ヴェノーザ(Venosa)

2024年8月13日(火)、二番目に訪れたのはVenosa、聖三位一体修道院(Abbazia della Santissima Trinità)です。

ここは、創設942年の修道院です。ローマ時代以降の各時代のモザイク、絵画や彫刻が残っています。

2024年8月、修道院は毎日8:00〜12:30と16:15〜18:00に開いていました。

目次

1. Venosa へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 10世紀以前に遡る教会 .
5. インコンピウタ(Incompiuta) .
6. 13世紀の改築 .
7. フォレステリア(Foresteria) .

1. Venosa へ

ヴェノーザ(Venosa)は、バジリカータ州ポテンツァ県にある町で、県都であり州都でもあるポテンツァの約37km北にあります。

修道院は、ヴェノーザ(Venosa)の町の北外れにあります。

こちらの写真の、鐘のある建物が修道院です。

南側遠景

修道院の南には、考古学的公園(Parco archeologico)が広がっています。古代ローマ時代と初期キリスト教時代の遺跡があります。

修道院に着きました。

西側外観

2. 概要

教会の中に案内掲示がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

「Chronicon Cavense」によると、修道院は942年にサレルノ公ギスルフォ1世(Gisulfo I principe di Salerno)によって創設された。

複合施設は、10世紀以前に遡る教会、未完成の大きな教会「インコンピウタ(Incompiuta)」、そして、10世紀以前に遡る教会に隣接して建てられた宿泊施設「フォレステリア(Foresteria)」を含む。

この後も、案内掲示を引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

案内掲示による平面図です。東が上です。

案内掲示より

示されている数字で言うと、三つの建物の位置は以下のとおりです。

「10世紀以前に遡る教会」:(1)〜(7)と(9)〜(12)
「インコンピウタ(Incompiuta)」:(8)
「フォレステリア(Foresteria)」:(13)

未完成の大きな教会「インコンピウタ(Incompiuta)」は、三つの放射状祭室を持つ周歩廊が建設される予定だったようです。放射状祭室を持つ周歩廊は、フランスに多くみられ、イタリアには少ないです。数少ない例のいくつかを挙げると、トスカーナ州のサンタンティモ修道院(Abbazia di Sant’Antimo)、カンパニア州のアヴェルサ(Aversa)、バジリカータ州のアチェレンツァ(Acerenza)です。ここヴェノーザ(Venosa)もバジリカータ州ですから、南部に集中しています。ノルマン人による南イタリア支配が影響しているのかなと思います。

4. 10世紀以前に遡る教会

案内掲示の文章にしたがって見学します。まず、北西に行きます。

左側廊への扉口は今でも見ることができる(1)。

括弧内の数字は、3. 平面図 に示される位置です。写真に赤字で示しました。

(1)、(5)と(7):北西側外観

右側廊への扉口は基礎部分(2)しか発見されていないが、主扉口(3)は最近の調査で発見された。主扉口の外側には大きな石畳が敷かれ、内側には床モザイクが敷かれている。

10世紀以前に遡る教会の構造は、7本の円柱で仕切られた三つの身廊を持つバシリカ様式のレイアウトを示している。

10世紀以前に遡る教会にて東を向く

後陣は、その構造の大部分がオリジナルのまま残っている。特徴的なのは、八つの開口部があり、周歩廊(4)に面していることである。身廊と同じ床モザイクがある。周歩廊には二つの扉口があり、そのうちのひとつは右側廊の端に今も残っている。信者はそこを通って、安置されている殉教者の遺物に祈りを捧げることができた。

ところで、10世紀以前に遡る教会の下には、ローマ時代や初期キリスト教時代の床があります。

ローマ時代の遺構

どちらの床も、モザイクが美しいです。

初期キリスト教時代の遺構

話を案内掲示の文章に戻します。

11世紀の改築

942年にギズルフォ1世が修道院を創設したという説には異論もあるが、1043年から1051年にかけてノルマン人のドロゴン伯爵がヴェノーザを支配していたことは事実である。ドロゴン伯爵がこの教会に関心を持っていたことは、1059年の教皇勅書によって証明されており、この勅書には修道院を「新たに」創設するという彼の意思が示されている。この日、教皇ニコラウス2世はヴェノーザを訪れ、この教会を大聖堂から修道院へと変えた。

この段階で、古い教会は身廊を2柱間分延長し、側廊の西隣に二つの鐘楼(5)を建設することで拡張された。その遺構は基礎部分のみ確認できる。床面は60cm持ち上げられ、現在では三身廊すべてにおいて、この高さで大きな床材の遺構を見ることができる。床材は赤、白、黒の四角いタイルで覆われている(6)。

(1)と(6):左側廊にて西を向く

こうした改築の一部として、1070年頃に五つのアーチを持つポルティコが建てられたが、現存するのは三つだけである(しかも、宿泊施設の2階に続く階段によって半分隠れている)。残りの二つは、基礎部分だけが残っている(7)。

1059年にプーリア伯の称号はロベール・ギスカール(ロベルト・イル・グイスカルド・ダルタヴィッラ)の手に渡った。1069年、彼は兄弟のギヨーム、ウンフレード、ドログネをこの教会に埋葬し、一族の「霊廟」とした。

