カルピニャーノ・サレンティーノ(Carpignano Salentino)

2024年8月11日(日)、唯一訪れたのはCarpignano Salentino、Cripta di Santa Cristinaです。

ここは、岩窟地下聖堂で、魅惑的な聖クリスティーナ像があります。10世紀から18世紀のフレスコ画と碑文がいっぱいです。未解読の部分も多く、これからも新しい発見があるかもしれません。

2024年、地下聖堂の見学は予約制でした。私はNEAカルピニアーナ協会(Associazione NEA CARPINIANA)の電話番号にWhatsAppしました。
予約可能な日時は月曜、水曜、金曜、日曜の10:00〜12:00と16:00〜19:00でした。

地下聖堂の中は撮影禁止でした。

目次

1. Carpignano Salentino へ .
2. 概要 .
3. 平面図 .
4. 内観 .

1. Carpignano Salentino へ

カルピニャーノ・サレンティーノ(Carpignano Salentino)は、プーリア州レッチェ県にある町で、県都レッチェの約13km南東、州都バーリ(Bari)の約100km南東にあります。長靴のようなイタリア半島の踵の先です。

地下聖堂は町の中心にあります。

地下聖堂の入口

2. 概要

案内板による概要です。私が一部を抜粋して太字で和訳します。

サンタ・クリスティーナ地下聖堂、または、マドンナ・デッレ・グラツィエ地下聖堂は、カルピニャーノにおけるギリシャ式礼拝の存在を示す最も古い証言のひとつであり、プーリア州で最も古い礼拝所のひとつでもある。

全体が石灰岩の岩盤を掘り抜いてつくられたこの地下聖堂は、14世紀までカルピニャーノ(Carpignano)を特徴づけていた岩窟様式の集落構造の重要な一部であり、今でもその痕跡を残している。

入口は二つある。メインの入口には18世紀のファサードがあり、かつては「endonartece」と呼ばれる洗礼志願者や埋葬のための空間に通じていた。もうひとつの入口は地下聖堂に通じている。

後陣の壁には、最も有名なフレスコ画のグループがあり、一般的に、それらを描いた画家の名にちなんで「テオフィラット群」と「エウスタツィオ群」と呼ばれている。テオフィラットの絵画群は碑文から959年に描かれたことがわかり、受胎告知の場面の中央に全能のキリストで構成されている。エウスタツィオの絵画群は碑文から1020年に描かれたことがわかり、中央は玉座のキリスト、左側は聖母子、右側は2人の人物で構成されている。

岩窟に最初の絵画が描かれたのがいつなのかは定かではない。959年のテオフィラットのキリストは、おそらく最も古い絵画ではないであろう。最も新しいフレスコ画は18世紀のものである。

見学の際にNEAカルピニアーナ協会(Associazione NEA CARPINIANA)の担当者からタブレットを貸与されました。タブレットには、和訳版が用意されていました。

この後は、タブレットを引用するときに太字で書きます。(和訳版をそのまま抜粋します。)

3. 平面図

タブレットによる平面図です。東が右です。

タブレットより

1. 内部拝廊(endonartece)
2. 身廊(naos)
3. 内陣(bema)

4. 内観

地下聖堂に行きます。

聖クリスティーナの地下聖堂の重要性は主に2点あります。1点は、他のサレントにある地下聖堂に比べ、全体の絵のうちその多くが保存されていること、それにフレスコ画には正確な日付や画家や製作依頼者のサインが良い状態に保たれていることです。このことは、全くもって類を見ないもので、日付やサインのあるビザンチンのフレスコ画はカルピニャーノのものより古いものは存在しません。

地下聖堂の中は撮影禁止でした。画像は全て、私が現地で購入した絵はがきを撮影したものです。

こちらの絵はがきは、身廊から東を見た全体像です。

(E)(A)Veduta d’insieme
フレスコ画(A)

テオフィラット群(A)として知られるフレスコ画は、この地下聖堂内で一番古いものです。それはビザンチン時代の3つの壁龕のある東側の壁に位置しています

Cristo Pantocratore in trono con Annunciazione del pittore Teofilatto (959)
フレスコ画(B)

