2024年8月4日(日)、四番目に訪れたのはCanosa di Puglia、Cattedrale di San Sabinoです。
ここは、説教壇と司教の玉座が素晴らしいです。ボエモン1世の霊廟と地下聖堂もあります。
2024年、大聖堂は毎日9:00〜12:30と17:00〜21:00に開いていました。
目次
1. Canosa di Puglia へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 内観(説教壇) .
5. 内観(司教の玉座) .
6. 内観(地下聖堂) .
7. ボエモン1世の霊廟 .
1. Canosa di Puglia へ
カノーザ・ディ・プーリア(Canosa di Puglia)は、プーリア州バルレッタ=アンドリア=トラーニ県にある町で、同県の県都のひとつバルレッタ(Barletta)の約28km南西にあります。
オファント(Ofanto)川のほど近くにある町は古い歴史を持ち、プーリアの代表的な遺跡地のひとつと見なされています。
大聖堂は、町の中心にあります。
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2. 概要
教会の外に案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
複雑な建築史の主役である聖サビヌス大聖堂(Cattedrale di San Sabino)は、最近の研究によると、後陣部分、身廊、凝灰岩とレンガを交互に積み上げたアーチの一部、サビヌス(Sabino)のモノグラム入りの石の存在などから、6世紀に遡るものと確認されている。
9世紀初頭、司教ピエトロの命により、聖サビヌス(San Sabino)の遺骸がサン・ピエトロ複合施設から、聖ヨハネと聖パウロに捧げられていたこの教会に移された。
ノルマン時代には、彫刻家アケプトゥス(Acceptus)による説教壇が設置され、ロムアルドゥス(Romualdus)作とされる司教の玉座が寄進された。11世紀のことである。
アケプトゥス(Acceptus)は、モンテ・サンタンジェロの説教壇も手がけました。その断片はラピダリウム博物館(Museo Lapidario)に保管されています。
1101年、教会は、教皇パスカリス2世の勅令により聖サビヌス(San Sabino)に捧げられるようになった。
その後の数世紀の間、この建造物は大小さまざまな改修工事の対象となり、最も重要なものは1800年代半ばと1900年代初頭に行われた。この時、教会は決定的な変化を遂げた。建物の本体部分が西側に3柱間が拡張され、新しいファサードと地下聖堂への新しいアクセスが設けられた。
現代の大規模な改築にもかかわらず、この教会はラテン十字形プランのオリジナルレイアウトを部分的に残している。三つの身廊と単一の半円形後陣があり、五つのドームで構成されている。注目すべきは再利用された8本の一枚岩の柱で、その中でも「アンティークグリーン」大理石のものが際立っている。
地下聖堂には、聖サビヌス(San Sabino)の遺骨の移管を記録した碑文がある。また、発掘調査により、紀元前1世紀のローマ時代の邸宅の跡が発見された。この邸宅は、帝政初期(2世紀)まで使用されていた。
聖サビヌス(San Sabino)は、6世紀のカノーザ・ディ・プーリア(Canosa di Puglia)の司教です。その聖遺物は、バーリ(Bari)大聖堂に移されました。
身廊の南の外側には、ロベール・ギスカールの息子で十字軍の英雄、1111年に没したアンティオキア公ボエモン1世の霊廟が、身廊に寄り添うように建っている。この小さな建物は、聖地の建築様式を思わせる。最近修復された大理石や青銅などの貴重な素材を用いた扉口は、ノルマン人の君主たちがこうした建物を利用して、自らの政治的メッセージを強調していたことを示している。
この後は、現地にあった案内掲示を引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
案内板による平面図です。東が左です。
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4. 内観(説教壇)
教会の中に入ります。
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内陣に彫刻家アケプトゥス(Acceptus)による11世紀の説教壇があります。
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ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『PUGLIA ROMANICA』によると、19世紀に解体されて保管された後、1905年に再組み立てされました。大きな大理石の板の縁は、色とりどりの樹脂やエナメルがちりばめられた小さな菱形のモチーフで飾られ、1905年当時もその痕跡が残っていました。
また、『PUGLIA ROMANICA』によると、碑文がこのように読めます。
P[ER] JUSSIONEM D[OMINI MEI GUITBERTI VEN[ERABILI]S P[RES]B[ITE]R[T]/EGO ACCEPTUS PECCATOR ARCHIDIAC[O]N[US] FECI HOC OPUS.