墓をひとつご紹介します。ロベール・ギスカールの妻アベラダ(Aberada)の墓です。

アベラダの墓は、細かく彫刻された柱頭を持つ柱で装飾されています。

ちなみに、ロベール・ギスカールとアベラダとの間に生まれたのが、アンティオキア公ボエモン1世です。狡猾なロベールは、ノルマン人のアベラダよりもロンゴバルド人でサレルノ王女のシケルガイタ(Sichelgaita)との婚姻が自分に有利になると考え、アベラダとの結婚の無効を申し立てました。アベラダにとってもこれは悪い話ではなかったようで、アベラダはその後に2度ほど再婚し、1122年頃に90歳前後の長命で亡くなりました。

アベラダ(Aberada)の墓

5. インコンピウタ(Incompiuta)

11世紀後半に、新しく大きな教会の建設が決定されました。

ロベール・ギスカール(ロベルト・イル・グイスカルド・ダルタヴィッラ)が一族の霊廟を作った時期に、新しい教会(8)の建設が開始された。完成されなかったため、未完を意味する「インコンピウタ(Incompiuta)」と呼ばれることとなった。

10世紀以前に遡る教会の後陣にある八つの開口部から、「インコンピウタ(Incompiuta)」の遺構が少し見えます。

(8):10世紀以前に遡る教会の後陣にて東を向く

未完成の大きな教会「インコンピウタ(Incompiuta)」の聖域は、古い教会の後陣から20メートルほど離れた位置にあり、古い教会の軸線と一直線に並んでいる。

外に出て、インコンピウタ(Incompiuta)の北翼廊に行きました。

彫刻が残っています。

インコンピウタ(Incompiuta)の北翼廊

金属柵のあいだから覗いてみました。

インコンピウタ(Incompiuta)の北翼廊にて南東を向く

大きくて壮麗な教会が計画されていたようです。

1085年には、ギスカール自身も埋葬された(9)。ノルマン人の保護者による繁栄の時代は彼とともに終わったが、大修道院は12世紀を通じて、偉大なベネディクト派の修道院長たちとともに、幸福な時代を過ごした。

6. 13世紀の改築

1236年、教皇グレゴリウス8世は修道院の資産を浪費したとして修道院長を解任した。この修道院長が、この大規模な建築プロジェクトを完全に放棄した。1297年、ローマ教皇ボニファティウス8世の意志により、修道院はベネディクト派修道士から聖ヨハネ騎士団に引き継がれた。

大きい未完成の教会「インコンピウタ(Incompiuta)」の建設工事が放棄された時期と一致するが、構造的に良好な状態ではなかった10世紀以前に遡る教会の修築を行うことが決定された。

三身廊にアーチが建設され、教会は新たな空間構成となった。現在のファサード(10)もこの時期に建設され、宿泊施設「フォレステリア(Foresteria)」の階段が組み込まれた。これは、前の段階で建設されたポルティコの外観を覆い隠すように建てられた。

この段階の修復工事は、パルメリオ(Palmerio)による1287年の年代が刻まれた扉口(11)によって完了したと思われる。

(11)パルメリオによる扉口

ところで、(11)パルメリオによる扉口の近くに聖水盤があります。四つの面にそれぞれ凛々しいライオンが彫られています。

聖水盤

話を案内掲示の文章に戻します。

また、初期中世の伝統に則った地下聖堂が建てられた。この地下聖堂へは、身廊の端にある二つの狭い階段からアクセスできる(12)。

(12):北側廊にて東を向く

地下聖堂には、聖遺物が収められていた祭壇や、13世紀以降のフレスコ画があります。

地下聖堂にて南東を向く

7. フォレステリア(Foresteria)

教会の右側に隣接する宿泊施設「フォレステリア(Foresteria)」(13)は、大きなアーチと丸天井のある下階部分がポルティコ、上階部分は窓になっている。一部の研究者によると、この建物の最も古い部分はロンゴバルド時代に遡る。実際、ロンゴバルド人の「ラウビア(laubia)」(下階部分のポルティコ)や、モンテ・サンタンジェロのロンゴバルド時代に建てられた建物に似ている。この時代には、巡礼者たちの宿泊施設としてこうした建物が使用されていた(「フォレステリア」という名称はここから来ている)。上階には、ギリシャ十字プランとドーム屋根を持つロマネスク様式の礼拝室があり、1584年の年代期に記されたモザイク装飾はもはや存在しないものの、建築構造はほぼ完全にオリジナルのまま保存されている。

上階は閉まっていました。下階はラピダリウムとして使われています。

(13):フォレステリア(Foresteria)にて南西を向く

こちらの右端の柱頭は11世紀から12世紀のものだと思います。

右端の柱頭は、後陣の開口部から(8)インコンピウタ(Incompiuta)をみたときに並んでいた柱頭によく似ています。

(13):フォレステリア(Foresteria)

Abbazia della Santissima Trinità。創設942年の修道院です。ローマ時代以降の各時代のモザイク、絵画や彫刻が残っています。

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