オトラント(Otranto)<1>

2024年8月10日(土)、二番目に訪れたのはOtranto、Cattedrale di Santa Maria Annunziataです。

ここは、床モザイクの大きさと伸びやかさに心を打たれます。地下聖堂は宝石の中の宝石です。

2024年7月と8月、大聖堂は毎日8:00〜13:00と15:00〜21:00に開いていました。なお、地下聖堂は毎日8:00〜12:00と15:00から夕方のミサまで開いていました。

Otranto では、2か所に行きました。以下のように2回に分けて書きます。
<1> Cattedrale di Santa Maria Annunziata
<2> Chiesa di San Pietro

目次

1. Otranto へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 内観(床モザイク) .
5. 内観(地下聖堂) .

1. Otranto へ

オトラント(Otranto)は、プーリア州レッチェ県にある町で、県都レッチェの約22km南東、州都バーリ(Bari)の約108km南東にあります。長靴のようなイタリア半島の踵の先です。

北側外観

大聖堂は、城壁の中にあります。

西側外観

オトラント港(Porto di Otranto)のすぐそばです。

2. 概要

大聖堂の中にQRコードがありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

9世紀にわたる大聖堂の歴史
大聖堂の歴史は、6世紀から11世紀にかけてビザンチン帝国の重要な地方都市であったオトラントが、11世紀にノルマン人が到来したことにより辺境の地となり、「ラテン化」されたという、重要な社会的・文化的変遷の観点から見るべきである。

ビザンチンは東方正教で、ラテンはカトリックです。

ビザンチン帝国から受け継いだものすべて(言語、典礼、精神性、学校その他の制度)は、文明の変遷を告げる大きな変化を遂げ、長い年月をかけて新しい文明が誕生した。このような背景の中で、オトラント大司教が受胎告知の聖母マリアを奉る新しい教会、すなわち大聖堂をこの町に建設することを決定した。

新しい教会は、おそらく礼拝所としても使われていたローマ時代の邸宅があった丘に建てられた。建設は、プーリア・カラブリア公ルッジェーロの財政的支援と、オトラントの人々からの自発的な寄付や奉仕によって可能となった。

建物はわずか8年で完成し、1088年に献堂式が行われた。

大聖堂の建物が完成した後に、床モザイクが制作されました。

それから数年後、ジョナタ司教(vescovo Gionata)は、新たな教会の床を覆うことになる特別な作業、すなわちモザイクの制作を、パンタレオーネ司祭(presbitero Pantaleone)に依頼した。

1480年にオスマン・トルコ軍がシラクサを包囲し、占領した後、モスクに変えられてしまったため、内部の芸術作品だけでなく、外観のファサードも破壊されてしまった。

15世紀の終わり頃、包囲戦中に破壊された外壁を再建し、16の非常に装飾的なパネルを持つルネサンス様式の薔薇窓が付け加えられた。1673年、松かさの形をした先端を持つ柱を備えた、非常に装飾的なバロック様式の扉口が大聖堂のファサードに設置された。

1088年の竣工から17世紀末までは、イコノスタシスがありました。

17世紀末には、身廊が大幅に改築されてスタッコやフレスコ画で装飾され、側廊の半円形後陣が取り壊されてオトラントの殉教者と聖体拝領に捧げられた礼拝室が建設された。また、聖職者用と信者用に区切っていた仕切り構造物であるイコノスタシスが取り除かれた。

18世紀には、身廊の木製天井、堂々とした大理石の祭壇(20世紀半ばに取り外された)、ファサードのスタッコ装飾(1912年に取り外された)など、大聖堂内部の改修工事が多数発注された。

1827年に作られた身廊の木製天井は、かつて大聖堂の壁を飾っていた美しいタペストリーを思わせるデザインである。

20世紀末には、床モザイクの修復が行われ、その下地モルタルの下から初期キリスト教時代に遡る古代のモザイクと42の埋葬(メッサピア、ローマ、ビザンチン、中世)が発見された。

この後も、QRコードのリンク先を引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『PUGLIA ROMANICA』による平面図です。東が左です。

ジャカ・ブック(Jaca Book)より

4. 内観(床モザイク)

大聖堂の中に入ります。

わお。

床モザイクがいっぱい。

身廊にて東を向く

西扉口から交差部に向かって、大きな木の幹が描かれています。不思議なことに、中心線よりも、少し左(北)に寄っています。

夏至における太陽の光の並び
巨大な木を描くにあたり、パンタレオーネは、夏至に太陽が天頂にあるとき、南向きの窓から身廊の床に太陽の光が射し込むという特異な現象を考慮した。興味深い点は、光線が一直線に並び、上部でわずかに左に曲がっている幹の軌跡を完璧にたどっていることである。まっすぐではない幹は、計算ミスではなく意図的な選択であり、雄大な木の幹を光線の通り道に沿わせたのである。

QRコードのリンク先より

QRコードのリンク先による床モザイクの画像です。東が上です。

QRコードのリンク先より

大聖堂の床は「話す」床である。神学、礼拝、文化、博学、神話、美学を統合した傑作であるため、「イメージの中世百科事典」と定義されている。この巨大な床モザイクは、地元の石灰岩で作られた無数の小さなテッセラで構成され、色ガラスの破片が散りばめられている。全長52メートルに渡って展開し、翼廊も巻き込んで十字架を形作り、全体のモチーフであるキリスト中心主義を想起させる。