日付が欠落しているものの、ギットベルトゥス(GUITBERTI)という名は1071年にモンテ・カッシーノの奉献式に出席したルーヴォ(Ruvo)の司教と同一人物である可能性が高いと考えられています。また、アケプトゥス(Acceptus)は、年代が判明している二つの説教壇(S. Maria di Siponto(1039年)とMonte Sant’Angelo(1041年))にも記載されている彫刻家だと考えられています。
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11世紀には、もっともっと色とりどりだったようです。
5. 内観(司教の玉座)
後陣には、ロムアルドゥス(Romualdus)作とされる11世紀の司教の玉座があります。
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ロムアルドゥス(Romualdus)作とされる、と書きましたが、様々な時期に作られた部品を組み合わせた人だと考えられているようです。
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『PUGLIA ROMANICA』によると、肘掛けの下にこのように刻まれています。
† URSO PRECEP[TOR RO]MOALDUS AD [HEC FUJIT ACTOR
また、背もたれを縁取るフレームにこのように刻まれています。
† P[RE]SUL UT ET[ERINA POST HAC POTIARE CATHEDRA[M]/Q[UOD] VOX EXTERIUS RES FERAT INTERIUS/Q. GERIS IN SPE[M] DA GESTES LUM[EN] UT IN RE LUM[EN] CU[M] P[RE]STAS LUMINE NE CAREAS.
『PUGLIA ROMANICA』によると、肘掛けと背面からなる上部は、大理石の種類と控えめな菱形の装飾から、同時代の作品と思われるアケプトゥス(Acceptus)の作品に似ています。一方、座席を支える鷲の彫刻、支柱、象の彫刻は、温かみのある色調の異なる大理石でできていて、より洗練された豪華な雰囲気を醸し出していて、より時代が下った時期に作られたものと思われます。さらに、座席は地面から高すぎる上に、足置き台もないため、実際に人物を収容するように設計されていないように見えます。そのため、1080年から1089年の間に、バーリとカノーサの司教の称号を持つウルソ(Urso)のためにロムアルドゥス(Romualdus)によって異なる部品が組み合わされたと考えられています。実際にはほとんど他の場所にいた大司教の理想的な存在の目印として作られたのです。
何はともあれ、象がかわいい。
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6. 内観(地下聖堂)
右(南)側廊から地下聖堂に行けます。
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地下聖堂には、聖サビヌス(San Sabino)の遺骨の移管を記録した碑文があり、発掘調査により、紀元前1世紀のローマ時代の邸宅の跡が発見された。
立派な柱です。
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7. ボエモン1世の霊廟
南側廊から外に出ると、ボエモン1世の霊廟があります。
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霊廟の中にあった案内掲示による平面図です。東が右です。
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小さいながらも、半円形の後陣があります。
この珍しい建物は、当時大理石のみで造られた唯一のもので、右側廊の外壁に面して建っている。この建物は、1111年3月7日のノルマン貴族ボエモン1世の死後に建設された。
霊廟の建設は、ボヘモンの未亡人、フランスのフィリップの娘であるオートヴィルのコンスタンスによって進められた。建築のプランは、エルサレムの聖墳墓礼拝堂を基にしている。正方形のプランで、東側に突出した後陣と南向きのファサードがある。
ファサードには不思議な落書きがあり、また、イシヤ神官の像が描かれたギリシア産大理石のブロックが逆さまに置かれていることから、この石板は、すべてではないにせよ、帝政時代にカノーザにあった遺物であることが示唆されている。
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扉は、その製造技法が貴重である。ボエモン1世の生涯の場面や理想的なエルサレムの描写で装飾されており、ボエモン1世の生涯を讃えるいくつかのラテン語の文章が刻まれている。
「青銅の扉のオリジナルは大聖堂の中にある」という話を小耳に挟んだのですが、私はどこにあるのか気がつきませんでした。
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霊廟の中に入ります。
ボエモン1世の墓は、今日、調度品が極端に少なく見える。アンティオキア公の遺骸は、大理石の板で覆われた石棺の中に埋葬されている。大理石の石棺は、最近修復されたとはいえ、真ん中が割れている。
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中はガランとしています。
Cattedrale di San Sabino。説教壇と司教の玉座が素晴らしいです。ボエモン1世の霊廟と地下聖堂もあります。
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