ。建物の一側には、この傑出した記念物の一部を占めるホテル施設があり、こちらも文化遺産に指定されている。
この後は、修道院の中にあった案内を引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
修道院の中にあった案内による平面図です。東が右です。

1120年頃のサン・ソイロ修道院教会、予想復元図
点線が現在の平面図だと思います。
テレサ(Teresa)伯爵夫人は1093年に亡くなり、ほぼ同時期に、クリュニーの修道士たちは、ベニ・ゴメス家から受け継いだ、初期ロマネスク様式の教会を、新しく壮麗なロマネスク様式の建物に建て替えることを決めた。その建物の一部は、今でもその遺構を見ることができる。新たに建設されたロマネスク様式の教会には、クリュニーの典礼と密接に関連する要素、すなわち「ガリラヤ」と呼ばれる西側のポルティコが組み込まれた。そこにはベニ・ゴメス(Beni-Gómez)家の墓が安置され、著名な霊廟となった。
4. 彫刻の断片
教会の外側、西扉口の並びに彫刻の断片が並んでいます。
失われたロマネスク様式の回廊や扉口に属していたものです。

柱頭を三つご紹介します。
11世紀の柱頭
かつて存在したロマネスク様式の回廊に属していた。四面に、2頭のライオンが向かい合う姿が描かれている。元の彩色の痕跡が残っている。

11世紀の柱頭
おそらくは教会への入口であった、二つの柱頭で構成される、かつてのロマネスク様式の扉口に属していたものと思われる。中世の楽器を演奏する2人の音楽家(うち1人は裸体)が表現されている。元の彩色の痕跡が残っている。

11世紀の柱頭
おそらくは教会への入口であった、二つの柱頭で構成される、かつてのロマネスク様式の扉口に属していたものと思われる。植物やアカンサスの葉のモチーフが刻まれている。

5. 西扉口
西扉口をみます。
11世紀から12世紀にかけてのロマネスク様式の建築は、かつては壮麗なものであったに違いない。その痕跡の一部は、16世紀から17世紀にかけて大規模な改修が行われた現在の教会の壁にも見ることができる。現存するわずかな痕跡の中でも特に注目すべきは、かつてのロマネスク様式の教会の西扉口である。この正面玄関は、ローマ時代(2世紀)のイタリア産大理石の柱が中世の職人たちによって再利用されており、1993年に発見された。

非常によく保存された柱頭は、三つの面が彫刻されており、11世紀半ばのものと推定される。
そのテーマは、ロバに乗ったバラムが、神から遣わされた天使によって進路を阻まれる場面が特に注目される。その隣には、ブドウ園の労働者たちを描いた印象的な場面が見られる。
「バラムとロバ」(『民数記』22章)の図像は、🇪🇸ソリア県のベルソサ(Berzosa)、🇫🇷ブルゴーニュ地域圏のソリュ(Saulieu)やオータン(Autun)でも見ました。

反対側の柱頭は、殉教者聖ソイロの遺骨の移送を表している可能性があり、もうひとつの柱頭はグリフォンを表している。

この扉の柱頭は、中世の象徴で用いられたグラフィックメッセージの一例である。善と悪、罪と徳、破滅と救い、そしてイエスによる前者の後者への変容という概念が表現されている。
6. 内観
教会に入ります。
伯爵家の石棺
内部の西側には、石棺が並んでいます。
教会の西側に置かれた石棺のコレクションには、ベニ・ゴメス(Beni Gómez)家の遺骨が収められていた。(ベニ・ゴメス(Beni Gómez)家はカリオンの伯爵および公子であり、『わがシッドの歌』に登場することで人気を博した著名人であり、カンペアドール(ミオ・シッド)の娘たちとの伝説的な結婚で知られている。
石棺は二つのグループに分けることができる。11世紀末から12世紀初頭の刻印がほとんど失われてしまった装飾のない墓と、13世紀半ばの装飾が施されたものである。
修道院の歴史の中で、墓はさまざまな場所に置かれてきた。教会にかつてあったポルティコ、「ガリラヤ」では蓋が地面と同じ高さに埋葬され、18世紀の改修では一種の霊廟のように積み上げられた。

「ガリラヤ」は、クリュニー会にとって、死の克服を記念する場所でした。
994年、オディロン(Odilon、994-1049)がクリュニー大修道院長に就任すると、ローマから、創設時にすでに受けていた世俗の権力からの免除に加えて、さらに重要な特権がほぼ即座に認められた。それは、司教によるあらゆる干渉からの免責であった。この制度上の自治は、クリュニー修道会の強さと長寿の鍵となった。
オディロンは、前任者が建設した修道院教会(クリュニー II)に、西側の構造物を追加したことでも知られている。「ガリラヤ」として知られるこのポルティコは、ナザレのイエスとそれに続く者たちによる死の克服を記念する空間であった。この種の構造物が、その後、ほとんどのクリュニー会修道院に組み込まれるようになった。
伯爵家であるベニ・ゴメス(Beni Gómez)家は、「ガリラヤ」に家族墓を持つことにより、最後の審判が訪れたときに救いが保証されることを願っていたようです。
壁に埋め込まれていた柱頭
石棺のある場所から奥に進むと、そこは床下をあらわにしてあります。
小石の床が美しい。

美しい床の先に、柱頭がひとつ置いてあります。
11世紀末に建てられたロマネスク様式の教会は、1633年に新聖堂の建設が始まるまで使用されていた。後陣と中央身廊は解体され、古い建造物の石材は撤去された。現存するのは外壁と西壁である。
2000年にそれらの壁が清掃され、ロマネスク様式の遺構が明らかになった。最も注目すべき例は、壁に埋め込まれていた柱頭で、三つの面のうち二つに彫刻が施されているのが確認できる。

2頭のライオンの背中に2羽の鳥が乗っており、その尾は3頭目のライオンに噛まれている。鳥たちは、ライオンを押さえつけている男たちの腕をつかんでいる。
この図像は、ロアレ城(castillo de Loarre)で見られるものと直接関連しており、その影響は、ハカ大聖堂(catedral de Jaca)との明らかな関連性を示している。
ロアレ城(castillo de Loarre)とハカ大聖堂(catedral de Jaca)は🇪🇸アラゴン州にあります。
サン・ソイロ修道院(Monasterio de San Zoilo)。西扉口が素晴らしいです。その他にも、いくつかの彫刻の断片が残っています。
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