中央の壁龕(B)は、1999年の修復の際に、内部と両サイドにあるフレスコ画の断片と一緒に発見されました。以前は全て壁としっくいで埋められていました。右側のフレスコ画は少女の聖母マリアを腕に抱いた聖アンナを表わしています。特徴から見てかなり古いものと思われますが、正確な日付はなく、はっきりと分かりません。左側には、恐らく聖クリスティーナだと思われるかなり破損した絵が見られます。右上の青い部分には、INAと書かれてて、これは聖人の名前の最後の3文子のはずです。加えて、胸の前で白い十字架を閉じた拳に握りしめているのがかすかに見えます。これらの要素は、地下聖堂内の聖クリスティーナの他のフレスコ画でも見られます

中央の壁龕(B)が埋められていたため、1999年の再発見まで、(A)と(C)の二後陣と考えられていたようです。

フレスコ画(C)

エウスタツィオ群(C)として知られているフレスコ画は、東の壁の一番奥、三番目の壁龕にあります。この後陣内、キリストの玉座の右にはまた別の碑文、『主よ、あなたの使いAprile、その妻、子供たちで同じくMusopoloを覚えていてください」ー『Musopolo』はギリシャ語でミューズの崇拝者を意味しています。恐らく、芸術を愛していたAprileのあだ名だと思われます。碑文は『彼は、この寺院を修復し、神聖なアイコンで装飾した。インディクティオ年6528年、5月。画家エウスタツィオによって書かれた。アーメン』と続きます。このことにより、三連祭壇画は、画家エウスタツィオによってインディクティオ年の6528年の5月(西暦でいうと1020年)にAprileに依頼され描かれたことがわかります。

Madre di Dio (part.) del pittore Eustazio (1020)
Cristo Pantocratore del pittore Eustazio (1020)
フレスコ画(E)

柱(E)はtemplonの一部の可能性が高く、過去に少なくとも三度フレスコ画が描かれました。

templonは、内陣障壁です。聖域とその他の場所を分けます。

一番上の層は、11世紀のもので、三人の人物、左から右に聖テオドール、聖ニコラウス、聖クリスティーナがいます。ニコラウスは司教の服装で、右手でギリシャ式に祝福しています。その手は、他の体の部分と比較して大きくなっていて、祝福のジェスチャーが際立つ様になっています。パントクラトール(テオフィラットでもエウスタツィオでも)は上から持っている一方、彼は左手で、福音書を下から持っています。これは、キリストが天から言葉を授けるのに対し、司教がそれを迎え入れ、保つことを表わしています。右側には、地下聖堂の守護聖人が、司教の特徴、赤い靴、東洋の伝統により豊かに装飾された赤いマント、髪をまとめる真珠の冠(この聖人が恐らく裕福な出身であることを表わしています)を全て持ち合わせて描かれています。彼女の右手には、信仰の証である(実際彼女は聖なる殉教者です)、春に新芽を出す木の様に宝石で装飾された十字架を持っています。この絵では聖人の左手は見ることができません。恐らくtemplonの手直しにより失われたものと思われます。地下聖堂内の他の絵と比べて、この絵は、見ている人に手のひらを示しています。キリスト教言仰への攻撃を撃退するためのに払いのポーズだったのかもしれません。別の解釈では祈りのポーズだったと言われています。聖テオドールの絵は、ほぼ間違いなくアマスイアの聖テオドールティローネと思われます。ローマ帝国東部出身の兵士です。(Tironはギリシャ語で「兵士』を意味します)ローマ軍に入隊し、彼の軍隊とともにポントスのアマスイア(現在のトルコの都市アマスイア)に配置されました。キリスト教の信仰を捨てることを拒否したため殉教しました。柱にある絵では、若い男性で、白いひげではなく、黒いひげを生やしています。このことから、研究者たちは、この絵が通常白いひげを生やしている、コンスタンティノープルのストゥディオンの修道士、聖テオドールストゥディータではないと判断しました。聖ニコラウスはアナトリア半島のミュラの司教でした。彼の遺体は1087年にバーリに運ばれて来ました。それ以来、特に西洋では、バーリの聖ニコラウスと覚えられています。東方では現在でもミュラの聖ニコラウスと呼ばれています。しかし、クリスマスの頃には世界中からバーリに彼を尋ねて人々がやって来ます。

