モンレアーレ(Monreale)

2024年8月21日(水)、最初に訪れたのはMonreale、モンレアーレ大聖堂(Cattedrale di Monreale)です。

ここは、ビザンチン・ノルマン様式あるいはシチリア・ノルマン様式の最高傑作です。外観では後陣と青銅扉、内観ではモザイクと回廊が必見です。

2024年、大聖堂は月曜から土曜の9:00〜12:45と14:00〜17:00、日曜の14:00〜17:00に開いていました。有料(€10)でした。

目次

1. Monreale へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観(青銅扉) .
5. 内観(モザイク) .
6. 内観(回廊) .
7. 外観(後陣) .

1. Monreale へ

モンレアーレ(Monreale)は、シチリア州パレルモ県の町で、州都であり県都であるパレルモの約7km南西にあります。

夫と私はパレルモからバスに乗って行きました。インディベンデンツァ広場(Piazza Indipendenza)から30分〜40分ごとにモンレアーレ(Monreale)行きのバスが出ます。バスの番号は389です。

乗車するバス停をGoogleマップで示します。

インディベンデンツァ広場(Piazza Indipendenza)を囲む道路は一方通行なので、モンレアーレ(Monreale)行きのバスは上の地図に示した場所から発車し、帰りのバスは広場を挟んだ向かい側のバス停に到着します。

バスの乗車券はAMATのTicket PointやTabacchiで買うことができます。バス停最寄りのAMATのTicket Pointが約48メートル北西にあります。

夫と私が乗車券を手に入れてバス停に行くと、ほぼ時刻通りに、389番のバスが来ました。

389番のバス

バスに乗ったら、車内にある打刻機に乗車券を差し込みましょう。

30分ほどバスに揺られると、モンレアーレ(Monreale)に着きます。

バスを降りると、道の反対側に見えるのが、帰りのバスの乗り場です。

赤い丸で示したバス停から、パレルモに帰るバスが出ます。

大聖堂は、バス停(Fontana Del Drago – Palermo)から南西に約450メートルの道のりです。

大聖堂に着きました。

北側外観

北はヴィットリオ・エマヌエレ広場(Piazza Vittorio Emanuele)に面していて、広場の周りは飲食店で賑わっていました。

2. 概要

大聖堂のウェブサイトによる概要です。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

1172年、最後のノルマン王「善良王」ことグリエルモ2世は、カプト山の岬に修道院の複合施設を建設することを決定し、聖ベネディクト会の修道士たちに委ねた。この複合施設全体は、サンタ・マリア・ヌオーヴァという名称で聖母マリアに捧げられた。修道院の最も重要な建物は修道院教会である。これはビザンチン・ノルマン様式、あるいはシチリア・ノルマン様式の素晴らしい例である。

シチリアの職人たちは、すでにモザイクの技術に精通していたため、コンスタンティノープルの職人たちとともに建設作業に従事した。ベネディクト会の修道士たちも貢献し、最初の礎石が置かれてからわずか4年後には修道院で生活していた。

大聖堂のファサードは、オリジナルのポルティコの崩壊を受けて16世紀に建てられたポルティコに代わる、ドーリア・トスカーナ様式のポルティコを囲む二つの堂々とした塔で構成されている。

大聖堂は2度にわたって大規模な改修工事を行っている。1度目は1658年、トレント公会議の規定に従って、身廊と聖域(修道士のクワイヤ)を隔てていた障壁が取り壊された。壮麗な聖書台もこの時に取り壊された。

1811年には、特に交差部と翼廊を荒廃させた火災の後、2度目の介入が行われた。1812年から1850年にかけて行われた修復工事により、バシリカは完全に修復され、今日見られるような姿となった。

南翼廊には、ノルマン朝の君主グリエルモ1世(「悪王」)とグリエルモ2世(「善王」)の墓がある。北翼廊には、「悪王」グリエルモの妻であるマルゲリータ・ディ・ナヴァッラの墓があり、また、若くして亡くなった彼女の息子エンリーコとロベルトの墓もある。

大聖堂では、芸術的にも宗教的にも価値の高い作品を鑑賞することができる。1186年にボナンノ・ピサーノ(Bonanno Pisano)が制作した西扉口は、中世全体を通じて最大の青銅製の扉である。聖母の生涯を描いた銀製の祭壇装飾は、ルイジ・ヴァラディエによるローマ様式の作品である。12世紀のコンスタンティノープル起源の貴重なイコンであるホデゲトリア型の聖母は、最近になって大聖堂の内部に戻された。

