キンタニージャ・デ・ラス・ビーニャス(Quintanilla de las Viñas)

2024年9月4日(水)、二番目に訪れたのはQuintanilla de las Viñas、エルミタ・デ・サンタ・マリア(Ermita de Santa María)です。

ここは、プレ・ロマネスクです。西ゴート様式の装飾が素晴らしいです。

2024年6月から9月は水曜から日曜10:20〜14:25と16:05〜19:10に開いていました。月曜・火曜と毎月最初の週末は閉まっていました。

目次

1. Quintanilla de las Viñas へ .
2. 概要 .
3. 模型 .
4. 外観(西側) .
5. 外観(東側) .
6. 内観(勝利アーチ) .
7. 内観(内陣) .

1. Quintanilla de las Viñas へ

キンタニージャ・デ・ラス・ビーニャス(Quintanilla de las Viñas)は、カスティーリャ・イ・レオン州ブルゴス県にある村で、県都ブルゴスの約30km南東にあります。

Ermita は、集落から東に600メートルほど離れた場所にあります。

南東側外観

私が行ったとき、ギターを弾いていた管理人が、演奏を中断して案内してくれました。

管理人によると、この地域は太古の昔から文明が発達していて、Ermita の北に見える岩山(上の写真の背景)の頂上にはケルト人のオッピドゥム(oppidum)の遺構があるそう。

2. 概要

管理人室の外にQRコードがありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

非常に豊かな考古学的遺跡の中にある。ローマ時代の都市ノヴァ・アウグスタ(Nova Augusta)に立地し、地平線上には中世の要塞都市ララ(Lara)の城のシルエットが見える。

Ermita は4世紀のローマ時代の用地にある。4世紀よりも後の時代に建築された修道院教会の一部が現在も残されているが、Ermita の建築年代については現在も議論が続いている。

Ermita の建築年代については、7世紀末から10世紀初頭に建てられたと考えられています。詳細は後述します。

Ermita は14世紀にすでに廃墟であった。そのため、フェルナン・ゴンザレス伯爵(conde Fernán González)の遺骨はそこからサン・ペドロ・デ・アルランサ修道院(monasterio de San Pedro de arlanza)に移された。

この後も、QRコードのリンク先を引用する時に太字で書きます。

3. 模型

現地にあった模型です。東が奥です。

向かって左が復元予想模型、向かって右が現状模型だと思います。

かつては交差部の上に鐘楼があったようです。

現地にあった模型

真上からも撮影しました。

三身廊と翼廊の南北ひとつずつの柱間が、失われているようです。

現地にあった模型(別角度)

復元予想模型は、屋根を取り外すことができました。

身廊には四つの柱間があったようです。

また、南北の翼廊は、身廊の幅よりも長くて、突き出た形だったようです。

屋根を取り外した復元予想模型

4. 外観(西側)

西に行きます。

現在の建物の西側には、三身廊がありました。基礎部分の遺構が残っています。

西側外観

ネクロポリス
Ermita が埋葬地として使われていたことは、20世紀前半に考古学的発掘調査で発見された墓の数から明らかである。内部の北側にある墓からは、西ゴート時代後期(7~8世紀)の典型的な青銅製の典礼用の水差しが発見された。南側の部屋からは、ローマ時代と西ゴート時代の陶器が多数発見されている。
中世(9~13世紀)の墓地は、現在屋外となっている空間の大部分を占めている。これらは、大きな一枚岩の石棺と、板を並べた墳墓で構成されている。中世の墳墓が密集していることから、この時代、Ermita は教区教会として機能していた可能性があり、聖域に近い場所に埋葬する習慣があったという見方が強まっている。

5. 外観(東側)

東に行きます。

東側外観

植物、動物や幾何学的な模様の浮き彫りが、帯状に並んでいます。

かっこいい。

後陣の帯状装飾

後陣の壁の北側には、三つのモノグラムが描かれたロゼットがある。解釈は様々であり、不確かでもある。一般的には、最後のひとつはf(e)c(e)c(e)r(u)n(t)(「彼らが作った」)を示していると考えられており、最初の二つは建物の篤志家のイニシャルと考える研究者もいる。

管理人は、「FLAN」は女性名、「DLAN」は男性名を表していて、寄進した夫婦かもしれないと言っていました。

三つのモノグラムが描かれたロゼット

このようなモノグラムはスペインの中世建築の彫刻要素には見られない、西ゴートの金属細工に使われるものであり、Ermita の最古の建築部分が西ゴート起源であることを裏付ける特徴ひとつである。モノグラムは、キンダスウィント王(642-653)に始まる7世紀末から8世紀初頭のコインによく見られ、711年のイスラム侵入以降は見られないからである。

Ermita の建築年代については、7世紀末から10世紀初頭に建てられたと考えられています。その期間のいつだったのかについては、大きく分けて二つの考えがあるようです。ひとつは「7世紀末から8世紀初頭の西ゴート時代、イスラム教徒の侵攻前に建てられた」という考えです。もうひとつは「9世紀末から10世紀初頭、キリスト教徒によるレコンキスタと再定住が始まった頃に建てられた」という考えです。9世紀末から10世紀初頭という考えについては、その論拠のひとつを後述します。

