2024年8月14日(水)、最初に訪れたのはAnglona、Basilica Minore e Santuario “Maria SS. Regina di Anglona”です。
ここは、後陣の外観が美しいです。アトリウムの装飾が興味深く、教会の内部を埋め尽くしていたフレスコ画に圧倒されます。
2024年、教会は毎日8:30〜21:30に開いていました。
目次
1. Anglona へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観(後陣) .
5. 外観(アトリウム) .
6. 内観 .
1. Anglona へ
アングローナ(Anglona)は、バジリカータ州マテラ県にある村で、県都マテラの約47km南、州都ポテンツァの約77km南東にあります。
教会は丘の上にあります。
年に一度、祭りがあるそうで、広い駐車場がありました。

夫と私が訪れたとき、周りはとても静かで、修道女たちが洗濯物を干したり掃除をしたりしていました。
2. 概要
(Zodiaque) la nuit des temps『Calabre Basilicate romanes』による概要です。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
大聖堂は、トゥルシ(Tursi)とポリコーロ(Policoro)の間、眼下にシンニ(Sinni)川とアグリ(Agri)川が流れる丘の上に位置し、かつての大聖堂の町は消滅したが、今もなおその地に佇んでいる。
古代パンドシア(Pandosia)の遺跡の上に建てられた大聖堂の起源は1000年以前に遡る。
1092年にはすでに大聖堂が存在していたことは、この年に教皇ウルバヌス2世がこの地を訪れていることから明らかである。今日見られる建物は、11世紀末頃の要素を残しているが、その外観は主にその後の数世紀にわたって行われた改築や増築の結果である。
後陣の改築と、教会の外観を飾る新しい装飾は、メルキオール・デ・モンタルバーノ(Melchior de Montalbano)の作品と考えられている。メルキオールは、この教会と深い関わりがあり、1253年にラポッラ(Rapolla)大聖堂の扉に刻まれた彼の署名から、アンゴルナの書記官であったことが証明されている。
15世紀には、地震で崩壊した教会の左翼と聖域が修復された。隣接する司教邸宅の建設または再建も15世紀にさかのぼり、右側の側廊が失われた。考古学者のプランディ氏によると、身廊の柱に描かれた聖人たちの絵画は15世紀のものであるが、グレレ・ルスコ氏によると、その次の世紀のものである。 壁に残るフレスコ画は、それより前の装飾キャンペーンに属するもので、12世紀から13世紀のものとする説と、14世紀のものとする説がある。これらの世紀は、大聖堂が最も栄華を誇った時代であり、シュヴァーベン家とアンジュー家の君主たちから惜しみない寄付を受けていた。1221年に皇帝フリードリヒ2世が大聖堂に寄付したことは、その証拠である。
14世紀に、アングローナ(Anglona)の町(フリードリヒ2世の文書によると、むしろ小さな村落)は火災により破壊され、住民によって放棄された(その後、その場所は年に一度の市が立つ場所として利用された)。大聖堂だけは残ったが、徐々に以前の威信を失い、1546年には教皇パウルス3世の勅令により、司教座がトゥルシ(Tursi)に移された。こうして司教座としての機能を失ったこの教会は、巡礼者が時折訪れる場所となった。
この建物への関心は、20世紀になって再び高まった。1931年には、国家記念建造物に指定された。1965年にプーリア・バジリカータ州文化財監督局の管理の下、修復工事が開始された。司教邸と馬小屋は取り壊され、ファサード正面の両側にあった二つのギャラリーも取り除かれた。また、右側廊も修復された。同時に、基礎部分の補強と、一部の石組みの修復も行われた。また、骨組みがむき出しの屋根も再建された。修復作業により、当初の建築プランの相当な部分が発見された(当初のプランは三つの後陣で構成されていたことが判明した)。最後に、バジリカータ州の芸術・歴史的遺産監督局がフレスコ画の修復を担当し、解読が容易になった。
この後も、『Calabre Basilicate romanes』を引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
(Zodiaque) la nuit des temps『Calabre Basilicate romanes』による平面図です。東が上です。

点線:8世紀
黒色:12世紀第1段階
斜線:12世紀第2段階
水玉:13世紀
4. 外観(後陣)
東に行きます。
わお。

外観では、間違いなく後陣が最も美しい。前述の通り、この部分は13世紀に教会が拡張された結果であるが、装飾技術はロマネスク様式の伝統が受け継がれている。
カッペッリ(Cappelli)は、この窓はプーリア様式とビザンチン様式が融合したものであり、メルキオール・デ・モンタルバーノ(Melchior de Montalbano)の作品と推測している。