北翼廊では、基礎部分と同じ時代に作られた唯一の床を見ることができる。大理石とガラスを混ぜた貴重なモザイクが埋め込まれた分厚い大理石の板が敷かれており、一部のエリアでは金も使われている。このエリアから、1690年にスペイン人大司教ロアーノが建てたバロック様式の礼拝堂にアクセスできる。大理石を組み合わせた芸術の素晴らしい例である。

聖具や祭服は、右側の翼廊から入ることができる教区博物館で鑑賞することができる。

大聖堂のテラスを訪れると、ノルマン時代最後の傑作である修道院全体の壮大な姿が明らかになる。

この後は、(Zodiaque)la nuit des temps『Sicile romane』を引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

大聖堂の中にあった案内図による平面図です。東が上です。

案内図より

A. 出入口
B. サン・カストレンツェ礼拝堂
C. サン・ベネデット礼拝堂
D. 王家の墓
E. 内陣
F. 王家の特別席と司教席
G. 教区博物館
H. 回廊
I. ベネディクト会修道士の宿坊

4. 外観(青銅扉)

西に行きます。

西はグリエルモ2世広場(Piazza Guglielmo II)に面しています。

西側外観

西扉口が素晴らしいです。

ピサ大聖堂の青銅扉を手がけたボナンノ・ピサーノ(Bonanno Pisano)による1185年の作品です。

西扉口

パネルには、見事な浮き彫りがあります。

西扉口上部

浮き彫りは、下から上へと聖書の物語が展開します。

西扉口中部

下部に「アダムとエバ」から始まる旧約聖書の物語が描かれ、上部には「受胎告知」から始まる新約聖書の物語が描かれています。

西扉口下部

青銅扉は、西側だけでなく、北側にもあるようです。

私はうっかりして北扉口の青銅扉を見逃しました。その青銅扉は、トラーニ大聖堂の青銅扉を手がけたバリサーノ・ダ・トラーニ(Barisano da Trani)による12世紀末の作品です。

5. 内観(モザイク)

大聖堂の中に入ります。

交差部から東は修復中でしたが、身廊部分だけでも、金色きらめくモザイクに圧倒されます。

身廊にて東を向く

身廊には創世記が描かれています。

身廊にて西を向く

どの場面もとても素晴らしいのですが、ひとつだけご紹介します。

下の段では、際立って美しいリベカがアブラハムの息子イサクの妻となるためにラクダに乗ってカナンに向かっています。(『創世記』24章)

上の段では、アダムとエバが楽園から追放されています。天使の手と足の動きがなんとも良い。

次の場面では、アダムが土を耕しています。エバは糸を紡ぎながら憂い顔です。エバは、神によってはらみの苦しみを大きなものにされており、苦しんで子を産みます。(『創世記』3章)

私はエバのふてぶてしい感じが好きです。

身廊のモザイク

交差部、翼廊と側廊には福音書の物語、主後陣には黙示録、小後陣であるディアコニコンとプロテシスには、使徒ペトロとパウロの物語が描かれています。

こちらは北小後陣。使徒ペトロが、どどんと描かれています。

北側廊にて東を向く

6. 内観(回廊)

回廊に行きます。

回廊にて南西を向く

(Zodiaque)la nuit des temps『Sicile romane』による回廊の概要です。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

回廊は、11世紀末に教会の南側に建てられたベネディクト派の修道院の遺構であり、現在もそのままの状態で残っている。

教会の建設は1172年に始まったことは確かであるが、回廊はもう少し遅れて1176年頃に着手された可能性が高い。

作業は急速に進められ、おそらく1189年頃に完成したと推定される。この年は、グリエルモ2世が亡くなった年である。柱頭の質が一定していないのは、明らかにこの急ぎすぎが原因であり、おそらく、さまざまな下請け職人が次々と作業を行ったことによるものである。