ちなみに、西ゴート時代は、5世紀から8世紀までです。西ゴートはビシゴートとも呼びます。ゲルマン系民族で、5世紀初めにイタリアに侵入しますが、勢いは続きませんでした。ガリアに移動し、トロサ(トゥールーズ)を首都として西ゴート王国を建国します。しかし、6世紀初めにフランク族との戦いに敗れ、宮廷をガリアからイベリア半島に移し、首都もトレドにします。8世紀初めにウマイヤ朝(イスラム)に敗れ、滅亡しました。

南東側外観

現在、建物の入口は南翼廊にあります。

6. 内観(勝利アーチ)

建物の中に入ります。

私が行ったとき、2人の研究者が現地調査を行なっていました。私は彼らの邪魔をしないよう、彼らの作業が一段落したときに見学を始めました。

南翼廊にて北東を向く

勝利アーチは、馬蹄形です。

アーチの上には、威厳に満ちたキリストがすべてを支配している。

内陣と交差部を隔てる馬蹄形アーチは、おそらくソリア(Soria)のエスペホン(Espejón)の採石場で採れた2本のローマ産大理石の柱と、アーチの装飾と同じように豪華な装飾が施された二つの柱頭で支えられている。

二つの柱頭は擬人像で飾られている。左は太陽、右は月が描かれ、両者とも有翼の精霊に支えられている。どちらも異教の神々(ヘリオス/アポロとセレーネ/ディアナ)のキリスト教化を表し、太陽と月に、死と生の寓意をなぞらえている。

二つの柱頭が素敵です。

勝利アーチの柱頭左(北)側

太陽の柱頭には、篤志家フランモラの碑文がある。

+OC EXIGVVM EXIGVA OFF ΔO FLAMMOLA VOTVM

「控えめなフランモラがささやかな捧げものを神にささげる。」と訳すことができる。

勝利アーチの柱頭右(南)側

この碑文は、666年のメリダ公会議による 「祭壇の前のミサの間に、バシリカの建設に協力した者、これらの教会に貢献した者、何かを与えた者の名前を唱えなさい 」という命令と一致している。

すべての研究者は、装飾と碑文が同時代のものであることに同意しているが、その年代については考えが異なっている。

Ermita の建築を西ゴート時代とする研究者らは、彫刻装飾に見られるビザンチンやササン朝時代の影響は、布の交易からもたらされたと考えている。この碑文の書体は、古典的な西ゴート式に対応している。Δ(ギリシャ文字のデルタ)の使用はビザンチンの特徴で、イベリア半島では7世紀以降使われなくなった。また、E、F、Aという文字の古文書学的特徴も、考古学的発掘調査で出土し現在ブルゴス博物館に収蔵されている祭壇の支柱の装飾と一致している。

これとは対照的に、この Ermita の建築を10世紀初頭とする研究者らは、912年にフランモラの夫であるゴンサロ・テレス伯爵(conde Gonzalo Téllez)が、サンタ・マリア・デ・ララ修道院(monasterio de Santa María de Lara)をサン・ペドロ・デ・アルランサ修道院(monasterio de San Pedro de Arlanza)に寄進したという文書を論拠としている。この研究者らは、彫刻装飾の様式的特徴は、711年以降のイスラム文化の伝播に由来すると考えている。しかし、912年のフランモラがこの Ermita の碑文と同じ人物なのか、サンタ・マリア・デ・ララがこのErmitaと同じ修道院なのかについては、明らかではない。

QRコードのリンク先は「7世紀末から8世紀初頭の西ゴート時代、イスラム教徒の侵攻前に建てられた」という考えを推しているようです。

7. 内観(内陣)

内陣に、二つの浮き彫りが置いてあります。

sioz4026さんから教えてもらった記事によると、これら二つの浮き彫りは、盗まれて行方不明だったのですが、オランダの美術探偵が9年にわたる捜索ののちにイギリスで庭の装飾品として売られたことをつきとめ、返還されました。

その記事には、これら二つの浮き彫りは7世紀の西ゴート様式のものだと書いてありました。

交差部にて東を向く

天使に支えられた男女の胸像があり、キリストと教会と解釈されている。これらは2004年に盗まれたのち、2019年に返還された。(十字架を飾っていたと思われる、書物を手にした伝道者たちの同じような浮き彫り2枚は、Ermita に保管されていない。)これらはすべて中世に解体された部分に由来する装飾であろう。

浮き彫りその1

キリストと解釈されているギリシャ十字を持つ男性の胸像:

浮き彫りその1
浮き彫りその2

教会を象徴すると解釈されている女性の胸像:

浮き彫りその2

すべての像は、硬質で図式的な特徴を持ち、明らかに正面を向いており、西ゴート時代のコインと様式的に類似している。サブアーチのティンパナムの上にある木製の梁の最後の輪の炭素年代測定は476年~536年となり、教会建築がそれ以降であることを決定づけた。

エルミタ・デ・サンタ・マリア(Ermita de Santa María)。プレ・ロマネスクです。西ゴート様式の装飾が素晴らしいです。

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