作品自体には、ラテン語で四つの文が刻まれており、作者、依頼者、制作時期に関する主な情報が得られる。西扉口にある最初の碑文は、作者であるパンタレオーネ司祭(presbitero Pantaleone)の名前を明らかにし、委託者であるジョナタ司教(vescovo Gionata)を明らかにしている。

西扉口にて北東を向く(最初の碑文)

その後の文には、1165年をモザイク画の完成年とし、モザイク画が制作された当時、オトラントが属していたノルマン王国を統治していた悪王グリエルモ1世を記念している。この作品は、わずか2年という、このような作品を完成させるには非常に短い期間で実現された。

これらの文は重要な情報を提供するだけでなく、大聖堂の異なる空間を繋ぐ蝶番としても機能している。身廊の下部は罪人と洗礼志願者のための空間であり、身廊の上部は信者のための空間であった。後陣は聖職者、助祭、司祭のための空間であった。

身廊と交差部との間には、床モザイクが制作されたとき、イコノスタシスがありました。段差のあるところです。

南側廊にて北東を向く(身廊の上部)

西扉口から伸びる大きな木は、その先端を交差部に伸ばして終わります。植物と動物が絡み合う場面は、ここまで。

北翼廊にて南西を向く(交差部)

内陣には整然とした世界が広がり、勝利を象徴するようにサムソンが描かれています。

北翼廊にて南東を向く(内陣)

ロマネスク美術では、教会の床は地上の像に捧げられた空間である。パンタレオーネは、中世の獣類図鑑から着想を得た実在の動物や幻想的な生き物、騎士道文学や神話、月のサイクル、中世に流行した登場人物を描いている。聖書の人物や旧約聖書のエピソード、預言者、天使、悪魔などにも事欠かない。ただし、キリストや聖母といった人物は、踏みにじられることを避けるため描かれていない。パンタレオーネは、罪から神の恩寵に至るまでの人間の経験、すなわち救いの物語を見事に再現している。

身廊にて東を向く

2024年12月18日に催された講座「キリスト教美術をたのしむ88 ロマネスクの床モザイクを読む:オトラント大聖堂」で、金沢百枝先生の図像解釈を聞きました。「魂の上昇」をあらわそうとしたのでは?というものです。とても興味深い図像解釈なので、将来に文献として発表されることが楽しみです。

身廊にて東を向く

床モザイクは、その図像解釈の難しさも、大きくてよく保存されていることも、すごいです。そして、描かれている生き物や人物たちがのびのびしていて明るいことが、私は好きです。

5. 内観(地下聖堂)

地下聖堂に行きます。

ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『PUGLIA ROMANICA』による地下聖堂の平面図です。東が上です。

ジャカ・ブック(Jaca Book)より

地下聖堂は、おそらく11世紀以前に遡るもので、世界的に有名なコンスタンティノープル大聖堂(アヤソフィア)のエレバターナ貯水槽を想起させる。芸術的にも歴史的にも非常に価値の高いものであり、宝石の中の宝石とさえ言える。

とても美しいです。

地下聖堂にて南東を向く

この空間は、地上部分の翼廊の下に広がっている。翼廊と地下聖堂は広い階段でつながっている。多くの地下聖堂が完全に地下にあり、自然光が一切入らないのに対し、オトラント大聖堂の地下聖堂は、地上から約1メートルの高さにあり、五つの窓から直接光が差し込む。また、地下聖堂には外部からの入口があり、1987年にモザイクの修復作業が始まった際に考古学遺産局の許可を得て、典礼上の必要に応じて開けられるようになった。

地下聖堂にて北東を向く

地下聖堂には48の交差ヴォールトがあり、さまざまな大きさや質の大理石でできた42本の単石円柱によって支えられている。この地域周辺の古い建造物から回収された円柱は4列に配置されており、さらに23本の半円柱が外周の壁に沿って配置され、前述のヴォールトを支えている。

古代末期からロマネスク初期までの時代順に年代を特定できる、さまざまな柱頭の芸術的価値に注目すべきである。図像の多様性には、キリスト教のシンボル(十字架)、植物モチーフ(アカンサスの葉、花穂、ヤシの葉)、擬人像、動物(鳥、ライオン、ワシ)、怪物(ハルピュイア)などが含まれる。円柱の柱身も、様式や大理石の質が異なる。

多様な円柱と、それぞれを際立たせる見事な組み合わせの柱頭は、偶然ではなく、意図的に選ばれたものである。

地下聖堂にて東を向く
フレスコ画

フレスコ画の技法で描かれた壁画は12世紀にさかのぼり、聖母子が描かれている。この作品は、もともと大聖堂と地下聖堂の壁に描かれていたフレスコ画がオスマン帝国の偶像破壊によって破壊された際に、生き残った数少ない作品のひとつである。

内陣に残るフレスコ画

Cattedrale di Santa Maria Annunziata。床モザイクの大きさと伸びやかさに心を打たれます。地下聖堂は宝石の中の宝石です。

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