この回廊は、この種の建築物としては最も完全で、最も豊かであり、また最大規模である。

回廊にて北西を向く

完璧な正方形をしており、208本の円柱が基部の上に載っている。

正方形の各辺には、26の尖頭アーチが支えられている。

回廊にて北西を向く

また、外側のアーチを囲むアーチにも同様に、軽石や溶岩による幾何学模様の象嵌が施されている。

回廊

柱は、時には滑らかで、時には多色の象嵌で装飾され、時にはジグザグ、ヘリンボーン、チェッカーボードのパターンで装飾されている。

回廊

回廊の四隅では、柱は4本ずつまとめられている。

回廊

ひとつの隅では、柱が小さな神殿を形成し、その中央に噴水がある。

南西の隅

正方形の空間は、各辺に三つのアーチが配置され、魅力的な効果を生み出している。噴水には細い柱が立っており、水平方向にジグザグ模様で装飾され、球形を支えている。頂部の球形には音楽家たちと12人のバッカント(バッカス神の巫女)の姿が彫られている。その上部にはライオンの顔と人間の顔が交互に並んで水を放出しており、大きな葉が噴水を囲んでいる。

球形

様式論的な観点から見ると、この回廊にはさまざまな彫刻要素が存在し、それらはそれぞれ、プーリア、カンパーニャ、ロンバルディア、プロヴァンス、ブルゴーニュ、イル・ド・フランスといったロマネスク美術のさまざまな潮流に結びつけることができる。

体系的な装飾プログラムが存在しないため、研究者たちは柱頭を共通の様式の影響や特定の装飾モチーフに基づいてグループ分けしている。

5人の親方を特定することが可能である。そのうち2人はより特化した彫刻家であり、他の2人は彫刻家であると同時に大理石職人でもあり、最後の1人は彼自身がそう述べているように専ら大理石職人であった。

5人の親方のうち、第1から第4の親方の柱頭彫刻をご紹介します。

第1の親方:「献身の親方」

回廊で働いた最高の職人の一人は、サルヴィーニ(Salvini)の研究によると、「献身の親方」として知られる彫刻家で、回廊の柱頭の中でも最も重要なもののひとつで、聖母に教会を献上するグリエルモ王を描いた作品を制作した人物であり、反対側には美徳の寓意表現が描かれている。

「献身の親方」の作品を三つの写真でご紹介します。

「献身の親方」の作品1:聖母に教会を献上するグリエルモ王

聖母の膝の上のイエスは、人差し指と中指を立てて、祝福しています。

「献身の親方」の作品1

「献身の親方」の作品2:美徳の寓意

その1と同じ柱頭の別面です。

「献身の親方」の作品2

三つめの作品は、(Zodiaque)la nuit des temps『Sicile romane』には掲載されていません。でも、植物、人物や動物の描き方などから、私は「献身の親方」の作品のように思います。

私が雄鹿の凛々しさに見惚れていると、雄鹿の角の間にキリストの顔がありました。

聖エウスタキウスの物語を描いたものかもしれません。

エウスタキウスは2世紀頃の殉教者で、猟をしていたとき、キリストを幻視したために改宗したと言われています。猟師の守護聖人です。

ロマネスク彫刻の中でエウスタキウス伝説を表現した作品は、多くありません。ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ドルドーニュ県、ペリグー🇫🇷の近くにあるBesseの彫刻を思い出します。

雄鹿、かっこいい。

雄鹿の角の間のキリスト
第2の親方:「使徒の使命の親方」

「献身の親方」は比較的に人物を小さく彫る傾向がある一方、主題から名を取った「使徒の使命の親方」は、豊かな象徴的要素と、顔や衣服の豊かな造形を好むことで容易に区別できる。

「使徒の使命の親方」の作品を七つの写真でご紹介します。

「使徒の使命の親方」の作品1

「原罪」(『創世記』3章)

「使徒の使命の親方」の作品1

「使徒の使命の親方」の作品2

アダムとエバが楽園から追放されています。天使は歩みを進めつつ右手をアダムの肩に置き、アダムとエバを追い出しています。

次の場面では、アダムが土を耕しています。エバは手を頬にあてて憂い顔です。エバは、神によってはらみの苦しみを大きなものにされており、苦しんで子を産みます。(『創世記』3章)

私はエバのふてぶてしい感じが好きです。

「使徒の使命の親方」の作品2

「使徒の使命の親方」の作品3

「兄弟たちによって売られるヨセフ」(『創世記』37章28節)

