マテラ(Matera)<2>

2024年8月14日(水)、三番目に訪れたのはMatera、サン・ドメニコ教会(Chiesa di San Domenico)です。

ここは、ファサードの彫刻が良いです。

教会は閉まっていました。私は教会の中に入りませんでした。

Matera では、4か所に行きました。以下のように4回に分けて書きます。
<1> Cripta del Peccato Originale
<2> Chiesa di San Domenico
<3> Chiesa di San Giovanni Battista
<4> Basilica Cattedrale di Matera “Maria Santissima della Bruna”

目次

1. Matera へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観(ファサード) .

1. Matera へ

マテラ(Matera)は、バジリカータ州マテラ県の県都で、州都ポテンツァの約67km東にあります。

マテラ(Matera)の町は、グラヴィーナ(gravina、石灰岩地域の侵食峡谷)の岩肌を掘って造られたサッシ(石「Sasso」の複数形)と呼ばれる洞窟住居が幾層にも重なり、斜面を埋め尽くしています。8世紀以降、東方からイスラム勢力から逃れたキリスト教修道士たちが移り住んでいたようです。

サン・ドメニコ教会(Chiesa di San Domenico)は、大聖堂の谷を挟んで西側、約550メートルの道のりにあります。

南西側外観

2. 概要

教会の外に案内板がありました。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

地元の歴史家たちは、サン・ドメニコの宗教複合施設は町で最も古いもののひとつであり、プーリアの説教師修道会のニコラ・ダ・ジョヴィナッツォ(同修道会を設立した聖人の弟子)によって創設されたと主張している。

この修道会の起源は1230年以前に遡る。この起源は、1471年にシクストゥス4世が発布した勅書によって確認されている。

当初、そして16世紀の大半は、非常に貧しかった。その後、修道者や信者からの寄付により、修道院はわずかながら財産を蓄えることができた。それはマテーラの他の修道院の財産には及ばないものの、修道会の生活には十分な額であった。1609年には、ドミニコ会の建築家ドメニコ・マリナーリが指揮した改修工事により修道院が拡張され、彼が回廊の建設費用も負担した。年月を経るにつれ、この共同体はますます高い名声を得るようになり、ついにはオトラント地方で最大かつ最もよく組織された修道院のひとつとみなされるまでになった。

1809年9月のナポレオン法により修道会は廃止され、1814年からは事務所、兵舎、郵便局として使用され、建物の一部は市民の住居に転用された。1927年以降、マテラが州都となった際には、州庁の事務所として使用された。

17世紀には、木製のトラス構造の古い天井が、小アーチのある半円形の天井に置き換えられ、柱のサイズが大きくなった。1744年には、当時の様式に則ったスタッコ装飾が追加され、内装が変更された。マテラの貴族や旧家が所有していた多くの祭壇が置かれている宗教的な空間は、16世紀から18世紀の彫刻やフレスコ画で装飾されている。

ロザリオの聖母の礼拝堂(Cappella della Madonna del Rosario)は、1577年から1588年の間に建てられた非常に素晴らしいもので、八角形のプランの中央に半球形のドームが設けられている。

この後も、案内板を引用する時に太字で書きます。

3. 平面図

案内板による平面図です。東が上です。

案内板より

4. 外観(ファサード)

西に行きます。

修道院の隣には三つの身廊を持つ教会がある。これは、13世紀に建てられた当初の単廊式の建物を拡張したもので、ファサードの盲アーチや装飾に、当初の痕跡が残っている。

西側外観

薔薇窓の中央には神の子羊、窓の縁には男性の顔や動物が彫られています。

薔薇窓

薔薇窓の上は、大天使ミカエルだと思います。

竜を倒しちゃう。

大天使ミカエル

薔薇窓の南北と下には、窓を支える男性たち。

柱には、怪しげな男性たちが彫られています。

大きな目に大きな口で、なんだか、かわいい。

サン・ドメニコ教会(Chiesa di San Domenico)。ファサードの彫刻が良いです。

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