聖ニコラウスの福音伝道者の絵には一部石膏が欠けている部分があり、下には、10世紀頃のものと思われる絵が描かれている層があることが推測できます。左側、聖テオドールの絵の下には、3番目の層の一部(恐らく9世紀のもの)があります。碑文が見えていますが、まだ完全には解読されていません。しかし、Leoneという文字ははっきりと読めます。このLeoneはテオフィラット群を依頼した長老Leoneと同じ人物なのでしょうか?

Santi Teodoro, Nicola e Cristina (sec. XI)
フレスコ画(F)

北側の壁には、並んだ二つの聖クリスティーナの絵(F)があります。両方とも、典型的な聖クリスティーナの特徴を見せています。右手の拳にしっかり握られた十字架、赤いマント、真珠の冠、赤い靴などです。右側の絵はもう一方の絵より新しく、1020年位のものです。地下聖堂内のほかの聖クリステイーナとの違いは、左手に宝石箱の様なものを持っていることです。
聖人の絵の隣の、黄土色の背景には『主よ、あなたのしもべAprileとその妻と子供たちを覚えておいてください』と献辞を見る事ができます。ここでも、エウスタツィオ群(C)の様に、依頼者はAprileという人物です。両者が同一人物なのか、同じ家族の一員なのかははっきりわかりませんが、碑文にこの名前があることにより、フレスコ画がおおよそ1020年頃のものだと想像するヒントになっています。


左側の絵がより古いもので、テオフィラット群(A)と同じ年代のものです。同じ様に真珠の装飾の枠があります。残念ながら、聖人の両脇の青い部分にあった文字は、ひどくダメージを受けていて、フレスコ画がいつ頃のものか示すものはありません。

「彼の妻アナスタシア』(明らかに依頼者の妻の名前)と言う文字と、いくつかのギリシャ文字だけが残っています。もう一方の絵よりもこちらの方が製作の質が良い事に気づきます。特に聖人のまなざしはとても魅力的で、見ている人が地下聖堂内で移動するのを追う様に見える描き方をしています

地下聖堂で実物をみると、左の聖クリスティーナに魅了されます。

Santa Cristina
フレスコ画(Q)

写真はありませんが、興味深いと思ったのでご紹介します。

西壁の残りの部分、最後の絵(Q)はビザンチン時代の聖マリーナと長い間思われていました。ところが、2003年の修復で、翼の一部(左側、角に向かって)があらわになりました。これにより、この絵が大天使であるとわかりました。女性的に見えた顔は、実際は両性具有でした。恐らく癒しの天使、大天使ラファエルでしょう。だとすれば、西側の癒しの聖人達とうまく収まります。

またこの絵には、大天使ミカエルに典型的な胸の前でクロスするloros(皇帝のドレス)が見られませんし、受胎告知に出て来る大天使ガブリエルではあり得ません。この絵が大天使であって、以前じられていた聖マリーナを表わしていないという事実によって、二人の守護聖人という仮定を完全に除外することになりました。地下聖堂の守護聖人は、疑いなく聖クリスティーナで、18世紀以降はMadonna della Grazieです。さらに、この二人だけが教会の恩恵を受けていて、聖マリーナであったことは一度もありませんでした。

長年、聖女だと思っていたら大天使ラファエルだったとは、びっくりです。

Cripta di Santa Cristina。岩窟地下聖堂で、魅惑的な聖クリスティーナ像があります。10世紀から18世紀のフレスコ画と碑文がいっぱいです。未解読の部分も多く、これからも新しい発見があるかもしれません。

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