付け柱や盲アーチが美しいです。

5. 外観(アトリウム)
西に行きます。
修復作業により、右側に最初の鐘楼と対になるべき第2の鐘楼があったことが明らかになった。未完成の建設工事は現在でも見ることができる。

ファサードの前には、リブ・ヴォールトを持つ正方形のアトリウムがある。入口はアーケードの下に位置し、他の二つの側面には二つのアーケードが貫通している。これは、後に追加された二つのギャラリーを取り除いた修復工事以来、開け放たれている。

アトリウムの正面は、豊かに装飾されています。外側のアーチには、小さな人間と動物の頭部が並んでいます。一番内側のアーチはジグザグ模様で、ノルマン様式の扉口を思い出します。

二つの柱頭がアーチを支えていて、左側には二股人魚、右側には植物が彫られています。
最上部には五つの浮き彫りがあります。中央に神の子羊、その両側に四福音書記者の象徴が彫られています。

側面には聖ペトロと聖パウロを描いた二つの浮き彫りが配置されている。
これらの浮き彫りのことだと思います。額が広くて巻物を持っているのが聖パウロかも。
アーチと入口は11世紀末に作られ、13世紀に現在の形に整えられた。
6. 内観
教会の中に入ります。
教会内部には、何世紀にもわたって行われた数々の改築や増築の跡が残っている。

教会はフレスコ画で埋め尽くされていた。身廊の右側の壁(アーケードの上)や、対応する側廊、2列の柱そして身廊の第1柱間など、数多くの痕跡が残っている。これらは、バジリカータ州の芸術・歴史的遺産監督局が最近行った修復作業により、以前の修復作業による損傷が修復されただけでなく、大きな破片も回収された。
旧約聖書と新約聖書の場面が今日まで残っており、付随するギリシャ語の碑文が、その展開について私たちに光を投げかけている。ほとんどの場合、聖書の場面が再現されており、その碑文は最近パッサレッリ(Passarelli)によって研究された。柱の上に孤立して描かれた聖人の姿は、後の修復によるものである。
身廊の南側の壁には、旧約聖書の場面が2段に描かれている。『創世記』の配置は一見すると無秩序だが、それは「場面の並置に神学的対応があるため」である。これらは、壁の上段の勝利アーチの近くから始まり、天地創造、光と闇、陸と水の分離に続き、アダムとエバの創造、原罪、楽園からの追放、そしてカインとアベル、ヤコブの戦いが描かれている。下段には、ノアの方舟、ノアの泥酔、バベルの塔、アブラハムによるロトの救出、ヤコブのはしごが描かれている。



身廊の第1柱間の右側の壁には、旧約聖書の場面の締めくくりとして、家長ヨセフの物語が描かれていた。その断片は今も残っている。反対側の壁には、残っている部分から、キリストの生涯が身廊の左側の壁全体にわたって描かれていたことが示唆されている。
側廊の壁には『使徒行伝』の場面が描かれていたはずだが、装飾はほぼ完全に消滅しており、残っているのは右側廊に描かれた、地方総督アッティクスが見守る中、エルサレムの司教聖シモンが殉教する場面だけである。
エルサレムの司教聖シモンは、聖書では熱心党のシモンと書かれています。でも、彼の殉教の場面は聖書に書かれていません。ヤコブス・デ・ウォラギネの書いた『黄金伝説』に詳しいです。

壁画群は、その規模の大きさや図像の類まれな統一性により、この地方の中世美術史において非常に興味深い証言となっている。パッサレッリ(Passarelli)は、古文書学的な観点から年代の問題を考慮し、最古のフレスコ画が14世紀以前のものである可能性を排除し、それらを14世紀にアングロナ市を襲った火災後の再建の波に関連づけ、女王ヨアンナ1世(1326-1382)の時代に位置づけている。グレル・イユスコ(Grelle Iusco)は、これらのフレスコ画を12世紀末から13世紀初頭の間に描かれたものと見ている。彼女の見解では、柱の絵画は16世紀にアチェレンツァ大聖堂の周歩廊を担当したフレスコ画家によって描き直されたという(一方、Catanuto と Prandi は、これらのフレスコ画を15世紀初頭のものと見ている)。
Basilica Minore e Santuario “Maria SS. Regina di Anglona”。後陣の外観が美しいです。アトリウムの装飾が興味深く、教会の内部を埋め尽くしていたフレスコ画に圧倒されます。
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