2024年8月12日(月)、二番目に訪れたのはBrindisi、Chiesa e Chiostro di San Benedettoです。
ここは、南扉口と身廊の柱頭と回廊が素晴らしいです。
2024年、教会は以下の日程で開いていました。
日曜は8:00〜13:00
月曜は9:15〜19:00
火曜から土曜は9:15〜13:00と16:30〜19:00
(ただし、水曜午前は清掃のため閉まります。)
Brindisi では、5か所に行きました。以下のように5回に分けて書きます。
<1> Museo Archeologico Francesco Ribezzo
<2> Chiesa di San Giovanni al Sepolcro
<3> Chiesa Santa Lucia vergine e martire
<4> Chiesa e Chiostro di San Benedetto
<5> Cattedrale di San Giovanni Battista
目次
1. Brindisi へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 外観(南扉口) .
5. 内観(身廊) .
6. 内観(回廊) .
1. Brindisi へ
ブリンディジ(Brindisi)は、プーリア州ブリンディジ県の県都で、州都バーリ(Bari)の約106km南東にあります。
教会は、大聖堂から西に500メートルほどの道のりです。

2. 概要
ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『PUGLIA ROMANICA』による概要です。私が一部を抜粋して太字で和訳します。
ローマ人がブルンディシウム(Brundisium)と呼び、東方への主要港であり、アッピア街道の終点でもあったブリンディジ(Brindisi)は、中世において、長いビザンチン支配にもかかわらず文化的基盤が基本的にラテンとロンゴバルドのままであったプーリア大陸(テッラ・ディ・バーリとカピタナータ)と、ギリシャの伝統がより深く根を下ろしていたサレント半島との間の蝶番の役割を担っていた。辺境の地であったブリンディジは、ビザンチンと6世紀に占領したベネヴェントのロンゴバルド人との間で長い間争われていたが、836年にサラセン人によって荒廃させられ、その後ギリシア人によって再び占領され、1071年にノルマン人の征服に屈した。
11世紀、ビザンチンとローマの間で揺れ動いていた宗教情勢の中で、ベネディクト会修道院はラテン典礼の普及に決定的な役割を果たし、都市や田舎に残っていたギリシャ人修道士や地元聖職者と競合し、対立することも多かった。
15世紀にトルコの脅威から町を守るために聖アンデレ修道院(monastero di S. Andrea sull’Isola)が破壊された後、この英雄的で困難な時代を唯一物語るものは、長い年月と多くの苦難にもかかわらず、非常に良好な状態で保存されているサン・ベネデット修道院である。
教会の床下には、11世紀よりも前の建物の痕跡があります。
最近の修復によって、特に外壁が改善され、非常に興味深い細部が浮かび上がった。さらに、教会の床下の考古学的発掘調査によって、それ以前の建物、つまり、絵の装飾が施された柱で仕切られた身廊を持つバシリカ式配置の教会の痕跡も発見された。おそらく、そのバシリカ式教会は、聖ベネディクト教会に取って代わられたか、あるいは、一部の研究者(Matichecchia)が提唱しているように、資料に記載されている聖マリア・ヴェテラーナ(S. Maria Veterana)の建物であったのだろう。
現在、聖ベネディクト教会と呼ばれている教会は、もともと聖マリア・ヴェテラーナ(S. Maria Veterana)に捧げられていた。この名称は、ビザンチン人によって再建された都市の城壁の外側にあった土地に由来する。この土地は、ローマ時代のブルンディシウムよりもはるかに小さく、その遺跡が「チッタ・ヴェテーレ(旧市街)」を構成していた。
サン・ベネデット教会は、1089年にすでに存在していました。
現在確認できる最も古い文書は、コンヴェルサーノ伯でブリンディジ領主のゴフレードとその妻シケルガイタがトゥトゥラーノの村落を含む多数の不動産を修道院に寄付した証書である。1097年の日付が記載されている。
現在の建物は、11世紀から12世紀にかけて改築されたもののようです。
もちろん、修道院の建物を確実に年代測定するのに十分な情報ではない。修道院の建物は、回廊と鐘楼のある教会が残っている。幸いにも完全な形で保存されている教会と回廊の建築構造、そして彫刻を調べると、後述するように、11世紀末から12世紀初頭までの年代が確認される。
少なくとも700もの間、修道院に途絶えることなく住んでいた黒い修道女たちは、1866年に修道院の放棄を余儀なくされた。廃墟と化し、荒廃の危機にさらされた教会は、教区教会となった。周囲もまた、劇的に変化した。かつては城壁の外側にあったこの修道院複合施設は、今では四方を建物に囲まれ、都市交通の激しい往来にさらされている。
この後も、『PUGLIA ROMANICA』を引用する時に太字で書きます。
3. 平面図
ジャカ・ブック(Jaca Book)PATRIMONIO ARTISTICO ITALIANO『PUGLIA ROMANICA』による平面図です。東が上です。

4. 外観(南扉口)
南に行きます。
西側から3番目のアーチには、豊かな装飾の扉口があり、11世紀後半の建築と同時期のもので、おそらく西側にあったファサードから移されたものと思われる。

南扉口をみます。

籐編みの中に、小さな生き物たちが彫られています。
アーチ部分では、小さな生き物たちは両側から頂点に向かっています。

かわいい。
三つの狩猟の場面が際立っている。ライオン、翼のある竜、そしてもう一頭のライオンが、東方風の長いチュニックと幅の広いズボンに身を包んだ狩人たちの槍に突き刺さっている。その象徴的な意味は人間の罪との永遠の闘いである。
私は、男性たちの尖った顎が好きです。

5. 内観(身廊)
教会の中に入ります。
三身廊ですが、南北の側廊の幅は、中央の身廊の半分ほどです。
ヴォールトが特徴的です。

柱頭を二つご紹介します。
柱頭1
柱頭彫刻は、主に植物模様です。

柱頭2
教会に入ってすぐ左(北)側にある柱頭だけは、その四つの面に動物たちが彫られています。
南面には、ライオン。

東面には牛、北面と西面には羊たちが彫られているようです。
毛や目の彫り方が、回廊の柱頭彫刻と似ているように思います。
6. 内観(回廊)
回廊に行きます。

柱頭の特異な構造は、平行六面体で覆われた台形で、ビザンチンの影響を色濃く残している。

柱頭のほとんどは装飾がありません。
柱頭1と2
一部の柱頭には、植物模様が彫られています。
柱頭1の小さな面にある籐編みは、南扉口をふちどっている彫刻に似ています。
柱頭2は、解体された主扉口の彫刻に似ているそうです。
槍の穂先が小さな穴で装飾されてしている柱頭は、おそらく教会の取り壊された主扉口に対応するもので、州立博物館にある断片的なアーチに認められる。
柱頭3〜7
私が特に好きなのが、動物たちを彫った柱頭です。
柱頭3〜5は、翼のあるライオンだと思います。
柱頭6は、羊だと思います。
柱頭7は、何の動物だか私にはわかりません。

どの動物も、かわいい。
回廊の彫刻は、南扉口や身廊の彫刻に似ています。たぶん、同時代(11世紀末から12世紀初頭)に制作されたのだと思います。
Chiesa e Chiostro di San Benedetto。南扉口と身廊の柱頭と回廊が素晴らしいです。
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