サン・ミゲル・デ・エスカラダ(San Miguel de Escalada)

2024年9月13日(金)、三番目に訪れたのはSan Miguel de Escalada、サン・ミゲル・デ・エスカラダ修道院(Monasterio de San Miguel de Escalada)です。

ここは、10世紀に有名なベアトゥス写本のひとつが書かれた修道院です。建物にはプレ・ロマネスク建築とロマネスク建築が残っています。

2024年、修道院教会は以下の日程で開いていました。有料(€3)でした。
5月から10月中旬:火曜から日曜の10:30〜14:00と17:00〜20:00(火曜は無料)
11月中旬から4月:木曜から日曜の10:30〜14:30(木曜は無料)
10月中旬から11月中旬は閉まりました。

目次

1. San Miguel de Escalada .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. ポルティコ .
5. 塔と礼拝堂 .
6. 教会 .

1. San Miguel de Escalada

サン・ミゲル・デ・エスカラダ(San Miguel de Escalada)は、カスティーリャ・イ・レオン州レオン県にある村で、県都レオンの約22km東にあります。

村から約1km北東に離れた小高い丘の上に孤立している建物が、古い修道院の遺構の全てです。

南西側外観

2. 概要

教会の中に案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

+ 大天使ミカエルに敬意を表して古くから奉献されていたこの場所は、規模が小さく荒廃し、長い間そのままであったが、従者を引き連れて故郷のコルドバからやってきた修道院長アルフォンソが、アルフォンソ王の庇護の下で廃墟を再建した。この工事は、ガルシアとその妻ムマドンナの治世下、王の命令でもなく、民衆の汗でもなく、アルフォンソ大修道院長とその修道士たちの行き届いた粘り強さによって、12ヶ月かけて914年に行われた。教会は、11月20日にジェナディオ司教によって奉献された。

これは、サン・ミゲル・デ・エスカラーダ修道院(Monasterio de San Miguel de Escalada)の今は無き奉献石に記されているもので、アルフォンソ3世がこの地方に修道院を設立し、アストゥリアスの司教ジェナディオも指導的な役割を果たしたことを物語っている。その数年後、壮麗なポルティコの西側の七つのアーチが建設され、11世紀末に拡張された。これは10世紀の芸術の宝石であり、宗教的・政治的な領域に及ばないイスラムとの美的共存の要約である。現在、ニューヨークのピアポント・モルガン図書館に所蔵されている有名なベアトゥス写本は、この写字室で書かれたものである。

ベアトゥス写本については、セウ・ドゥルジェイ(Seu d’Urgell)で本を買って読みました。その本によると、ニューヨークのモルガン図書館にあるものは、89の装飾挿絵を含んでおり、10世紀に、ここサン・ミゲル・デ・エスカラダ(San Miguel de Escalada)で書き写されました。

1050年、サン・ミゲルの名誉と呼ばれる特権と免除が与えられ、1088年にはロマネスク様式の教会が改修された。修道院とその管轄権は、1155年にアルフォンソ7世とその妹のサンチャ伯爵夫人によって、サン・ルフ・デ・アヴィニョン修道院(abadía de San Rufo de Avignon)の律修司祭に譲渡され、1536年に修道院生活が終わるまで、その手にあった。

サン・ミゲル・デ・エスカラダは、それ自体がレオン王国のルーツにおける最も重要な記念碑のひとつである。

この後も、案内板を引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

Jaume at French Wikipedia による平面図です。

By Jaume at French Wikipedia – Transferred from fr.wikipedia to Commons by Bloody-libu using CommonsHelper., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18035122

4. ポルティコ

12のアーチを持つポルティコが目をひきます。

ポルティコの左(西)側は930年頃、右(東)側は1088年頃に建築されたと考えられています。

ポルティコ

いわゆる 「モサラベ建築 」研究の第一人者であるゴメス・モレノ(Gómez-Moreno)によれば、このポルティコの建設は、二つの段階を経て行われた。第1段階は、西の七つのアーチを含む930年頃で、サンティアゴ・デ・ペニャルバ(Santiago de Peñalba)と同じ親方または同じ工房の作品である。第2段階は、東の五つのアーチを含む1088年頃で、すでにロマネスク様式の段階に入っていた。

そう言われてみると、アーチを支えている柱頭が、東側のものと西側のものとでは、少し違います。

東西どちらの柱頭も様式化された植物を彫っていますが、、、

東側は、小ぶりで同じような意匠が並びます。

ポルティコ:西側の柱頭

西側は、大ぶりで多様ですが、四面のうち北面には彫刻が施されていません。別の場所のために彫られて、ここに再利用されたようです。

イシドロ・バンゴ(Isidro Bango)による最近の研究では、ヒスパニックの典礼が放棄されたとき、トランゼプトの両脇にあったいくつかの礼拝室がなくなったことが、ポルティコと呼ばれるこの建築空間の東への拡張を可能にした可能性が指摘されている。

ポルティコ:東側の柱頭

5. 塔と礼拝堂

ポルティコの東端が、塔の西壁に接しています。

メネンデス・ピダル(Menéndez Pidal)によれば、サン・イシドロ・デ・レオン(San Isidoro de León)の交差部との類似性から、塔と礼拝堂は、どちらも11世紀末のものである。この複合施設は、エラエス・オルテガ(Herráez Ortega)の見解では、11世紀末に、古いモサラベ修道院に併設された塔と礼拝堂の建設によって、この谷にロマネスクが出現した。

塔のいくつかの要素に注目したい。ひとつは、西側の扉口のティンパヌムで、中世初期の扉口を再利用しており、そこには次のような墓碑銘が刻まれており、ゴメス・モレノ(Gómez-Moreno)は12世紀、ガルシア・ロボ(García Lobo)は同世紀末と推定している:

XIIII K(a)L(enda)S SEPT(em)B(ris) / OBIIT MARIA DIDACI / SOROROR N(ost)RA
(9月13日、私たちの姉マリア・ディアスが亡くなった)

ポルティコの東端(塔の西壁)の扉口

この扉口から入ると、塔と礼拝堂があります。

礼拝堂の東壁の下部には、半円形の後陣の跡があります。

リカルド・プエンテとスアレス・デ・パス(Ricardo Puente y Suárez de Paz)によって研究された石工の印が30種類以上も残る礼拝堂が塔に付属していること、そして発掘された後陣跡、これらの建築学的な分析から、この礼拝堂は、1206年の文書で言及された聖フルクトゥオソに捧げられた教会の可能性がある。

礼拝堂にて東を向く

6. 教会

ポルティコに戻り、北壁(教会の南壁)の扉口から教会に入ります。

馬蹄形アーチや柱頭は、カンタブリア州のレベニャ(Lebeña)を思い出します。

身廊にて東を向く

柱の軸が美しいです。

ふと見ると、アバクス(柱頭の上に置かれてアーチを支える部分)のひとつは、文字が刻まれた石板を再利用しているようです。

文字が刻まれたアバクス

興味深いのは、イコノスタシスです。

上部には、中世初期によく見られる浮き彫りが帯状に施されています。

北側廊にて東を向く

内陣障壁にも、幾何学模様や鳥やライオンが彫られています。

内陣障壁
内陣障壁

サン・ミゲル・デ・エスカラダ修道院(Monasterio de San Miguel de Escalada)。10世紀に有名なベアトゥス写本のひとつが書かれた修道院です。建物にはプレ・ロマネスク建築とロマネスク建築が残っています。

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