「使徒の使命の親方」の作品3

「使徒の使命の親方」の作品4

「受胎告知」(『原ヤコブ福音書』11章、『ルカによる福音書』1章)。糸を紡ぐマリアの描写は、2世紀頃に成立した新約聖書外典『原ヤコブ福音書』に由来します。後世に正典とされなかったために「外典」となりましたが、中世の時代までは広く親しまれていたようです。

「ご訪問」(『ルカによる福音書』1章)。

「ご訪問」の隣に描かれているのは、天使とヨセフだと思います。(『マタイによる福音書』1章と2章)

「使徒の使命の親方」の作品4

「使徒の使命の親方」の作品5

「ご生誕」(『マタイによる福音書』1章、『ルカによる福音書』2章、『原ヤコブ福音書』19章と『偽マタイ福音書』13章)。外典によると、産婆がイエスの生誕に立ち会います。

「羊飼いへの告知」(『ルカによる福音書』2章)。

「使徒の使命の親方」の作品5

「使徒の使命の親方」の作品6

「東方三博士の礼拝」(『マタイによる福音書』2章)。

「使徒の使命の親方」の作品6

「使徒の使命の親方」の作品7

「イエスの復活」(『マタイによる福音書』28章、『マルコによる福音書』16章、『ルカによる福音書』24章、『ヨハネによる福音書』20章)

「使徒の使命の親方」の作品7
第3の親方:「プッティの親方」

「献身の親方」や「使徒の使命の親方」とは明らかに異なり、卓越した才能を示している彫刻家は、「プッティの親方」と呼ばれている。これは、曲芸する子供の姿やアトラスの青年の姿を頻繁に描いていることに由来する。この親方は、かなりの数の作品が特定されており、おそらく多数の柱頭を制作したと思われる。

「プッティの親方」の作品を四つの写真でご紹介します。

「プッティの親方」の作品1

「プッティの親方」の作品1

「プッティの親方」の作品2

「プッティの親方」の作品2

「プッティの親方」の作品3

「プッティの親方」の作品3

「プッティの親方」の作品4

「プッティの親方」の作品4
第4の親方:「ワシの親方」

「ワシの親方」と呼ばれる彫刻家は、一貫した様式上の特徴を持つ鳥類のモチーフを好んで柱頭に取り入れた。

「ワシの親方」
第5の親方:Filius Costantinus Marmorarius

最後に、純粋に装飾的なモチーフで装飾され、動物や人物の要素を一切含まない柱頭に、Filius Costantinus Marmorarius と刻まれている。この親方は、おそらくは虚栄心から、特に優れた作品ではないにもかかわらず、自分の名を柱頭に刻みたいと思ったのであろう。

Filius Costantinus Marmorarius は、大理石職人コスタンティヌスの子という意味だと思います。

7. 外観(後陣)

外に出て、後陣をみます。

北東側外観

溶岩の象嵌による装飾システムは、イスラム様式の装飾モチーフが用いられています。

東側外観

大聖堂の外の案内板に、こう書いてありました。

この記念碑的な複合施設は、ユネスコの世界遺産「パレルモのアラブ=ノルマン様式の建造物群及びチェファルとモンレアーレの大聖堂」の一部であり、ノルマン人がシチリア島を支配していた時代(1130年~1194年)に建てられた九つの宗教的・市民的建造物群のひとつである。それらは、西洋、ビザンチン、イスラム文化の融合の優れた例である。この交流により、空間、構造、装飾の新しい概念に基づく建築的・芸術的表現が生まれ、地中海地域全体に広がった。

Cattedrale di Monreale。ビザンチン・ノルマン様式あるいはシチリア・ノルマン様式の最高傑作です。外観では後陣と青銅扉、内観ではモザイクと回廊が必見です。

〜おまけ〜

帰りのバス停に向かって歩くとき、ティレニア海とパレルモ(Palermo)の町を一望することができます。

帰りのバス停への道にて

12世紀頃、パレルモ(Palermo)には肥沃な野菜畑や庭園が広がっていました。1148年のルッジェーロ2世の証書には、サン・ジョヴァンニ・デリ・エレーミティ(San Giovanni degli Eremiti)の庭園がオレンジの木やバラの茂みで繁栄していると記述されています。

たわわに実ったオレンジが輝いていたことでしょう。

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